14/05/07 05:40:30.35 0
朝早いですね。住職さんですか?
俺は自律神経失調症で眠れないヤツ。
471:考える名無しさん
14/05/07 05:46:57.87 0
>>470
最近、毎朝四時半ぐらいに猫に起こされてます
寝る前に座って、アミダさんなり観音さんなりのご名号を千回とか一万回とか
唱えてみてはどうでしょう。
お姿を思い描きながら、唱えると緊張がとれて眠くなるかもです
寝なくちゃとか思わないで気軽にリラックスしてやってみてください
472:考える名無しさん
14/05/07 05:58:36.97 0
他力というのは波平が前いってた?ようにただ念仏を唱えれば
救われるといった方が民衆は理解しやすいし迎合しやすいだろう
というものではなく、念仏をすることで他力本願に近づくという
もっと深い部分での人間の自然な「救い」を体現するのに念仏を
唱えるといった意味を持つものだろう。
人間は自然なものであり、その心や精神も無理矢理に苦行で矯正していく
ものではなく、あるがままを体現していれば自然と阿弥陀仏が救ってくれる
といったものでり、念仏はその手助けとなる。信仰の意味みたいなものを
繰り返していく行為だと思う。または霊的な意味も宗教だからあるだろうが
私も他力の教えには感動し、傾倒している。
涙がでてくるほど優しいことをいっているんだと思うよ。
「あるがままでいいんだ。自分(自力)より大きなもの(他力)に従おうよ。
そうやって自然に生きていれば必ず阿弥陀仏が救ってくれるから
人間が自然でいることはすばらしい。生きよう自分自身(他力)を」
って意味じゃないかな?
嘆異抄を読んでそう思った。
473:考える名無しさん
14/05/07 06:22:25.92 0
>>471
メンヘラに念仏って効くのかな。今度やってみます。
474:考える名無しさん
14/05/07 07:36:12.03 0
>>472
>「あるがままでいいんだ。自分(自力)より大きなもの(他力)に従おうよ。
>そうやって自然に生きていれば必ず阿弥陀仏が救ってくれるから
>人間が自然でいることはすばらしい。生きよう自分自身(他力)を」
こういうのが近代教学の誤解ね
親鸞上人も明らかに仏教の枠内で念仏を説かれててると確信する
そう思えない人は、七里恒順師か山口益先生の本を読むといい。
>>473
効く効く、信があればアミダ、観音が救わないものはない
475:考える名無しさん
14/05/07 09:05:27.14 0
>こういうのが近代教学の誤解ね
親鸞上人も明らかに仏教の枠内で念仏を説かれててると確信する
何いってんの?近代教学の誤解ってあんたが誤解してんでしょう。
親鸞のどこからとってきて誤解とか決めつけてんの?
山口益先生の何から発言してんの?
476:考える名無しさん
14/05/07 12:03:11.68 0
阿弥陀ババァか。。
477:考える名無しさん
14/05/07 17:14:49.84 0
念仏が、「効く、効かない」、じゃないぞ。
「効く、効かない」は、仏教じゃない。
ここが分からないと、浄土門の念仏は分からないだろ。
浄土門はとくに、平等心を大切にする。
禅も同じ。分別を無くすことが、仏教の目標なんだよ。
どんな自分でもお任せする。ありのままでいい。
こういう自分はダメだ、ああいう自分はダメだ、苦を楽にして欲しい、
なんとか今の苦境を救って欲しい、← これじゃ、正しい念仏とは言えないよ。
親鸞は昔、疫病に苦しむ村を通りかかったんだよな。
そしてその村人達を救おうと、浄土三部経を千部読誦しようとした。
お経を読むことによって村人を救おうなんて、阿弥陀様の救いを信じていないってことになるんだよね。
阿弥陀様に全てをお任せすることが出来てない。
本当の信心ってのは、良い自分も悪い自分も、すべてお任せ。
嫌なものが出てきたから、これをお任せ出来なくて取り除こうってのは、阿弥陀様の救いを信じられていない証拠。
救いが確定しているから、「このままでいいよ」と許される。
これが本当の他力なんだよ。
悪いものを取り除いてもらうための念仏なら、それは自力だ。
478:考える名無しさん
14/05/07 19:47:45.73 0
>>477
君のは近代真宗教学内では、そうなんだろうが、
仏教的には全く違う。
>>472
>>「あるがままでいいんだ。自分(自力)より大きなもの(他力)に従おうよ。
>>そうやって自然に生きていれば必ず阿弥陀仏が救ってくれるから
>>人間が自然でいることはすばらしい。生きよう自分自身(他力)を」
上の根拠は、浄土三部経、十住論、浄土論、親鸞著作にあるのかい?
示せないなら、仏教というのは止めた方がいい。
因みに仏教でいう平等心というのは世俗的な意識での平等ではない
勝義、空性での平等に他ならない。
それを世俗因果内での平等と捉えたら無茶苦茶だ。
479:考える名無しさん
14/05/07 23:24:37.72 0
>>478
どう読んだら477を、世俗的平等と読めるのだろうか?
平等心というのは、空性の平等そのものだよ。
あなたは何かを勘違いしている。
もし、念仏によって救ってもらえる、救ってもらおうと考えているのであったら、
それこそ近代的な誤解釈というべきだろう。
近代的というか、当時でも自力念仏とかあったよね。
こういう間違いを犯す人はいつの時代にも出てくる。
阿弥陀の救いをある種のオカルトように考えている。 オカルトというのは聞こえが悪いが、スピリチュアル的に考えている。
阿弥陀をある種のスピリチュアル的な存在と考えていて、それが救ってくれると思ってる。
そういう考えこそ、世俗的な他力だよね。
それじゃ、仏教の空性から外れてしまう。
もし世俗的な他力、救いというならば、逆に阿弥陀の本来の素晴らしい救いを、限定的なものにしてしまう。
477を世俗的平等と見ているところがもうダメだ。
禅でもこういう勘違いをする人が多い。
雑念を無くすために統一する。 心を落ち着けるために座禅をする。 苦悩を無くすために座禅をする。
「~の効果を得るために座禅をする」 というやつ。
雑念があっても無くても、苦悩があっても無くても、平安であっても無くても、そこに捉われないのが禅なんだよ。
念仏も同じ。
二項対立の自分があっても構わない。そういう分別の世界を超えて救われているのが、念仏の意義なんだよ。
悪い自分と良い自分を平等にしよう、ってことじゃないよ。
悪い自分、良い自分に捉われない、中道ってこと。
捉われない境地、中道において平等なんだよ。
480:考える名無しさん
14/05/07 23:37:55.47 0
>>479
なるほど、平等心は誤読だった
それは認めるけど、君の主張する近代教学は排他的で認めがたい。
どうせ異安心とか言うタイプでしょ。そもそも浄土教が方便道の一つであることに理解がないように思う。
親鸞上人は『現世利益和讃』も説かれてるし、他でも利益、効果も説かれてるけど、それと君のような近代教学とは矛盾するよね。
URLリンク(21dzk.l.u-tokyo.ac.jp)
それと以下は君の文だと思うが、これの根拠が親鸞上人の著作にあるのかい?
示せないなら、近代教学と親鸞上人でさえ違ってることに自覚されてたし。
仏教一般は尚更だ。
>>472
>>「あるがままでいいんだ。自分(自力)より大きなもの(他力)に従おうよ。
>>そうやって自然に生きていれば必ず阿弥陀仏が救ってくれるから
>>人間が自然でいることはすばらしい。生きよう自分自身(他力)を」
481:考える名無しさん
14/05/08 01:25:18.52 0
母は何十年も仏教をやってるけど色即是空の意味も知らない
有難さや得が耳から入ってくると言っている
うろ覚えだが、これは偶像崇拝といい、仏教徒の誰かが禁止していたような
母には酷なので教えないけど
482:考える名無しさん
14/05/08 01:56:35.95 0
>>481
いや、それで良いんだよ。
知る知らないは関係ない。信じること即救われることなんだから、
お母さんは既に救われてる。
483:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/05/08 04:55:20.90 0
>>479 :考える名無しさん:
>悪い自分、良い自分に捉われない、中道ってこと。
なんか違うと思うぞ・・・
悪い自分に気づいた時点で救われている・・・と言う感じでは?
そこに「悪い自分」と言うあるがままを受け入れたからだ。
>>481 :考える名無しさん:2014/05/08(木)
>偶像崇拝といい、仏教徒の誰かが禁止していた
例えば 念仏を唱えるのは、唱えている間は余計な事は考えないだろうと言う効果です。
それを念仏を唱えたから往生できると考えてしまっては元の子も無い。
484:考える名無しさん
14/05/08 05:07:58.66 0
>>482
>お母さんは既に救われてる。
信じることが救われることじゃない
アミダへの親鸞上人的な金剛心ができるのは稀有なことだ
そこが全く分かってない
>>483
>悪い自分に気づいた時点で救われている・・・と言う感じでは?
また、適当なことを
485:考える名無しさん
14/05/08 05:39:58.89 0
>>481
>うろ覚えだが、これは偶像崇拝といい、仏教徒の誰かが禁止していたような
偶像崇拝というのはセム系宗教の言葉で、仏教の言葉ではないですね
恐らく日蓮系の人がそんなこと言ってるんでしょうが、
日蓮自体が非仏教なので、全く勘違いです。
>母は何十年も仏教をやってるけど色即是空の意味も知らない
>有難さや得が耳から入ってくると言っている
仏教は道が色々あって、こういう道もあります。
その一つが浄土教、アミダの教えです。
だから、お母さんは真っ直ぐな信があり、アミダや観音を信じているなら大丈夫です。
486:考える名無しさん
14/05/08 08:42:42.17 0
介護やら、リストラやら、病気やら、人生詰みそうだ。仏教に救いを求め、四法印を胸に刻んでも、現実の苦悩が減らない。
この先、仏教で俺は救われる事があるのだろうか?
487:考える名無しさん
14/05/08 08:45:27.15 0
>>486
あると思うけど、それは本人次第だと思う
488:考える名無しさん
14/05/08 09:06:16.77 0
>>487
そうですか。。。。
489:考える名無しさん
14/05/08 09:31:13.77 0
>>488
そうですとも
仏の教えは素晴らしいですから
それと四諦の一番目は苦諦ですから、生は苦しいに決まってます
釈尊でもアミダでも観音でもいいですから、好きな本尊を観想して
起きた時と寝る前に五分、座ってみてください。
490:481
14/05/08 11:07:36.40 0
>>485
でも母は救われるとか、これで家族は大丈夫、とか考えて信じているようなのですよ
しかし「色即是空空即是色」は、実態は変化しない、という意味ですよね?
変化を望んでいるのに、変化するものは無い、と唱え続けるのはどうなのですかね?
「色即是空空即是色」は、何かひどい目に合っても実態は変化していないから悲しむ事は無いよ、というような意味もあるのではないかと思うのですが、
多分母は家族がひどい目にあったらメチャ悲しむと思うのです
>アミダや観音を信じているなら大丈夫です
あとこれはどういう意味でしょうか?
491:考える名無しさん
14/05/08 11:37:30.51 0
>>480
人が真実信心によって念仏を唱える時、それは縁起の世界に自己を置いているのと同じ。
縁起の世界=無限の世界=阿弥陀仏
縁起の世界に自己がある時、そこに自我はない。
自我が無いとき、自己はすべての世界の存在と完全に結びついてる。
そのとき自己は、他のすべての存在から守護を受けているといってもいい。
それが、現世利益和賛に言われている、仏や菩薩、善神たちの守護なんだよ。
自我の願いによって、自力の祈願によって守護を受けると思ったら、大間違い。
エゴを満足させるような祈願は、念仏じゃないよ。
念仏を唱えていても、重病になる人もいるだろう。事故や不運に合う人もいる。
そういう事象に捉われず、すべてを任せきってありのままになったとき、そこに本当の意味の幸せがり、浄土がある。
事故や不運を無くすことが幸せなんじゃない。 そこを越えることが幸せなんだよ。
それが仏教なんだよ。
エゴを満足させている以上、また次の不都合が起きる。いくら利益があったってキリが無い。
そこを越えること。
水瓶の蓋を満足させるんじゃなく、蓋をとって中の水に月の光を映すのが、真の現世利益だ。
あるがままっていうのは、月の光を一生懸命受けよう、受けようとするんじゃなくて、
蓋を外してただ水面に月を映すことだ。
蓋を外せば自然に月の光が映ってくる。 それが他力に任せるということで、それが阿弥陀仏の救いということ。
492:考える名無しさん
14/05/08 11:45:23.48 0
>>483
>そこに「悪い自分」と言うあるがままを受け入れたからだ。
悪い自分をあるがままに受け入れるということは、悪い自分に捉われないということと同じ。
あるがまま=捉われない=全てを受け入れる まったく同じ意味。
良い自分、悪い自分に捉われないというのは、たとえ悪い自分が出てきても、それはダメだというんじゃなくて、
それでもいいよと受け入れること。 そのまま。ありのまま。
捉われがあるから、あれじゃダメ、これじゃダメ、とやっちゃう。
493:考える名無しさん
14/05/08 11:46:20.12 0
>>490
大丈夫
色即是空などは、般若によって戯論寂滅の境地に至る道で知的に文を理解しても、
そんなに意味はない禅定に入って般若観しないとほとんど意味がないです。
もちろん『般若心経』を唱えることは功徳になり意味がありますが。
アミダや観音は他を救うことを誓願していますので、
今、アミダや観音を信じて称名すれば利益がありますから。
こちらは般若の道とは全く違うので、禅定や般若観などができなくても効果ありますから、大丈夫です。
心配御無用
494:考える名無しさん
14/05/08 11:48:29.79 0
>>491
そうやったらそういう保障が無い救いを信じられるのでしょうか?
エゴがどうしても拒否するのですが
495:考える名無しさん
14/05/08 11:59:18.56 0
>>491
だから、親鸞上人の文献のどこにそんなこと書いてあるの?
近代教学がそんなことを言うのは知ってるが、
それは仏教はもちろん、親鸞上人に根拠ないんじゃないか、と聞いてるので、
親鸞上人の文献を引用せずに観念的に色々述べても全く根拠にならないって分からないかな?
そんなこじつけの付会じゃ、なあ。
496:考える名無しさん
14/05/08 12:02:21.32 0
>>493
アミダや観音の誓願にはどうして効果があると言えるのでしょうか?
497:考える名無しさん
14/05/08 12:02:28.09 0
>>491
最終的に似たような境地もあるけど、
こういう現代教学は、たんなる観念的な気休めの現状肯定に堕していて、
仏教とはほとんど関係ない唯の詭弁だと思う
もし、こういう説を真宗が取るなら、それは仏教一般とは相容れない。
498:考える名無しさん
14/05/08 12:07:05.91 0
>>496
過去に聖者がそれを信じて結果を出したからです。
江戸時代なら日本でも沢山あり、戦前ぐらいまでは残っていました。
現代でもチベット系では沢山そのような結果が出ています。
それが信じられるかどうか、それが仏教の門であり、
特に浄土教は信が要であることは、親鸞上人も法然上人も源信上人も
シナやインド、チベットの聖者も口を揃えています。
499:考える名無しさん
14/05/08 12:21:50.32 0
>>490
>「色即是空空即是色」は、実態は変化しない、という意味ですよね?
実態は変化しない、という意味ではなく、逆に諸行無常を言い表していると思いますよ。
実態があると思われているものは、常に変化変滅していて、実は実態がない・・・
だから、苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、それらに実態はなく(空)、 消え去っていく。
消え去るものを追うから、苦しみが付きまとう。
>>481のお母さんの信仰は、それで良いと思いますよ。
普通のご利益信心より、一歩上だと思います。
500:考える名無しさん
14/05/08 12:29:57.39 0
>>499
そんな解釈はインド・チベット・シナ・日本の聖者の解釈とは全く違うんで
そういう気休めが和辻以来の常識への阿諛追従で日本仏教を骨抜きにしてきたと思うは
501:考える名無しさん
14/05/08 12:35:07.52 0
>>500
「色即是空空即是色」をインド・チベット・シナ・日本の聖者たちはどう解釈してるの?
502:考える名無しさん
14/05/08 12:36:46.67 0
>>494
信仰というのは、信じられるか、信じられないか、って問題だから、
信じられないのなら、無理に信仰する必要はないでしょう。
時節が来れば信仰出来るようになるかもしれないし、また、この宗教だけが救いの道だってわけでもない。
自分に合った道を見つければいい。
503:考える名無しさん
14/05/08 12:38:56.37 0
>>500
「空」というのは「自性」が無いことで、これが「諸行無常」だよ。
解釈もクソもない。
504:考える名無しさん
14/05/08 13:04:42.80 0
>>495
では、あなたは何が言いたいの?
言いたいことが見えてこないんだけど。
念仏に力があって、あらゆる危難から守られる、ってことが言いたいのかな?
>>497
>たんなる観念的な気休めの現状肯定に堕していて
観念的な現状肯定、気休めではないよ。
悪い物もそのまま受け入れましょうってのは、ただ逃げられないからその中にいましょう、ってことじゃない。
我、分別によって、苦しみの捉われが起こる。
それをそのままにしておけっていうんじゃ、いつまで経っても苦しみは無くならない。
苦しみが無くなるには、全てを預け切って任せる場所が必要。
それが念仏なんだよ。
全てを預けきるとは、どのような苦しみがあっても、そこを超えた世界に身を置くということ。
これはヴィッパーサナにおける観察と同じだろ。
この業の世界から、それを超えた世界に意識を移す、思考分別の世界から離脱するってこと。
離脱もなく、ただ苦しみのウズの中に巻き込まれているだけの観念的な現状肯定じゃないよ。
505:考える名無しさん
14/05/08 14:16:02.09 0
>>501
そりゃ大変だぜ
親鸞上人の典拠も出せないヤツになんで見せなきゃならない
>>503
空性は無自性ならいいが、空が「自性」が無いことというのは違うな
そして諸行無常とも微妙に違う。
そしてまた、空性を見解や思想として捉えてしまってはどうしようもない。
般若にしろ中観にしろ、見解を寂滅する道で、見解を掴むじゃない。
日本の仏教学は、ほとんどそうなってしまってる。
山口益先生は数少ない例外なんだよ。
>>504
単に君は現代真宗教学しか知らなくて、そういう変な知識で仏教語るなってことって分かりそうなもんだけど
まあ、もう言うことは言ったからもう辞めとくは。
山口益『大乗としての浄土』を前提に親鸞上人を真宗聖典などを読めば明らかに真宗現代教学がおかしいのは分かると思う。
手っ取り早く末木文美士『浄土思想論』でも充分だ。
インド・チベット・シナ・日本と20年かけて学べとは言わんが、上ぐらい一ヶ月ぐらいかけてやった方がいいぞ。
506:考える名無しさん
14/05/08 16:42:10.11 0
>>498
>過去に聖者がそれを信じて結果を出したからです。江戸時代なら日本でも沢山あり、戦前ぐらいまでは残っていました。現代でもチベット系では沢山そのような結果が出ています。
アミダや観音の誓願の効果を知りたいです。
いくつか具体例を教えてくれませんか?
オカルト的な結果になるんでしょうか?
皆さんスルーしているので、不思議です。
507:考える名無しさん
14/05/08 17:40:47.97 0
>>505
「空性」も「空」も同じ。
「無自性」も「自性が無い」も同じ。
山口益って現代人だよね?
現代人の解釈による真宗なら、それもまた広い意味で、真宗現代教学とも言えるんじゃないの?
そんなにすごいなら、その主張をここに書いてみればいいのに。
きっと何かの参考になるだろう。
508:考える名無しさん
14/05/08 19:44:37.75 0
>>506
オカルトとかではなくて、生死を越えた境涯を達成したということなら、
「妙好人」の人達がいるでしょう。
509:考える名無しさん
14/05/08 20:16:44.57 0
>>508
妙好人をぐぐって、分かりました。
510:考える名無しさん
14/05/08 20:48:05.87 0
>>506
例えば、親鸞上人は二つの夢告が重要です。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(21dzk.l.u-tokyo.ac.jp)
江戸時代は、妙好人以外でも弾誓上人、称名念仏のみで自然智を得て浄土法界を体得した徳本行者、不断念仏を行い死後舎利を残した祐天上人など枚挙にいとまありません。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
また観音の霊験は白隠禅師が詳しく『延命十句経霊験記』に書き留めています。
白隠禅師は『十句観音経』の霊験を讃えた後に一転してそれらは「ただ世間的あり様、有為の夢幻・空華の談論」と述べています。
これを霊験譚を方便説と解釈する方がいますが、これは原始仏典で釈尊が始めに施・戒・生天、つまり輪廻と出離の功徳を説き、
後で無我・空の教えにより、それら因果も無我・空であると説かれたのと同じでしょう。
つまり「ただ世間的あり様、有為の夢幻・空華の談論」と観音の霊験談を述べます、それは確かに幻で空です。
ですが、それは我々が知覚する対象すべて幻で空なだけで、その場合、実在など何もないという意味です。
言い換えると観音の霊験と世間の現実、どちらも世俗では効果がありますが、勝義ではどちらも幻という意味に他なりません。
信じる信じないは別にして仏教はこういう意味では一貫してます。
511:考える名無しさん
14/05/08 21:11:44.23 0
>>510
>言い換えると観音の霊験と世間の現実、どちらも世俗では効果がありますが、勝義ではどちらも幻という意味に他なりません。
すごく良く分かりました。
詳しい説明ありがとう。
512:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/05/09 01:03:37.61 0
>>492 :考える名無しさん:2014/05/08(木)
>たとえ悪い自分が出てきても、それはダメだというんじゃなくて、それでもいいよと受け入れること。
それは酷いんじゃあないの?
人を殺して懺悔してる人に、「良いのいいの殺してもいいの」という訳?
513:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/05/09 01:13:27.54 0
>>490 :481:2014/05/08(木)
>「色即是空空即是色」は、何かひどい目に合っても実態は変化していないから悲しむ事は無い
>>351 :じいさん ◆6rgGIYz09M :2014/04/11(金)
にも書いたが心経の趣旨は「色即是空」ではなく「五蘊皆空」なので、そこんとこ宜しく。
それにしても「実態は変化していない」とは酷い解釈、逆です。
実体はない、生もない、だから生まれても居ない、しからば酷い目に逢っても悲しむ自分も居ないだろう・・・・
と言った意味です。
514:横で亀ですが
14/05/09 04:10:12.18 0
>>465
>阿弥陀様が救いを確定して下さっている。
>だからいちいち何かを変えようとしなくていい。
>全てを阿弥陀様にお任せすればいい。
>そのまま、ありのままでいい。
>これが他力の信仰です。
これは親鸞上人の消息文に反してるので、(まともに聖教を読む限り)明確に否定されますね
「ふかくちかいをも信じ、阿弥陀仏をもこのみもうしなんどするひとは、もとこそ、こころのままにて、あしきことをもおもい、あしきことをもふるまいなんどせしかども、
いまは、さようのこころをすてんとおぼしめしあわせたまわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめ。」
URLリンク(www.icho.gr.jp)
煩悩そのままではない、悪しき行いを翻すのが親鸞説です
で、真偽問題をいう人が出てくると思うので言っておくと、
これは妙好人(赤尾の道宗)によっても支持される信心理解です。つまり証によっても確かめられているので、後代の改竄ではない
「冥の照覧と存候て、人しり候はすとも、あしきことおはひるかへす候へき事。」
URLリンク(www009.upp.so-net.ne.jp)
515:考える名無しさん
14/05/09 05:47:03.98 0
>>513
また、適当なことを
516:考える名無しさん
14/05/09 06:12:49.93 0
>>514
どうもありがとうございます。
ちなみにこのような近代教学と伝統教学は、今真宗内でどの程度普及信仰されてるのでしょうか?
517:考える名無しさん
14/05/09 06:38:10.18 0
>>516
すいません
ただの好事家なので真宗信者ではないし、現場の真宗事情はまったくの無知です
ただネットで門徒の方と話してみた限りでは聖教や伝統的理解に基づいてなにか語ってる人というのは皆無で
近代教学の独壇場といった感じですね
チベットと真宗を並行で学んでおられた女性が一人だけいて、彼女だけが例外です
518:考える名無しさん
14/05/09 07:04:09.65 0
>>517
ありがとうございます。
チベットの浄土教も一般には日本の浄土教と同じなんですが、
日本に紹介されているのはゲルクの特殊な浄土教否定説ばかりで困ったものです。
近代仏教は清沢満之や和辻の罪が大きいと思うのですが、以下の論考はもっと現場のあり方を扱っていて、とても新鮮でした。
URLリンク(repo.komazawa-u.ac.jp)
519:考える名無しさん
14/05/09 08:20:52.97 0
>>518
ゲルク派が浄土教否定というのは初めて聞きました。ダライラマ法王はそのような立場ではないと思うのですが
論文の池上氏は近代的な合理主義から抜け切れていないけれど、刺激的な知見が多いと感じました
熟読せねば
優れた論文のご紹介ありがとうございます
520:考える名無しさん
14/05/09 08:37:24.32 0
>>519
ダライ・ラマ猊下はもちろん違います。
ゲルクでも悪霊派というゲルク原理主義がありまして、
ゲルクの中でかなり有力な勢力です。
それが浄土教を否定しています。浄土教というかゲルク原理主義以外全て否定というのがその本質だと思います。
これは日本でいうと日蓮宗や真宗の排他性に近いと思います。
ダライ・ラマ猊下はそれを否定し排除に努めております。
そして悪霊派はダライ・ラマ猊下を否定しています。
521:考える名無しさん
14/05/09 13:13:16.67 0
>>512
悪い自分が出てきたとき、「それでもいいよ、と受け入れる」 ということは、
「悪いことをしてもいいよ」 という悪の肯定じゃなくて、「悪いことをしたのは仕方が無いんだ」 と受け止めること。
他力というのは、「悪業」と「念仏の心」を完全に切り離してる。
「ハスの花は泥に塗れず咲いている。」 という時、ハスの花の視点で「泥に塗れても花は一つも汚れない」 というんであって、
花もなく、ただ「泥そのままでいいんですよ」というのと訳が違う。
泥の無い花では、いつまで経っても救われない。
「悪いことは一切関係ない」っていうのは、業の世界の肯定じゃなくて、業の世界の否定なんだよ。
もしも「悪いことは悪い」と断罪するんなら、それは業を掴んでることになる。
まさに、泥の中で泥を洗うようなことになってしまう。
悪いことも良いことも、全て阿弥陀様にお任せという時は、分別思考(泥)を全て阿弥陀様にお任せして、
泥から離れるってこと。
泥の一部分を、良い悪いと、泥の中で分別するんじゃなくて、泥の中から出てしまう。 それが念仏の功徳なんだよ。
522:考える名無しさん
14/05/09 13:21:43.22 0
>>521
そういう境地はある任運とか、サハジャーとか無功用とかあるけど
ほんと空性体験に留まれるような高度な境地なんで、
いきなりそんなこと言っても、初心者は単なる現状肯定か、気休めしか思えないし
恐らく現代真宗教学者もアナタ自身も単なる言葉で観念的にしか理解してないとしか思えないんですね。
ほんとに慈悲に溢れた妙好人や七里老師にような方が言うなら、納得できるけど
523:考える名無しさん
14/05/09 13:25:48.25 0
補足すると、そういう境地の方は必ず菩提心を起こし、誓願を立て、普賢行の中で述べられます。
そうでなく智の側面だけで捉えるというのが現代教学や現代仏教学、野狐禅などの特徴ですね。
そうなるともはや、大乗仏教ではないと思います。
524:考える名無しさん
14/05/09 13:32:14.71 0
>>514
その文章は、深く信仰に入った人の境地を抜き出していますよね?
「仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには」「ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏をも好みまうしなんどするひとは」
これは深く信心が確定している人の境地です。
こうなると、業の世界から離れているので、それに捉われることも無くなってくる。
我が無くなって自然(阿弥陀、浄土)と調和してる状態なので、その行いは自然と調和する方向に向かっていく。
だから悪い行いは自然としなくなる。
浄土の行いが自然と出てくる。
問題は、あなたの挙げた文章の、その前の文章だよ。
深く信心が確定した人の態度じゃなくて、凡夫の態度だよ。
「はじめて仏のちかひをききはじむるひとびとの、わが身のわろくこころのわろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずるといふひとにこそ、煩悩具足したる身なれば、
わがこころの善悪をば沙汰せず、迎へたまふぞとは申し候へ」
>悪しき行いを翻すのが親鸞説です
悪しき行いを翻すってのは、ハスの花の立場だよ。
泥の中で、「あの泥はいい、この泥は悪い」 ってやるんじゃない。
深い信心の中から出てくる良い行いってのは、分別の世界を超えてるんだよ。
自然に出てくるもの。
自分が意図していい行いをしたり、悪い行いをしないようにするってことじゃない。
自然にそうするようになるってこと。
525:考える名無しさん
14/05/09 13:38:46.61 0
>>522
「で」あるからだよ、だからこそ、「他力」なんだよ。
だからこそ、「全てを阿弥陀に任せる」んだよ。
自分の力ではどうにもならない。 業の世界というのは自分の力に関係なく出てくる。
ある時は怒りが出てきて、ある時は人を傷つけてしまうかもしれない。
それはもう自分ではどうしようもない。
だからこその念仏であり、だからこその信心なんだよ。
ここに阿弥陀様がどんな人でも救ってくださるという意義が出てくる。
526:考える名無しさん
14/05/09 13:40:54.83 0
>>524
分かってないな
唯の観念論
現代教学を是として論じても間違いは分からないよ
もし、文献的にやるならインドからキッチリ追ってかないと無理
真宗学の「深心」とかで解釈しても仕方ない
それをやるなら十地・五道などをきっちり梵パ蔵漢に渡ってトレースしていかないと仏教としては語れない
少なくともここでは現代真宗学で語っても、ほとんどの人は納得しないぐらい気づいてくれよ
527:考える名無しさん
14/05/09 13:45:00.89 0
>>525
いやいや、細かい違いをすっ飛ばして適当に観念的に勝義の境地に持っててるのが、真宗現代教学でしょ
そもそも念仏などの浄土教は往生のための称名と信が重要で親鸞上人もそう。
現代教学はそういう部分を切り落として現代人に合わせて口当たりよく適当にいってるだけでしょう。
もっともそういう方便もありだろうけど、それを王道と説かれてはなあ
まあ、アナタに通じないことは良くわかった
528:考える名無しさん
14/05/09 14:02:36.23 0
もしも「怒りは悪い」、と決め付けてしまったら、怒りが抑えられない度に、「自分はダメだ~」と思うだろ。
そして、「こんな自分じゃダメだ」と、怒らないように怒らないようにと、自分の力で抑えようとする。
しかし、業ってものはそんなに甘いもんじゃない。
いくら抑えても抑えても、どんどん出てくる。
抑えきれるもんじゃない。
もしもそういうのを自分の努力でなんとかしないといけないって言うんなら、それは浄土門じゃない。
他力でもなんでもない。
親鸞がなぜ「悪いことをしてはならない」と言ったのか。
本来、この世の悪行というのは浄土(悟り)の世界を一切汚すことが出来ない。
業の世界というのは浄土(悟り)の世界に一切影響しない。
夢の中でいくら悪いことをしても、起きている人には一切影響しないのと同じ。
だからといって、いつまでも夢を楽しんでいいって話じゃない。
仏教本来の目的は、夢の中から脱すること。
夢の中が、苦そのものなんだよ。
苦の世界から脱するのが念仏の意義なのに、いつまでも苦の世界に捉われて、それを良しとする人がいる。
「あ~、自分はいつまでも夢の世界に捉われていてはいけないな、ここから抜け出たいな」 と思ってる人にこそ、
「夢の中の善悪に捉われるな。 すべてをお任せして、なるべく夢の世界から離れていきなさい」 っていうのがこの教えの重要なポイントなんだよ。
善悪は関係ないという言葉を聴いて、「夢の中でどんなに悪いことやったって関係ないんだ、夢の中でどんどん悪いことやろう」 って人が出てきた。
これじゃあ、夢の中にどんどん捉われていって、夢から抜け出せなくなるよね。
だから親鸞が「悪いことはいけない」と言う時は、「この世の善悪に捉われるな」と言ってるのと同じなんだよ。
悪いことを好んでするのも、悪いことへの捉われ。
悪いことを断罪するのも、悪いことへの捉われ。
どちらも否定しているのは、「捉われ(業の世界)」だよ
529:パンの耳
14/05/09 14:56:04.96 0
錨 の マーク見ながら
意味を wiki ってみれば 魚の皮かぶったおじさんの
天地創造と不動明王の意味が分かりますよ
クサリの比喩表現も でてくるし
ブルートと ポパイの法蓮草の缶詰と オリーブの 関係
530:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/05/09 15:14:39.30 0
>>521 :考える名無しさん:2014/05/09(金)
>「それでもいいよ、と受け入れる」 ということは、「悪いことをしてもいいよ」 という悪の肯定じゃなくて、「悪いことをしたのは仕方が無いんだ」 と受け止めること。
だったら最初から「悪いことをしたのは仕方が無いんだ」と言えば良いだろう。
>>492 :考える名無しさん:2014/05/08(木)
>「悪い自分が出てきても、それはダメだというんじゃなくて、それでもいいよと受け入れること。」
これじゃあ絶対誤解を受ける。
531:考える名無しさん
14/05/09 15:20:20.77 0
これじゃ唯の気休め以外のなにものでもない
現代日本仏教はほとんどそうなってしまってるから、再生しないとね~
532:考える名無しさん
14/05/11 00:01:31.61 0
>>465
そんな風な哲学を無理やり自分に自力で思い込ませることが難しい人も多い。
そんな人でも大丈夫なのが南無阿弥陀仏です。
533:考える名無しさん
14/05/11 05:18:39.11 0
>>532
そうそう、五逆謗法以外の人ならどんな人でも信さえあれば極楽往生できる
アミダの誓願は有難すぎる
534:考える名無しさん
14/05/11 12:05:20.24 0
無欲であろうとすることこそが欲なのではないか?
打算的でないよう装うこと自体が打算であるように。
誰か教えてくれ。
535:考える名無しさん
14/05/11 15:00:27.48 0
>>534
欲考えてみな
536:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/05/11 20:00:37.51 0
>>534 :考える名無しさん:2014/05/11(日)
>無欲であろうとすることこそが欲なのではないか?
勿論そうなのだか、それでは「無欲の欲」を無・無欲の欲とするがそれも欲なので、さらに無・無無欲として・・・・何時までも欲は付きまとう是を縁起と言う。
そこで般若心経の作者は革命的なことを思いついた。
欲(五蘊の意識から来る)そのものが無いとしたのだ。
何かを欲したいと思っても何かと言う物事そのものが空であるとしたのだ。
空を欲してもその欲は空となる、こうして始めて因果意識(縁起)から解脱できると言う事。
537:考える名無しさん
14/05/11 21:04:29.32 0
妄想おつ
538:考える名無しさん
14/05/12 08:58:46.61 0
ここで、話している方々って、我執とかに悩まされないの?
例えば、お金とか家族とか健康とか、人生の悩み事あるでしょ? 家族持ちなら避けて通れない悩みだよね。
539:パンの耳
14/05/12 12:17:02.19 0
環境破壊して 精神的に追い込んで問答させるのが
蟹バブルだから(笑)
540:考える名無しさん
14/05/12 16:32:26.80 0
>>538
問題や感情としては起こるけど、あんまり引きずらない
無常・無我・空だと信じてると、あんまり囚われないよう段々なるよ
541:考える名無しさん
14/05/12 17:39:16.11 0
>>540
やっぱ、そうですか。
煩悩に悩まされないようになりたいね。
542:考える名無しさん
14/05/12 20:17:42.53 O
怒りや悩みも長続きしないが嬉しさや意欲も長続きしない
草のように風に吹かれて揺れるだけ
543:考える名無しさん
14/05/12 20:22:09.55 0
>>541
ほんとはちゃんとした聖者から教えを受けた方がいいんですが、
無常であること、無我であること、空性であることを意識しながら、
自分の怒りや愛著を観てると、段々虚しい自爆行為であることが分かってくるかも
けっこう、時間かかるので何年も意識を持ち続け心を見つめることが重要かと
>>542
いいっすね~、そうなりたいものです
544:考える名無しさん
14/05/13 11:21:41.62 0
ヴィパッサナー瞑想やって自力で我執を薄めながら、でも心は他力に傾倒して念仏も唱える人いますか?
他力にシンパしたら自力の瞑想は禁止ですか?
545:考える名無しさん
14/05/13 11:51:13.67 0
>>544
真宗の特殊な教義以外、大乗だと一般にそうですね
中国中観の吉蔵も浄土への信があったし、智光浄土マンダラで有名な日本の智光も中観者
チベットでも中観をやりながら極楽誓願を唱える行者・学者いっぱいですし
中観は当然、観(ヴィパサナー)やりますよ
といってニューウェーブ・テーラワーダ説のような四念処をヴィパッサナーというようなヴィパッサナーではなく
本来の通仏教的なヴィパッサナーですが
546:考える名無しさん
14/05/13 12:23:38.70 0
>>545
説明ありがとうございます。
手前のような駆け出し者には分からない事も多く、教えて頂い内容を頼りに調べます。
こに質問のキッカケを書きますと、
我執や煩悩の苦しみを薄めたくヴィパッサナーを始めました。しかし、上座仏教の教えは苦しみ悶えてる人には厳しいと感じる部分があり、この点 他力の教えの方が、苦しむ者(私です。)にとって、優しさを感じたからです。
547:考える名無しさん
14/05/13 14:00:36.38 0
>>544
念仏自体がヴィパッサナーになりますよ。
しかも、はからい(自力)の無い、ヴィパッサナーです。
とてもお買い得です。
548:考える名無しさん
14/05/13 15:26:36.11 0
僕はかれこれ10年前くらいに、すべての執着から離れ、煩悩を滅し、
草木国土悉有仏性を悟ったつもりでいました。
まわりからは「君は不思議だね。神様みたいな感じがするよ。宇宙的な感じだね」と言われたり、
妹から「お兄ちゃんは何かの宗教興しそうだね」と言われ
「どういうこと?」と聞いたら、
妹「何か人間じゃないみたい」
「人間じゃないって離人症みたいなもの?」
妹「そうじゃなくて、何か人間の醜いものがお兄ちゃんにはないの
何か不思議な感じ。宇宙観があるの。ねえ、あんまり宗教とか興さないでね」と
言われました。仏教に傾倒していたわけではないのですが、
非常に世界が狭くなっていき、無意識に全体の像みたいなものが
浮かび上がり、霊感が強まり、人の考えていることや未来が何となく
わかるようになってきました。目を瞑ると、毎回宇宙的な空間と共に
精神の肥大がおこりました。そうやって、僕の対象(知り合い)の
ことを思い巡って眠りにつきました。
このような状態状況は段々に解消されていき、今では業の深い状態が
戻ってきました。仕事をするようになり、休みの日にはギャンブルを
するようになり、それが段々エスカレートしていき、金が尽きるまで
遊びました。段々金が欲しくなり、そしてとうとう人の財布に手が
のびるようになってきました。
仏教ではこのような状況や精神の状態をどう説明できますか?
仏教についての知識はあまりありません。
549:考える名無しさん
14/05/13 15:49:20.93 0
パンの耳つまんねえ
550:考える名無しさん
14/05/13 16:15:49.27 0
>>546
あんまり他力という考え方に拘らず
アミダを信じて念仏するのがいいと思います。
>>547
三昧に入れないとヴィパッサナーではなく
ただの念(スムリティ)ですね
だからこそ念仏と一般にいうのでしょう。
>>548
すべての執着を離れたら退転しないので
恐らく三昧体験だと思います。それも素晴らしいですが、
ちゃんとしたビルマかチベットの先生に就くといいと思いますよ。
551:考える名無しさん
14/05/13 16:25:04.75 0
キリスト教も仏教も全部フェイク
552:考える名無しさん
14/05/13 16:43:48.42 0
>>551
少なくともビルマとチベットの仏教は今でも結果出してるんだけどな
まあ、信じないだろうけど
553:考える名無しさん
14/05/13 16:46:00.74 0
「結果」とは具体的にはどういうこと?
554:考える名無しさん
14/05/13 16:50:07.85 0
ビルマだとアルハット、チベットだと成就だね
物理的証拠としては死後、火葬にした時玉のような舎利がでる
涅槃する時に禅定状態で、死体が腐らないなどなど
これは古代文献でも確認できる現象で、今でも現象するということは
説かれていることと、現象が一致するということになる
555:考える名無しさん
14/05/13 16:57:02.43 0
物理的証拠を求めてるようじゃあねぇ・・・
『カラマーゾフの兄弟』で、ゾシマ長老の遺体から異臭が発生した時、
アリョーシャの心が動揺してしまったことを思い出した。
556:考える名無しさん
14/05/13 17:09:07.97 0
>>555
もっともだ、仏教は自分を見つめるもので他人を評価するものではない
だからオイラは求めてないが
2ちゃんではよく求められるので
書いてみた
557:考える名無しさん
14/05/13 17:14:35.92 0
>オイラは求めてないが
ほんとかな?w
「結果出してる」なんていう書き方がおかしいと思って質問してみたら
案の定「物理的証拠」なんて言い出したから、ある意味納得できたんだけどね・・・w
558:考える名無しさん
14/05/13 20:13:20.69 0
>>557
結果出してるって書き方はおかしくないと思うよ
恐らく、そちらの宗義・見解だけの問題じゃないかな?
559:548
14/05/13 21:54:50.49 0
>>550
考え方としたら、ああいった精神と肉体の変調を誰かに指南していただくのが
本来だと思うのですが、何せオウム真理教のような例があるので、すべてをその人に
身をまかせてしまうのは危険だと思うのですが?どんなもんでしょう?
密教の勉強をひとりでしようと思ったのですが、どこからどう手をつけていいのか
わからず、精神が一度おかしい状態に陥りました。あの精神と肉体の変調のおかげで、
随分怖いめにもあいましたし、人との関係も悪化しました。
一度創価学会の人と話あったのですが、二人とも高揚してしまい、恍惚な状態になって
非常に精神がおかしくなりました。(同性愛の関係ではなく、宗教的な体験です。念のため)
一度、親におまえはおかしいから家にいろと言われた時期があって、
2ヶ月家に隠っていたら精神疾患に掛かってしまい、誰かに追いかけられる
ような感覚に襲われました。精神医学の分野では神経症と精神病の間に位置づけ
られる状態だと思います。その時に寝ながら、「如是我聞」と何遍か唱えたくなり、
日に何度も「如是我聞如是我聞・・・」と唱えている最中にするすると足から
龍が昇ってくるような感覚があってするすると自分の身体を覆っていた何かが
取れていくのがわかりました。身体が信じられないくらい軽くなり、また恍惚の
状態を経験しました。
ああいった経験は何なのか?今でも不思議でなりません。まだ不思議なことはいっぱい
あるのですが、それをいちいち書き留めると字数ばかり増えてしまうのでいいませんが、
560:考える名無しさん
14/05/13 22:22:15.81 0
>>559
恐らく前世は行者でなかなかよい功徳を積まれた方だと思います。
そういう前世の功徳のおかげですね。
密教を伝授なしに学ぶこと自体が悪業なので、それはやめてください。
密教に興味があるのでしたら、ガルチェン・リンポチェ、ゾンサル・キェンツェー・リンポチェ、ズィガー・コントゥル・リンポチェあたりの方が来日された時に教えを受けるか
インドかネパールに教えを受けに行くのがいいと思います。
密教の場合は師が、ほぼ全てといっていいので、最初によく師匠を吟味し、
自分とご縁のある方に就くのが重要だと思います。
よい出会いがあることをお祈りします。
561:考える名無しさん
14/05/13 22:27:13.75 0
なかなか独特なスレだな
562:考える名無しさん
14/05/13 22:36:40.44 0
>>560
いろいろなアドバイスありがとうございます。
う~ん、それがですねえ、僕も前世についてはいろいろ思うところがあるのですが、
実は人がどんどん離れていってしまう業があるように思うのですよ。
これは僕の勝手な観念の世界の話なのですが、
僕は義経のような前世を送っているのだと思います。源義経です。
僕が源義経だったというわけではなく、あのような運命を辿ってきた人物で
あるように思うのです。人も殺めているように思います。
とにかくいろいろな人に囲まれて光を放ち、それが兄ノヨウナモノによって
忙殺されるような運命です。漠然としたイメージが子供の頃からありました。
牛若丸が自分なのだという勝手な思いこみも昔からありました。
運命についてですが、やはり、大事な人が心が繋がっている状態で
離れていってしまう輪廻があるように思います。これまでの僕の一生も
少なからずそういうことがありました。心は繋がっているのです。
それが消失してしまう。僕が性格が悪くて人がどんどん離れていってしまう
ということも言えなくはないのかもしれませんが、心は繋がっているのです。
喧嘩別れしていっているというのではないんですが、いつもある一定の時期から
さっと身を引くようにしてます。すると、相手もそれ以上自分に近づいてこないのです。
不思議なんですが、そういうイメージです
563:考える名無しさん
14/05/13 22:46:35.69 0
なんだオウム系スレか
564:考える名無しさん
14/05/13 22:46:36.53 0
変なやつだと思われて避けられるんじゃないか
俺にもよくある
気にすんな
565:考える名無しさん
14/05/13 22:48:17.22 0
>>562
あまり過去世について憶測してもしかたないですよ
それは妄想を生み、意識を散乱させて悪業を積むだけだと思います。
重要なのは今、どうするかで
三宝に帰依して、菩提心を起こし善いことをし悪いことをしない戒で抑制し、
心を集中させて三昧に入り、観によって無我・空性を体得し、
誓願・回向して普賢行に入ることです。
そのためには優れた師を探すことが先決です。
上でいう善いこととは、他者を利しようとすることで、
悪いこととは、逆に他者を害しようとすることです。
566:考える名無しさん
14/05/13 22:51:08.17 0
もう少し続けて書きます。
僕は昔禅宗(たぶん臨済宗)の行者だったように思います。
暗闇の中を歩いていくイメージがあるのです。
抽象的なイメージではなく、本当に暗い夜道を仏道のなかで
悩みもがき苦しみ歩いているようなイメージです。
そのようなイメージが昔からあるのです。
現世、仏教の本はいくつか読みましたが、全然わかりせん。
般若心経だけはすうっと自分のなかに入ってきました。
僕は仏教のことはあまりわからないのですが、自分なりの仏教観
みたいなものがあります。
これまたイメージなのですが
精神と肉体は繋がっているように、精神と宇宙も繋がっている。
また身体と宇宙も繋がっている。繋がってはいるが常にズレはある。
非常に全体というのは広大で、簡単に人間が認識できるものではない。
ただ全体と肉体は繋がっていることが真であると思っている。
といったところでしょうか?
自分と世界全体の結びつきを空想しているのです。
そんなイメージです
567:考える名無しさん
14/05/13 22:59:23.04 0
>565
やはり、そうですか。過去世についてはかなり妄念があるのでしょう。
ただ、これはあくまでイメージです。自由連想の範疇なので
それがどうということはありません。ただ、聞いてもらって
何かわかるかな?と期待したまでのこと・・・
ご自愛ください。
568:考える名無しさん
14/05/13 23:01:52.86 0
>>566
自分なりの仏教観は危険ですよ。
師匠に就かないなら、アミダの念仏がいいです。
仏教書でお勧めは
山口益『仏教思想入門』
水野弘元『仏教要語の基礎知識』
ダライラマ『智慧の眼を開く』
パユットー『仏法』
禅宗だと上のどれか、特に水野先生のを読んだ後に
柴山全慶『無門関』
あるいはこれとかいいと思います
URLリンク(ja.scribd.com)
569:考える名無しさん
14/05/21 21:11:40.91 0
やっぱり、ヴィパッサナーで心を軽くもするし、阿弥陀様も念じるのが、いいなあ。
570:考える名無しさん
14/05/22 23:03:35.16 0
呉智英の「つぎはぎ仏教入門」が面白かった。
571:考える名無しさん
14/05/23 11:06:09.42 0
大乗仏教を信心してる方々が瞑想する場合は、念仏だけになるのでしょうか?
南無阿弥陀仏と念じるだけかも知れませんが、在家には想像も付かないくらい奥の深いものだったりするのでしょうか?
572:考える名無しさん
14/05/23 12:50:43.23 0
阿字観とか沢山ありますよ 禅も瞑想です
573:考える名無しさん
14/05/23 13:05:27.18 0
>>571
違います。
大乗はテーラワーダの道も包括しています。
574:考える名無しさん
14/05/23 16:08:09.57 0
>>572
>>573
コメントを頼りにググりました。
密教、大乗仏教に観(ヴィパッサナー)の瞑想が有るのを知りました。ありがとうございます。
上座部仏教のヴィパッサナーの入門書は多いですが、大乗仏教のは話題になっておらず、全く分かりませんでした。
大乗仏教の教えは他力、ヴィパッサナーの修行は自力、このあたりがよくわかりませんが、コツコツ調べて行きたいと思います。
在家の私は、大乗の教えに傾倒します。また、テーラワーダのヴィパッサナーで心が軽くなり、妄想の苦しみから救われてもいます。このような煩悩に悩む者も質問でした。
575:考える名無しさん
14/05/23 16:31:57.00 0
>>574
大乗仏教の教えが他力ってことはありません
ごく一部で他力の方便があるだけです
576:考える名無しさん
14/05/23 17:33:16.56 0
>>574
>大乗仏教の教えは他力
こう仰る方が日本の大乗者に多いのは事実ですが、正当な理解ではないですよ
禅でも「自力がおちて他力がやってくる」とか自分の経験を表現する人もいますが、そういうのは個人的な見解であって
大乗=他力ではないです
577:考える名無しさん
14/05/23 18:29:06.36 0
>>575
>>576
574です。
大乗、他力、自力でググりました。
勉強不足による私の誤解でした。
私の求めるものは、家族持ちなので、在家に身を起きながらも、少しでも煩悩を抑え心安らかに暮らす事です。
いたって一般的な願いですが、仏教には色々な宗派があって、何を選べば良いかよくわかりません。
上座仏教は、瞑想を学んだだけですが、在家の私にはその教義が厳し過ぎて、かえってストレスがかかりました。
もう少し調べます。
578:考える名無しさん
14/05/23 19:55:48.92 0
>>577
いや、だから初心者がネットで調べるのは混乱するだけなんで
大乗仏教なら、以下二冊を読んでください。
山口益『仏教思想入門』
ダライラマ『智慧の眼を開く』
それが早いし正確だと思います。
579:考える名無しさん
14/05/23 20:49:43.72 0
分かりました。
読んでみます。
580:考える名無しさん
14/05/23 23:37:25.99 0
原始仏教の解説本がいい。現代は末法の世である。
581:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/05/24 04:25:58.37 0
>>577 :考える名無しさん:2014/05/23(金)
>在家に身を起きながらも、少しでも煩悩を抑え心安らかに暮らす事です。
それなら このスレの趣旨とも一致しますが般若心経をお勧めします。
素晴らしい内容です、ですから人気があります。
ちなみに念仏を唱える意味ですが・・・
念仏を唱えている間は、少なくとも下らない煩悩は考えないで済むと言う事です。
瞑想が宗教のプロの専売特許に対して、念仏は在家の素人に易しい取り組み方です。
582:考える名無しさん
14/05/24 04:49:34.68 0
>>580-581
こんな適当な意見ばっかだから、ネットで初心者が探るのは無理なんだよね
583:考える名無しさん
14/05/24 15:17:16.09 0
>>577
>私の求めるものは、家族持ちなので、在家に身を起きながらも、少しでも煩悩を抑え心安らかに暮らす事です。
>いたって一般的な願いですが、仏教には色々な宗派があって、何を選べば良いかよくわかりません。
自分の《煩悩を見つめる》という点では、我執を「第七末那識」として独立的位置にまでおしあげた唯識がお勧めです。
唯識が末那識を独立的位置に置いたということは、人間の我執の根強さを痛感したということです。
唯識の本を読んでいると、人間の煩悩というものが、そう簡単になくせるものでないことが納得できて、ある意味安心する。
しかしそれとともに、その煩悩を離れるための修行が説かれており、「煩悩」と「修行」が非常に直結している感じがします。
「煩悩は捨てるべき心所である。
だが、世界の文学、映画、演劇から、人間の愚劣さを抜き去ってしまったら、いったい何が残るだろうか。
人間は愚かなのだ。人間は弱いのだ。
仏陀は、それを、じっと澄み切った暖かいまなざしで照覧されるのである。それが《煩悩》の分析だ。
しかし仏陀は、煩悩に私たちが身を滅ぼすことをすすめられておられるのではない。
それが人間の現実として避けられぬことであるとしても、《煩悩に目覚めよ》と仏陀は呼びかけておられるのである。」
(太田久紀著『凡夫が凡夫に呼びかける唯識』より)
584:考える名無しさん
14/05/24 15:46:54.88 0
>>583
大田さんとかは伝統と信を感じるんで好きだけど
唯識は大乗をアビダルマ的に還元してしまったかんじがどうも
そういうのが合う人にはいいと思うけど
585:考える名無しさん
14/05/24 20:28:14.56 0
>>583
唯識および『凡夫が凡夫に呼びかける唯識』の紹介ありがとうございます。
大乗仏教の学びの過程にて目を通します。
長文でのコメントありがとうございました。
586:考える名無しさん
14/05/28 14:15:19.58 0
仏教議論スレッド101
スレリンク(psy板)
587:人間の探求
14/05/30 11:45:04.80 0
貧乏、病気、離婚など、不幸な人は不幸を愛しているのです。
良くも悪くも人間は‘成りたい自分に成っている’のです。
「中杉弘のブログ」
URLリンク(blog.livedoor.jp)
URLリンク(ameblo.jp)
588:考える名無しさん
14/05/30 14:32:31.54 0
>>587
つまんね
589:考える名無しさん
14/05/30 20:45:53.32 0
世界最初の唯物主義。「心は存在しない。すべて外界の雰囲気(科学用語)で
左右される意識がオメーだよ。」
590:考える名無しさん
14/05/30 20:53:43.37 0
>>589
仏教の場合は物も心も空だけどね
591:考える名無しさん
14/05/31 01:30:58.03 0
でも死んでも霊魂は残ると思うんだ。実感だからしょうがない
592:考える名無しさん
14/05/31 02:33:37.58 0
いいかい、霊魂も空なんだ
593:考える名無しさん
14/05/31 04:02:21.32 0
ただ、「全て空だ」と言うものは、じゃあ誰なのかというcogitoについての
問題は解決されないけどな。
594:考える名無しさん
14/05/31 05:15:34.93 0
>>593
そりゃ、空が分かってない
知覚が有っても、意識が連続して縁起しても空だ
空ってのは無いって意味ではない
本質が無い、単に縁起するだけというような意味
595:考える名無しさん
14/05/31 11:06:23.24 0
運動の力が保存される法則のことでしょうか?
その運動の力(善因、悪因、この世への貸し借り)である「業」が
残ったまま死んでしまうとと次の生が始まってしまう。
これが「零(自分自身そのまま)」にすることができれば
次に生まれ変わる理由がないので輪廻転生の繰り返しから解脱できる。
596:考える名無しさん
14/05/31 11:17:00.13 0
>>595
似てるけど違うと思う
仏教の場合、既存の知見で解釈すると誤解することが多い
なぜなら、既存の知見は実在論か虚無論の前提で構築されるから
仏教はどちらでもない
597:馬鹿の壁 ◆GS40HbbwOo
14/05/31 17:38:39.40 0
キリスト教は愛を肯定し
仏教は愛すら否定する
でも私は根本的には同じだと思うのです。
キリスト教の究極愛は命の自己犠牲つまり自我の否定ですよし
皆さんはどう思います?
598:ごあ
14/05/31 19:03:04.78 0
マグロ大使 だと思う
599:考える名無しさん
14/05/31 20:08:15.62 0
>>597
別に否定しない
キリスト教と仏教はだいぶ違う
600:考える名無しさん
14/05/31 20:09:40.04 0
非常に似ているとおもう。
愛というは、仏教でいう慈悲の様なものでは無いでしょうか
慈愛とでも言う様な 慈しみの眼で見ている様な
601:考える名無しさん
14/05/31 20:23:49.16 0
>>600
少なくとも神の命令とかに従うことはないし
神とか創造主とかが絶対ということはない
慈悲と愛は似てないことはないが、本質が全く違うと思う
602:考える名無しさん
14/05/31 23:06:56.41 0
イエスなんかよりはるかに前に愛を唱えた墨子は無視されるw
603:考える名無しさん
14/05/31 23:07:53.16 0
>>596おっしゃられてる意味がわかりません
604:馬鹿の壁 ◆GS40HbbwOo
14/05/31 23:25:57.90 0
キリスト教というかアブラハムの宗教ですね
ユダヤ、イスラムやキリスト教ですね。
605:考える名無しさん
14/05/31 23:32:35.58 0
>>603
じゃ、こう言い換えよう
仏教は創造主を認めない
あるいは、神も輪廻の存在とする
606:考える名無しさん
14/06/01 01:17:04.53 0
天界の神々も
転輪聖王のちからを受けるのなら
転輪聖王こそが
神なのでは?
607:考える名無しさん
14/06/01 01:20:42.97 0
>>597白人しか認めないキリスト教なんていまどきちゃんと
信じてるやつなんているの?いるとしたら南北アメリカのインディオへの
仕打ちや黒人、アジア人への奴隷貿易はなぜ
認めないの?それも愛なの?w
608:考える名無しさん
14/06/01 01:23:18.58 0
「ナチスのユダヤ人絶滅政策に当時のカトリック教会が協力したことを謝罪します・・
これは『人類』への犯罪です」
「インディオや黒人、オーストラリア人、タスマニア人、インド支那人、インド人、
アジア人への仕打ちは?」
「彼らは人じゃないから問題ないです」
609:馬鹿の壁 ◆GS40HbbwOo
14/06/01 01:33:35.35 0
過ちを犯さないのは神だけなのです
だから捧げものをして、人は祭壇の前で懺悔するのです。
610:考える名無しさん
14/06/01 04:43:22.71 0
>>606
いやいや、一過性のものです
欲界主も色界主も有頂天主も
611:考える名無しさん
14/06/02 16:38:35.48 0
「仏教思想入門」山口益買ったよ。
あまりに、近代教学がダメだとかうっざいやついるから読んでやるよ
612:考える名無しさん
14/06/02 16:41:15.47 0
>>611
おっしゃ~
613:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/06/04 00:00:22.82 0
>>609 :馬鹿の壁 ◆GS40HbbwOo :2014/06/01(日)
>過ちを犯さないのは神だけなのです
神が過ち多き人間を作りたもうたのは過ちではないのですか?
614:馬鹿の壁 ◆GS40HbbwOo
14/06/04 02:04:43.98 0
>>613
驚いた!あなたは
神をさばける神の創造者ですか?
それはあなたから見たら過ちということでしょう?
神から見ればそれが正しいのです。
もっともコーランで神が人を作ろうとしたら天使は反対したみたいですが
イーブリースのようなね。
あとは初歩的なので説明は聖書のヨブ記に譲ります
615:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/06/04 02:33:47.69 0
>>614 :馬鹿の壁 ◆GS40HbbwOo :2014/06/04(水)
>天使は反対したみたいですが
そうでしょうね^^天使は正しい^^
神が人を作った理由を初歩的に説明してください。
616:考える名無しさん
14/06/04 05:36:45.66 0
仏教的には輪廻的存在だけどね
創造主と言われてる神も
617:考える名無しさん
14/06/04 05:44:25.11 0
>>614
本性として不完全な人間を作るのが正しいねえ・・・
神の遊戯とかそういう話になっていくのか?インド人の方がよっぽど設定考えてるよね