14/05/07 23:24:37.72 0
>>478
どう読んだら477を、世俗的平等と読めるのだろうか?
平等心というのは、空性の平等そのものだよ。
あなたは何かを勘違いしている。
もし、念仏によって救ってもらえる、救ってもらおうと考えているのであったら、
それこそ近代的な誤解釈というべきだろう。
近代的というか、当時でも自力念仏とかあったよね。
こういう間違いを犯す人はいつの時代にも出てくる。
阿弥陀の救いをある種のオカルトように考えている。 オカルトというのは聞こえが悪いが、スピリチュアル的に考えている。
阿弥陀をある種のスピリチュアル的な存在と考えていて、それが救ってくれると思ってる。
そういう考えこそ、世俗的な他力だよね。
それじゃ、仏教の空性から外れてしまう。
もし世俗的な他力、救いというならば、逆に阿弥陀の本来の素晴らしい救いを、限定的なものにしてしまう。
477を世俗的平等と見ているところがもうダメだ。
禅でもこういう勘違いをする人が多い。
雑念を無くすために統一する。 心を落ち着けるために座禅をする。 苦悩を無くすために座禅をする。
「~の効果を得るために座禅をする」 というやつ。
雑念があっても無くても、苦悩があっても無くても、平安であっても無くても、そこに捉われないのが禅なんだよ。
念仏も同じ。
二項対立の自分があっても構わない。そういう分別の世界を超えて救われているのが、念仏の意義なんだよ。
悪い自分と良い自分を平等にしよう、ってことじゃないよ。
悪い自分、良い自分に捉われない、中道ってこと。
捉われない境地、中道において平等なんだよ。