14/05/08 11:37:30.51 0
>>480
人が真実信心によって念仏を唱える時、それは縁起の世界に自己を置いているのと同じ。
縁起の世界=無限の世界=阿弥陀仏
縁起の世界に自己がある時、そこに自我はない。
自我が無いとき、自己はすべての世界の存在と完全に結びついてる。
そのとき自己は、他のすべての存在から守護を受けているといってもいい。
それが、現世利益和賛に言われている、仏や菩薩、善神たちの守護なんだよ。
自我の願いによって、自力の祈願によって守護を受けると思ったら、大間違い。
エゴを満足させるような祈願は、念仏じゃないよ。
念仏を唱えていても、重病になる人もいるだろう。事故や不運に合う人もいる。
そういう事象に捉われず、すべてを任せきってありのままになったとき、そこに本当の意味の幸せがり、浄土がある。
事故や不運を無くすことが幸せなんじゃない。 そこを越えることが幸せなんだよ。
それが仏教なんだよ。
エゴを満足させている以上、また次の不都合が起きる。いくら利益があったってキリが無い。
そこを越えること。
水瓶の蓋を満足させるんじゃなく、蓋をとって中の水に月の光を映すのが、真の現世利益だ。
あるがままっていうのは、月の光を一生懸命受けよう、受けようとするんじゃなくて、
蓋を外してただ水面に月を映すことだ。
蓋を外せば自然に月の光が映ってくる。 それが他力に任せるということで、それが阿弥陀仏の救いということ。