14/05/09 13:13:16.67 0
>>512
悪い自分が出てきたとき、「それでもいいよ、と受け入れる」 ということは、
「悪いことをしてもいいよ」 という悪の肯定じゃなくて、「悪いことをしたのは仕方が無いんだ」 と受け止めること。
他力というのは、「悪業」と「念仏の心」を完全に切り離してる。
「ハスの花は泥に塗れず咲いている。」 という時、ハスの花の視点で「泥に塗れても花は一つも汚れない」 というんであって、
花もなく、ただ「泥そのままでいいんですよ」というのと訳が違う。
泥の無い花では、いつまで経っても救われない。
「悪いことは一切関係ない」っていうのは、業の世界の肯定じゃなくて、業の世界の否定なんだよ。
もしも「悪いことは悪い」と断罪するんなら、それは業を掴んでることになる。
まさに、泥の中で泥を洗うようなことになってしまう。
悪いことも良いことも、全て阿弥陀様にお任せという時は、分別思考(泥)を全て阿弥陀様にお任せして、
泥から離れるってこと。
泥の一部分を、良い悪いと、泥の中で分別するんじゃなくて、泥の中から出てしまう。 それが念仏の功徳なんだよ。