仏教の凄さを思い知った昨日今日at PHILO
仏教の凄さを思い知った昨日今日 - 暇つぶし2ch356:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/04/11 15:52:47.01 0
>>355 :考える名無しさん:
>中観や唯識、般若心経をこう解釈する根拠ね

仏教は宗教です、解釈に根拠はありません。
反論があるなら貴方の解釈で反論しなさい。
それに対して私も反論できます。

357:考える名無しさん
14/04/11 16:14:17.92 0
>>356
それじゃ、話す意味ないでしょ。お互いに自説を述べるだけで。

え~、仏教はインドでもチベットでもシナでも日本でも異論が有る時は、経証と理証で話しました。

まあ、上のは単なる妄想であることが明らかなんで、「根拠はオレ」って言われちゃ付き合ってられませんです。

358:考える名無しさん
14/04/11 16:19:47.95 0
>>357
補足しとくと、もちろんブッダは例外。
高い聖者も異論の根拠に経典や先師の言葉を出すのが仏教の伝統

359:考える名無しさん
14/04/11 17:06:04.29 0
355が出したテキストは<絶対空こそが真理。マントラがその絶対無を暗示
する>と言っている。それは悟りや明智や善悪を重視することとも違う。
むしろ悟りや善悪の観念の脱構築が主眼。

梵文テキスト:<空性>の次元では、物質もなく、感受もなく、想念もなく、
諸意志もなく、識もない。

同テキスト:眼・耳・鼻・舌・身体・思考(意)[とい
う六箇の内なる部門]もなく、色・音声・臭い・味・可触物・存在素(法)
[という六箇の外なる部門]もない。[十八の根源界(十八界)における]眼
の根源界(眼界)から思考識の根源界(意識界)までもない。[十二支分から
なる<依存的生起>(十二支縁起)における無明と敵対する]明智もな
く無明もない。明智の滅書もなく、無明の滅蓋もない。

すなわち悟りの奥義や知も無明と明智もすべて離脱されるのだから351の
解釈-識、観念、悟りにこだわるのは真理ではない-は355の出したテキスト
と矛盾しない。といっても最終綱領としては識や観念も悟りも超えられ
るということ。識や悟りは中間綱領-まだ哲学に留まる-とみればいい。

360:考える名無しさん
14/04/11 19:57:38.01 0
>>359
それは誤解だ

361:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/04/11 22:36:27.10 0
>>359 :考える名無しさん
>絶対空こそが真理。マントラがその絶対無を暗示・・・

絶対空とか絶対無を否定する為のが心経の趣旨です。
絶対性の否定を「空」と言っているわけです、小学生でも経を読めば判る。空性と別個に物質は無くそのようなことは全てに言えることなのだから空性なるものが空性と別個に存立する(絶対空)はずも無い。

>といっても最終綱領としては識や観念も悟りも超えられるということ。

超えたところに再構築してしまえば元の木阿弥である。
仏教の実践に最終も中観も無い、弛まず実践するのみであると経に書いてある。終わりはない。

362:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/04/11 23:15:03.61 0
>>361 訂正です

中観→中間

363:考える名無しさん
14/04/12 00:58:13.88 0
 どうも勘違いしていたようだ。失礼した。あのテキストにも物質とは
空性と同じとありますね。ちょうど廣松渉が物象化的錯視とか言ってる
けども、関係の一次性が実体があるという錯視を生むとか。それを思い出し
た。

 あと麻原の言うこととも重なってるね。彼も一応勉強はしていたのだろう
から似ていて当然なんだが。あのテキストと似たことを説法で喋っている


364:考える名無しさん
14/04/12 04:01:17.51 0
因みに私は廣松の哲学は人間のrealityとはかけ離れているとみなしている
。それと似て非なる空性の哲学もそういう感じがする。すべてが業縁、因縁
と言われて、しかし現に今ここで有ること、自己の有限であることのもたら
す世界が変わるわけではない。あのテキストにも感じたが、どこまででも
<「私」など幻想>と言われているようで、しかし言われたところで現に
有ることが変わるわけではない。生の実感には遠いしその実感は空性の
理論でどうなるものでもない。変わらないわけです。

 まだ麻原の理論の方が修行による世界の深化が実感される分、-一応修行者
の体験として実証されている-世界も変貌や深化が実感されるように思えま
すね。現実世界(俗界)と涅槃を往還することができなければならない
とされている。境地がはっきりしている。麻原は自己のヨーガと連結して
仏教哲学の観想を打開しようとしたのじゃないかと思えてきましたがね。

365:考える名無しさん
14/04/12 06:01:40.34 0
>>363
物質と空性と同じではなく、
物質は本質を欠いて空っぽな性質だというような意味
それと哲学ではない、何か思想・哲学としてつかんでいるものを開放する道として説かれた教えに他ならない

366:353
14/04/12 13:35:59.15 0
>>354
「転識得智」は、唯識の修行の過程で生じる転換のこと。
その説明を引用しておきます。
「〈識〉が〈智〉になる。〈識〉は言葉を通してものを知る概念的認識で、したがってそこには、
対象を実在化する働きが潜在しているのに対して、〈智〉はそういう思慮分別を介さないで、あるままに自己を親証する認識の構造である。
空なる自己が空のままに空を知るのである。空なる自己が空なる自己にたちかえるのが〈智〉である。」
(太田久紀『唯識の読み方』)
だから、「識=観念=悟り」などというのは頓珍漢です。

そもそも、唯識というのは中観の発展なのだから、五蘊皆空を前提としているんです。

「五位の修行」といわれる五段階の唯識の修行の二段階目を「加行位」といいますが、
この段階は、「所取空・能取空」(哲学的にいえば「客観」も「主観」も〈空〉)という自覚が深められていく修行の段階です。
しかし我々は、自分自身が〈空〉の真っ直中にあるはずなのに、その〈空〉を自分の向こう側に置いてしまう(つまり対象化してしまう)。
我々の思惟は、そういう性質をもっています。
この「加行位」という段階では、人は《「客観」も「主観」も空》ということを<頭では>よく理解していながら、
非常に深いところで、〈空〉を対象化してしまう。
だからこの段階では、人はまだ「凡夫」と呼ばれます。

次の第三段階の「通達位」が、そのように対象化する思惟が崩壊する段階です。
そこで「転識得智」が生じ、人は「凡夫」ではなく「聖者」と呼ばれます。
対象化する思惟とは異なるこの〈智〉の働きを、唯識では「住する」などの語を使ってあらわします。
ちなみにこの「通達位」に到達するには、一大阿僧祇劫(ほとんど無限に長い時間)かかるとされます。

367:考える名無しさん
14/04/12 14:28:47.93 0
 366を読んでると、359で書いた

<悟りの奥義や知も無明と明智もすべて離脱されるのだから351の
解釈-識、観念、悟りにこだわるのは真理ではない->
<悟りや識が観念として求められる間はまだ中間綱領。悟りの脱構築が主
眼>

と書いたことを言い直しているだけですね。あなたは“<空>を対象化す
る間は人はまだ「凡夫」である”と書いているがそれは359と同じだ。

 あなたは段階などないと「仏教の実践に最終も中観も無い」と書いたが、
立派にあるじゃないですか。「そのように対象化する思惟が崩壊する段階
です」と立派に書いている。同じですよそれは359と。

<それは悟りや明智や善悪を重視することとも違う。
むしろ悟りや善悪の観念の脱構築が主眼。>

と私は359の冒頭に書いている。私の解釈をなんで「違う」と書いておいて
また繰り返すのかな。 意味がよく分からなかったのかな。

368:353
14/04/12 15:04:11.74 0
>>367
私はじいさんと話しているのに、私とじいさんを混同しているようです。
驚くべき勘違いをする人ですね。あなたは。
おだいじに・・・

369:考える名無しさん
14/04/12 15:28:19.01 0
 ああなるほどね。359と366が同じと言えば正しいか(笑)じい
さんとやらが361で言ってることがおかしいということね。366が言ってるこ
とは359(私)の言い換えだからね。段階はある。対してじいさんは「段階な
どない」と361で言ってるわけだから。

 366の話は分かりやすい。そうなるだろうということが押さえてある。じ
いさんは「脱構築」と「再構築」を多分混同してると思う。ちゃんと

<それは悟りや明智や善悪を重視することとも違う。>
<悟りの奥義や知も無明と明智もすべて離脱される>

と書いているのに語彙に引っかかって誤読したのだと思う。仏教は形に
とらわれず本質を見ることであるのに、本質を見誤ったのだと思う。

370:353
14/04/12 15:34:38.35 0
>>369
>359と366が同じと言えば正しいか

どこが同じなのかわかりませんが・・・w

では、お元気で。

371:考える名無しさん
14/04/12 15:50:34.48 0
 では370も実は頭が悪いということですか。残念です。

372:考える名無しさん
14/04/12 16:03:55.01 0
>>366
>唯識というのは中観の発展なのだから

これはミロク菩薩以外は違うでしょう
無著菩薩・世親菩薩ともにアビダルマ的で分析体系的で戯論寂滅への導きというより論証という方向だと思うだよね
それは陳那・法称菩薩あたりに明らかで、シナ日本法相宗やチベット・ゲルク派あたりに近いと思う。

373:考える名無しさん
14/04/12 16:05:28.94 0
>>367
こういう理解は仏教を思想・哲学と捉える誤読の典型
修行の必然性が出てこない解釈は間違ってると思うべき

374:考える名無しさん
14/04/12 16:53:25.11 0
 しかし

<空のままに空を知る><対象化する思惟が崩壊する段階>
<空なる自己が空のままに空を知るのである>

とかを見てると、これは解離を意識的に作り出すということだろうとい
う気がしてくる。そうすると獄中の麻原をどうしても連想するね。家族の
面会中に自慰に耽り、英語まじりの独語を呟き、脱糞は日常茶飯事で係員
が鼻をつまんでいる。やっぱり彼は聖者だったのか。366はそう言いたい
ようだが。

375:考える名無しさん
14/04/12 20:51:54.04 0
>>374
麻原は水俣病の復讐で、鍼灸、ヨガ、仏教を利用して人を集め
始めから毒ガスによる首都壊滅を狙ってた人でしょ
三昧体験や神通もあったようだけど、仏教とは本質的に無縁

376:考える名無しさん
14/04/12 21:42:14.33 0
 物質とは別のところに<空性>があるのではないし、……識とは別のところに
<空性>があるのではない。それはなぜか。物質こそが<空性>であり、……識
こそが<空性>である。<空性>こそが物質なのであり、……<空性>こそが識
なのである。

 かような思想を貫通するなら、人間が日常的・刑法的にとらえる善悪など
仮のものでありそれを鵜呑みにするものではない。また、俗界での道徳に
基づいて行為を裁くことなどから徹底的に離脱することは必須だろう。物質
・身体・識の真理が空性ならばその真理を知る人間が無差別殺人したとして
も或いは反対に慈善活動したとしても真理には関係ない。むしろ俗世におけ
る道徳や常識・大人性などを断念し、没落していくこと。それが為されれば
為されるほど固定的観念・人知から離脱できるわけで、逆に真理に近づく。
そういう考えが起こって不思議ではない。

377:考える名無しさん
14/04/12 21:50:21.54 0
固定観念に囚われることと逃げることは同じだから近づいたりはしないよ

378:考える名無しさん
14/04/12 21:54:46.90 0
>>375若いインテリが官僚や金融を潰してやろうというのはよくある話
麻原はやれやれ言ってただけ
三昧体験や神通ができるなら低俗な快楽なんて必要ないから嘘でしょ

379:考える名無しさん
14/04/12 21:56:15.80 0
>>376-378
分かってないなあ

380:考える名無しさん
14/04/12 21:57:16.59 0
>>374乖離したら空じゃないじゃん

381:考える名無しさん
14/04/12 22:09:21.89 0
 366が親切に書いてくれてるように知や対象化に囚われている限り「凡夫」
である。その段階よりも上に行くのなら対象的知を離脱しなくてはならない
。市民社会的常識や生活、あるいはアカデミズム、学究や地位、あるいは
僧としての地位や教養や名誉に執着や満足している限り、真理に住すること
からは遠い。

 366が提示した真理の階梯は麻原の言動、また現在の獄中での姿にも
通ずるものがある。あれらを現在の常識・教養・市民社会からはかって
も届かないということだ。

382:考える名無しさん
14/04/12 22:09:44.81 0
>>380
なんで?

383:考える名無しさん
14/04/12 22:11:00.26 0
>>381
そういう根拠は?

384:考える名無しさん
14/04/12 22:16:41.27 0
>>382
空っていうのは境目がない状態として捉えることだから
どこかに行くわけじゃないし
何か別のものになったりもしない
悟っても人間でしかない
乖離したら基地外だよ

385:考える名無しさん
14/04/12 22:33:18.31 0
384:乖離したら基地外だよ

 「基地外」「基地外ではない」というのも人知だよね。さらに366を補足す
るなら、仏教や唯識や悟りやなんやらも全部人知。言語化され人間がそれを
認識するならそれは超えられるべき階梯にすぎない。よって「階梯」「段階
」や教義でさえも最終的に邪魔になる。366はそう言ってくれてるわけだ。
立派に根拠づけられている。

386:考える名無しさん
14/04/12 22:40:47.39 0
>>385超えられるからといって何でもかんでも超えるから基地外と同じなんだよ
それを乖離と言っているんだよ
その極端な考え方が本来の教義から乖離してるってこと
大げさに考え過ぎなんだよ
とんでもないことできるからスゴイ的な幼稚な発想

387:考える名無しさん
14/04/12 22:53:16.59 0
>>384
それって中論とか般若心経を誤解してるんじゃないかな
インチキ禅師が言いそうなかんじだ

388:考える名無しさん
14/04/13 01:28:06.88 0
空っていうのは、「何者も同一物として存続しない」
ってことなんだよな。

つまり自我を含めて、この世界には何者も存在しない。
ここでいう「存在」とは、「自性」のこと。

たとえば、Aというものがあったとする。
Aは次の瞬間には変化して、Aではなくなったとする。
Aは前の瞬間でも、Aではなかった。

Aが存在できるのは、「今」のみ。
だとすると・・・、Aが存在するのは0,00秒で、0,01秒も存在出来ない。
存在が0,00秒しか維持出来ないとすると、その存在は無きに等しい。

これが諸行無常の原理。

389:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/04/13 02:36:28.74 0
>>366 :353:2014/04/12(土)
>ちなみにこの「通達位」に到達するには、一大阿僧祇劫(ほとんど無限に長い時間)かかるとされます。

なんですかそれ?
結局「通達位」など実現しないと言っているではないか。

390:考える名無しさん
14/04/13 02:38:15.81 0
386のような方は空性とか唯識とかからは縁がない人だと思う。教義
や知(いかなる知であれ)や悟性にどこまでも執着すべでないこと。
また人間的善悪や俗界の常識・大人性にどこまでも執着すべきでない
こと。それらは麻原に聴くまでもない仏教的真理の一種としてある。
仏教は理論を知って終わりではない。と前レスで誰か言っていた
だろう。空性もそうだ。388みたいなことを知って終わりではない。

 ただそれを修行や学習の末に実際に実践してみせた、自らも対象的
知や悟性を最終的に離脱したところが徹底的である。あの姿は理論
から導けないことはない。世の仏教者はあれは外道とか関係ないと
かインチキとか387みたいなことを大抵は言ってるだろうがそれは
そっちの方が思考を途中で止めているだけだろう。

 別に麻原の全部が正しいとか言いたいわけではない。しかし仏
教者としては認める。あれはありうるということ。

391:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/04/13 03:41:06.17 0
>>369 :考える名無しさん:
>じいさんは「脱構築」と「再構築」を多分混同してると思う。

いえいえ其れが平気で再構築する人が多いんですよ。
例えば・・・・・・・・・・・・・・・・
<もの>はそれ自体が実体として現象し存在するのではないことを<色即是空>といい,
また実体としてではなくて,諸条件に支えられているからこそ,<そのもの>が<そのもの>として現象し存在することを<空即是色>と説く.」
(「岩波仏教辞典第二版」)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こんな解釈が平気でまかり通っている。
「<そのもの>が<そのもの>として現象し存在」し直してしまったら元の木阿弥だ。
諸条件に支えられる<そのもの>なんだから絶対的な存在性は何処まで行っても無いということである。
脱構築した後に「存在」と言う脱構築以前の言葉を使ってはならない、仮設とか幻想とかの言葉を使うべし。

392:考える名無しさん
14/04/13 06:18:10.12 0
>>388
>空っていうのは、「何者も同一物として存続しない」
>ってことなんだよな。

そりゃ無常だべ

393:考える名無しさん
14/04/13 06:19:33.95 0
>>391
いやいや、少なくともアナタの説明よりずいぶんいいよ

394:考える名無しさん
14/04/13 06:42:39.04 0
>>391
>脱構築した後に「存在」と言う脱構築以前の言葉を使ってはならない、仮設とか幻想とかの言葉を使うべし。

以下の岩波の解説者が意識しようがしまいが、「存在」も「色」も仮設であることは仏教の前提なんだけどね

>この><もの>はそれ自体が実体として現象し存在するのではないことを<色即是空>といい,
>また実体としてではなくて,諸条件に支えられているからこそ,<そのもの>が<そのもの>として現象し存在することを<空即是色>と説く.」

アナタの場合は自分勝手な形而上学があって、それに合わせて適当に仏典読んでるだけでしょ。
で、その形而上学に合致すれば分かってると、合致しなければ分かってないというだけ。
それは仏教でなくアナタの妄想に合致するかしないかなんだけど

395:考える名無しさん
14/04/13 10:39:30.61 0
>>392
諸行無常=空 だよ

よく、諸行無常を誤解する人に、「Aという事象が変化するのが諸行無常である」と
考えている人がいるけど、それは諸行無常の本当の理屈じゃない。

「パンは時間とともに腐っていく、これも諸行無常である」 と、大抵の人は誤解している。
諸行無常とは、そのパンこそ同じものは継続しないということ。

誤解する人は、パンは継続されて、表面的な変化だけが起こると思ってる。
仏教の教えはそうじゃない。
何者も継続されるもの(自性)はない。
今の関係性の中から、ある一つだけを抜き取って、次の今の関係性に継続させることは出来ない。
なぜなら、次の今の関係性には、次の「もの」があるからだ。

縁起というのは「今」において成り立っている。
次の「今」には次の関係性(縁起)がある。
同じ縁起は1秒足りとも継続しない。
1秒たりとも継続しないものに、実体があるわけない。 これが 縁起=空=「今」(諸行無常)

396:考える名無しさん
14/04/13 10:44:04.41 0
>>395
まあ、それならとりあえずいいは
じゃ、今縁起してる何かをどう捉える?
人々は共通認識してるxを

397:考える名無しさん
14/04/13 11:20:57.13 0
>>396
そもそも縁起の解釈に誤解があるような気がする。
大抵の人は、「今目の前にあるリンゴは、縁起によって起こっている。」という仏教的な解釈をする。
ところが、その解釈は間違っている。

縁起しているからこそ、「リンゴという固定の物質は存在しない」のである。
だから、「リンゴが縁起によって起こっている」という言い方には矛盾がある。
こういう風に言い換えるべきだ。

「今目の前にあるように見えるリンゴは、縁起ゆえに空である。」 と。

縁起というのは、一枚の絵から、ある部分を抜き出すということが、出来ないということ。
一枚の絵で一つであり、その中に雑多なものがあるわけじゃない。
絵の中は空。

今という関係性(一枚の絵)の中から、一つのパズルのピースを抜き出し、
次の「今の絵」にはめることは出来ない。
なぜならその絵のその部分には、別のピースがすでにあるからだ。

パズルのピースという自性は、縁起の中では存在出来ない。

398:考える名無しさん
14/04/13 11:28:10.57 0
>>397
答えずにずらしか
そうなると君の説は仏教でなく、自分の形而上学に基いてて、
自説に合致するものを仏教に被せて解釈してるということでいいのか?

399:考える名無しさん
14/04/13 11:35:06.14 0
諸行無常や空を固定的に考えない方がいい。こういう考え方が正しく、それ以外は間違っているという発想自体が諸行無常や空に反する。

400:考える名無しさん
14/04/13 11:38:07.18 0
>>398
答えずにずらしじゃない。
ストレートに答えようと思ったが、
どういう意図か測りかねたため、わざと説明を拡大的にしたまで。
ストレートに答えるほうが楽。

Xを認識するっていうのは、Xに時間の幅を持たせた存在にしてるってこと。
Xの存在が0,00秒(今しかない)のならば、Xは人の思考で認識することは出来ない。

認識するってことは、認識出来るだけの時間の幅を与えたってこと。

人間の思考はこのように、「今」にあるのじゃなくて、常に個別の名称、形態に、
時間の幅を与えている。
だから、ものが存続している(自性がある)ように見えてる。

人々が共通認識をするXを見出すとき、すでにそのXは、縁起の世界から離れてる、
なぜなら縁起において、Xという個別の自性は、認識出来ないからだ。

401:考える名無しさん
14/04/13 11:40:20.74 0
>>399
導きの杖だからね
確かに見解・思想・哲学として捉えてしまっては躓きの石だ
だけど、妥当な説き方とそうでない説き方があるでしょう
正に見解・思想・哲学として捉えたものは誤りに他ならない

402:考える名無しさん
14/04/13 11:42:11.36 0
>>400
それだと釈尊や中論の縁起とは全く違うね
やっぱ、自分の形而上学説を仏教に投影してるだけじゃない
もういいは

403:考える名無しさん
14/04/13 11:47:47.22 0
>>402
私の見解が釈迦や中論と違うのではなくて、
あなたの見解が釈迦や中論と違うんじゃないの?

どの部分が違うと思うのか、あなたはその部分を明らかにしてないよね?
自分の意見を言っていない。

それこそ、「自分の意見と違うから、あなたの言うことは釈迦や中論とちがう」 って
言ってるようなもんだよ。
つまり、「自分の見解こそ、釈迦や中論と同じだ」
しかし、その自分の意見がどのように同じなのか、明らかにしていない。

404:考える名無しさん
14/04/13 11:50:57.72 0
>>403
え、聞きたいの?
じゃ、中論と違うなら、自説は撤回するというなら説明しましょう。
できないなら、時間の無駄なんでやめとくけど

405:考える名無しさん
14/04/13 11:55:47.41 0
>>404
っていうか、あなたは私の話しも、中論も、理解出来てないように思う。
理解して「違う」と言ってるんじゃなくて、理解出来なくて、「違うことを言ってるように見えてるだけ」だと思う。

中論そのものが理解出来てなかったら、おそらく私の言うことも理解出来ないでしょう。
中論の解釈を間違っているのなら、どんなにこちらが中論と同じことを言おうが、
あなたにとっては全部間違いに見えるだろう。

406:考える名無しさん
14/04/13 12:00:08.16 0
>>405
まあ、中論を完全に理解してるとは思わないが、アナタよりは分かってると思うは
まあ、撤回できないなら、やめとくは
オイラは仏教伝統教学にも従って学んで、梵パ蔵漢の諸本を結構検討した上で言ってるんだが

407:考える名無しさん
14/04/13 12:06:14.86 0
ネットで自分の解釈の妥当性を根拠づけるには経典によるしかないでしょ
論理はそれぞれ各自が正しいと思ってるわけだから
経典を出さないで、適当な解釈だけ述べる君やじいさんは、要するにオレの思いは正しいとしか言ってないでしょ

408:考える名無しさん
14/04/13 12:11:24.31 0
>>406
いくら経典を学んでも、その奥を見抜く洞察力がないとダメ。
仏教がここまで理解されないのはなぜかっていうと、表面的な学問に始終して、
その本質を理解しようとしないから。
本質を理解する洞察力がない。

本質を理解すれば、おのずと経典が後から証明してくれる。
もし経典だけの表面的理解だけならば、後から矛盾が出てくることになる。

学問だけではダメだよ。 いつまで経ってもグルグル同じところを回るだけで、
一向に本質を掴むことは出来ない。
経典の世界だけで本質をつかもうとしてもダメ。
全体的な理屈からも、筋の通った話が出来ないとダメ。

409:考える名無しさん
14/04/13 12:26:57.36 0
>>408
やっぱオレが正しいってだけですね

410:考える名無しさん
14/04/13 12:36:15.57 0
>>409
えーっと、あなたが>>396と同一人物か分からないけど、
>>396は、
>今縁起してる何かをどう捉える? 人々は共通認識してるxを

と言ってるわけね。
これは縁起の理屈を本当に知らない人の言葉だよ。

最初に言ったとおり、「目の前にあるリンゴは、縁起している」 という見方は矛盾している。
なぜなら「目の前のリンゴ」という、時間的に継続する個別の物体を認めているからだ。
「リンゴ」という個別の物体を認めながら、それを「縁起している」と見ることは出来ない。

「どのようなものでも縁起している、それゆえ空なのだ」 という説明をもって、
ありとあらゆる個別の存在は、縁起している「もの」だ、と、勘違いする人がよくいる。
これは中論の初歩中の初歩の誤りだよ。

こんな理解力でいくら経典を読んだって、その本質は理解出来ないってこと。
っていうか、そういう理解は経典の本質を見抜けなかったってことで、
経典を読んでるから、本質を見なくても正しいんだって言ってるのと同じ。

411:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/04/13 13:05:57.34 0
>>366 :353:2014/04/12(土)
答えてください「転識得智」の第三段階で

>そこで「転識得智」が生じ、人は「凡夫」ではなく「聖者」と呼ばれます。
>「通達位」に到達するには、一大阿僧祇劫(ほとんど無限に長い時間)かかるとされます。

ならばビッグバンから生じたこの宇宙で「通達位」に達したものがあるの?

412:考える名無しさん
14/04/13 21:40:43.06 0
 修行を積むことでその位階にいけることを証明したのが麻原。しかしそれ
は人間社会では狂人・異常者であることと変りない。彼の元弟子でもそれが
もう分からなくなってるのだから皮肉なものだ。いかに俗世の観念が強固
であるか、脱するのが困難かということだろう。ひょっとすると、これ
までの歴史でも最高段階にいった者はいたかもしれない。しかし周囲の
仏教者がそれを見抜けなかっただけかもしれない。周囲は99.999…%が俗世
の観念でしか生きられない。インテリだろうが僧だろうがそこは変わらない


413:考える名無しさん
14/04/14 00:10:58.09 0
「何であれ、事物は縁りて生ずるが故にそれらの分別は観察さ
れ得ないのだから、その故に、縁起というかの道理によって、
誤った見解の網はことごとく断ぜられる。」 チャンドラキールティ

414:考える名無しさん
14/04/14 06:13:37.45 0
>>413
『入中論』6-115以下の訳ね
URLリンク(www.tulips.tsukuba.ac.jp)

これは縁起という方便であらゆる思想・哲学・見解を戯論寂滅へ導くことを述べています。
その意味で『中論』と同じです。

415:考える名無しさん
14/04/14 13:00:33.20 0
>>414
びっくりした
まさに、そのPDFからの引用です

416:考える名無しさん
14/04/14 20:23:23.52 0
>>415
 この論文だと、龍樹菩薩や月称菩薩の諸論から断片を集めて主張する思想を導こうとしてますが、
 そういう前提で中観を研究しても失敗します。
 なぜなら、中観に主張する思想・見解はないからです。

 その証拠に『廻諍論』29『入中論』6-173で「我々には主張がない」などと説かれ、
 『四百論』16-25で「有・無・有かつ無といった何らかの主張。それが有ることのない者。彼に対して長時間かけようとも瑕疵は述べられない」と説かれるからです。

 それは全く釈尊に添った道で『スッタニパータ』837で次のように説かれるからです。
URLリンク(www28.atwiki.jp)

 これこそ『中論』25-24「仏は何も説かなかった」と説かれる意味です。
 つまり、ブッダは戯論寂滅へ導くために教えは説かれたけれど、何らかの主張は何も説かなかったという意味です。

417:考える名無しさん
14/04/16 03:57:46.54 0
>>416

汝自身が戯論寂滅に導かれることを切に祈るw

418:考える名無しさん
14/04/16 05:40:19.78 0
>>417
戯論ってどういう意味だと思う?
戯れの論みたいな意味ではないよ

419:考える名無しさん
14/04/16 06:05:07.46 0
私はあなたがずっとここにいるのが不思議でならないんだ。
戯論寂滅、戯論寂滅、といって、衆生を戯論寂滅に導こうと本気で思っているのか。
あるいは、そうでないのか。
そうでないように私には見えるから、皮肉を書いたんだ。

420:考える名無しさん
14/04/16 06:16:37.55 0
>>419
導ける能力があるわけないでしょ
より妥当な読みを示してるだけ

文献学系の学者のほとんどは、中観を思想と捉えてるので誤読してるんで、
さらにそういう本を読んで妄想戯論を膨らましてる人にそれは違うよ~
と言ってるだけ

421:考える名無しさん
14/04/16 06:35:53.54 0
導く力がないと思っているなら、
導く力を得るための修行をしたほうが良くないですか?
修行してますか?

422:考える名無しさん
14/04/16 06:52:45.56 0
>>421
そりゃ、してますよ
篭って集中してもやったし、これからも篭りたいとも思ってますよ~

423:考える名無しさん
14/04/23 20:37:11.01 O
ブッダ(釈迦)の2500年前の言葉に共感する人が増加中 「全ては諸行無常を前提に生活設計しろ」
スレリンク(news板)l50

お前ら書き込んだだろ

424:考える名無しさん
14/04/23 21:34:32.50 0
>>423
書き込んでないけど、佐々木 閑、結構和辻よりなんだよな~
これじゃほとんど断見で、仏教的に最低の見方に近い

>たとえば釈迦の仏教では「拝んで救済を願えば、死後、よい世界に生まれる」などということは一言も言っていませんし、

少なくとも布施し、行いを良くすれば、死後、よい世界に生まれるとは説かれてるけどね。以下、漢訳の「生天」がそう、天界に生まれるという意味
URLリンク(21dzk.l.u-tokyo.ac.jp)

もちろん、パーリでも同じこと。
『ダンマパダ』でも来世は説かれるし、拝むこと、供養することも説かれるよ。

こういった現代への阿りは和辻以来の伝統で、それは方便としてはありかもしれないけど、学問としては終わってます。

425:考える名無しさん
14/04/24 00:10:26.79 O
>>423
そのスレざっと読んだけど>>1で引用されてるやつよりか核心ついた話もされてるね

426:考える名無しさん
14/04/30 07:23:32.95 0
我執とか思考とか心に湧き出る自分を苦しめるものをどうすれば観察できる?
瞑想で思考に気付く事は出来るが観察なんか出来ないよ。
悩み苦しんでいるときは、心にデタラメに悩みが湧き出でくるから、それに振り回されてる自分に気付くだけだ。
ここを乗り越えた人いますか?

427:考える名無しさん
14/04/30 08:32:15.32 0
>>426
そりゃ、最初は意識が散乱してるから
集中することに毎日親しみ馴れるしかないっすね
そのために座って集中するわけです
できれば、誰も居なく意識の散乱対象の少ない山奥などで

428:考える名無しさん
14/04/30 10:50:48.72 0
>>427
レスありがとう。
その集中するってのが出来ないってか、何をどう瞑想すればいいかわからないんですよ。
じ~っと、頭にに湧き出てくる思考や雑念を認識し続けるんでしょうか?
これやると、5分ももたないで苦しくなるんですよね。
何をどう集中するのか、教えてくれませんか?

429:考える名無しさん
14/04/30 11:12:46.71 0
>>428
最初は5分ぐらいから、意識の流れを観るのが難しければ、
呼吸に集中してみましょう。
呼吸に5分集中できるようになったら、だんだん時間を伸ばして、
二時間ぐらいできるようになったら、意識を観るのがいいかもしれません。

430:考える名無しさん
14/04/30 11:24:13.18 0
>>424
佐々木氏の本は、最近出た新書のやつしか知らないけど、日本的な大乗仏教をサゲることによって、相対的に
原始仏教をアゲる軽薄な本としか読めなかった。和辻の思想を、あれと一緒にするのはさすがに気の毒では?

431:考える名無しさん
14/04/30 11:44:26.32 0
>>430
原始仏教の実践哲学、読んだ?
あれ、基本

>たとえば釈迦の仏教では「拝んで救済を願えば、死後、よい世界に生まれる」などということは一言も言っていませんし、

という路線の亀鑑だから。
釈尊が「凡夫が如来を賞賛して語るとき、わずかなことのみを、 卑近なことのみを、戒のみを語るにすぎない」と説かれた
URLリンク(www28.atwiki.jp)

それを正に地で行って仏教を伝統から常識に引きずり下ろし、グチャグチャにした元凶こそ和辻に他ならないと思ってる

432:考える名無しさん
14/04/30 12:00:09.60 0
>>429
ありがとう。
やってみます。

433:考える名無しさん
14/04/30 15:14:05.23 0
「仏教論」で検索すると
「c点による仏教論」も、仏教論の一つです。「無記」「竜樹のけ論」を無視しているので仏教哲学ではない。元々仏教は哲学ではない。
c点論も哲学ではなく、一つの思想に過ぎない。

「裸の王様」という童話あり。
あるものはある  ないものはない   色即是空?  空即是色?

434:考える名無しさん
14/04/30 15:36:33.57 0
>>433
c 点は問題外

435:考える名無しさん
14/05/01 12:02:54.14 0
>>426
「心をもてはかることなかれ」 て道元さんの言葉にあるけど、まさに、意図的な気づきはうまくいかないと思う。
ここをどう乗り越えるかは、今熟考中だが、なんとなくヒントが見えてきた。

436:考える名無しさん
14/05/01 13:07:19.35 0
考えて分かるようなものじゃない

437:考える名無しさん
14/05/01 13:55:16.14 0
思考や知的理解を一方的に排除しては、その人に悟りは永遠に来ないだろう。

438:考える名無しさん
14/05/01 14:16:15.90 0
考えるな。感じるんだ。

439:考える名無しさん
14/05/01 15:30:56.40 0
>>435
>「心をもてはかることなかれ」

そりゃ、高い境地だから、集中もできない人には無理です

440:考える名無しさん
14/05/01 15:54:46.71 0
ごちゃごちゃ言うなと。

不二だよ不二。
黙ってろ。

441:考える名無しさん
14/05/01 16:12:32.29 0
>>440
全然分かってないだろ
それに掲示板で黙ってどうする
なぜ、釈尊は教えを説いたのか?
ダルマも

442:考える名無しさん
14/05/01 16:20:20.53 0
>>441
おまえ、釈迦や達磨じゃねーだろw

443:考える名無しさん
14/05/01 16:33:03.58 0
>>442
そんな当たり前のこというなよ
掲示板で、黙ってどうすんだ?

不二ってどういう意味だと思ってる?

444:考える名無しさん
14/05/01 16:55:28.90 0
>>439
高い境地と低い境地、集中出来る、集中出来ない、こういう風に思っていては、
本当の瞑想は出来ない。

445:考える名無しさん
14/05/01 16:58:45.75 0
>>443
おれやおまえの意見など関係ない。不二は不二だ。黙。

446:考える名無しさん
14/05/01 18:11:33.72 0
>>444
本当の瞑想ねw
そんな優れた瞑想者が糞ミソの形だけの無分別論を語るとは思えないけど

447:なんとなく思った名無しさん
14/05/01 18:38:49.15 0
 
 ハンマーヘッドシャーク と ノコギリザメ 
  

448:考える名無しさん
14/05/01 19:56:37.06 0
>>444
そんなこと言われてもなあ
伝統仏教ではそうだし、実際そうなんだが

>>445
なるほど、単なるスローガンですね
何も分かってないし、体験もないと

449:考える名無しさん
14/05/01 20:09:27.18 0
あほ

450:考える名無しさん
14/05/01 20:25:25.86 0
>>449
悪口はいけませんな
仏教に信があるなら

また、仏教に信がなくても、ここは哲板なんで明晰判明に言葉で述べられないなら
黙るしかない

451:考える名無しさん
14/05/02 00:15:46.04 0
鏡はすべての物を映し出すでしょ。

452:なんとなく思った名無しさん
14/05/02 04:46:47.17 0
 
 マンゲ鏡 
 

453:考える名無しさん
14/05/06 18:59:10.79 0
仏教新参者です。浄土真宗の他力の信心に傾倒中。
瞑想中に自力で我執を見送るなんて無理だ。そもそも、自力でってところが既に我執だもんな。阿弥陀様にお願いしたい。瞑想と念仏ごっちゃ混ぜになってるのは自覚してる。

南無阿弥陀仏。我をとなえよ絶対救う。この心強さが嬉しんだよな。

阿弥陀様好きな人いますか?

454:考える名無しさん
14/05/06 19:35:38.83 0
>我をとなえよ絶対救う

ここがちょっと違うぞ。
これでは他力にならない。

455:考える名無しさん
14/05/06 20:06:16.85 0
教義と違うかもな。
新参者だから理解不足もあるが、阿弥陀様の心意気に惚れたんだよね。

456:考える名無しさん
14/05/06 20:49:23.54 0
>>453
はい、好きというか、尊敬しております
アミダは有難すぎです

他の仏教とも勿論矛盾しません
矛盾すると思う人は仏教の理解が狭いか、
浄土教を勘違いしてると思います

457:考える名無しさん
14/05/06 21:02:45.31 0
>>456
よかった。安心した。
浄土教って言い方良いですね。地理的にも時間的にも全部包括して。

458:考える名無しさん
14/05/06 21:17:15.58 0
>>457
安心してアミダ様を拝んでください。
インドでもチベットでもシナでも信仰され修行されてますので
日本の真宗の一部はちょっと変なので、それは倒錯してると考えてください
もちろん、親鸞上人は違います

江戸時代は浄土宗の聖者がたくさんでましたし、
真宗でも妙好人もたくさんでましたので、ちゃんと結果も保証されております。

459:考える名無しさん
14/05/06 21:57:39.13 0
>>458
いろいろありがとう。結構、マジに信心すると思います。
ただ、あれだね、俺はまだまだ欲深いから現世でも救われたいって思います。これは宗教を問わず、人間の業みたいなもんだね。

460:考える名無しさん
14/05/06 22:13:50.70 0
>>459
それもまるっと包み込むアミダの有り難さっすね
往生要集を読むといいかもです

461:考える名無しさん
14/05/06 22:35:51.28 0
もう一度言うけど、「念仏を唱えることによって救われる」 んじゃないぞ。
そこを間違えると、浄土門の意味が無くなる。

唱えることによって救われるならば、それは広い意味で自力になってしまう。
本当の他力じゃない。

462:考える名無しさん
14/05/06 22:41:57.06 0
>>460
往生要集ググりました。
俺はまだまだ現世に執着が有って、我執に苦しむ者です。今は自分にある苦しみを少しでも薄めたいので、この本は、後々読もうと思います。

正直に言うと、現世に苦しむ者が救いを求めて、阿弥陀様に惹かれているのです。

463:考える名無しさん
14/05/06 22:49:39.70 0
>>461
コメントありがとう。
新参者なので、他力の意味を完結に答えられません。
下記のブログで他力の意味を理解しました。

URLリンク(ictv.easymyweb.jp)

464:考える名無しさん
14/05/06 23:10:24.59 0
463です。

浄土真宗に救いを求めて始めたキッカケは下記の法話です。

URLリンク(www.hongwanji.or.jp)

465:考える名無しさん
14/05/06 23:52:30.29 0
「どんな時にもお任せする」 それが他力の信心です。
「念仏したら救われる」 じゃなくて、「もう既に救われている」のです。
念仏をひとたびでも唱えたら、もう既に救われている。
阿弥陀様の救いが確定している。
だから後は阿弥陀様を称え、感謝する称名念仏をすればいい。

どんなに悪い自分であっても、どんなに困難が襲ってきても、どんなに自分が弱気であっても、
落ち込んでいても、潰れかけていても、阿弥陀様の救いは確定している。  阿弥陀様が救いを確定して下さっている。
だからいちいち何かを変えようとしなくていい。
全てを阿弥陀様にお任せすればいい。
そのまま、ありのままでいい。
これが他力の信仰です。

>>463のブログに出てくる、「内観の念仏」 というのは、自力の行になります。

466:考える名無しさん
14/05/07 00:57:09.39 0
>>465
長文による説明ありがとう。

webの拾い読みだったので、間違った理解をしていたんですね。

見ず知らずの者に時間を使ってくれて、感謝します。

467:考える名無しさん
14/05/07 04:38:01.04 0
日本、特に近代真宗でいう他力って結構、へんなんで
あんまり気にしなくていいと思う

468:考える名無しさん
14/05/07 05:15:29.14 0
その辺が日本人の限界だろ。

469:考える名無しさん
14/05/07 05:27:49.51 0
>>468
日本人の問題じゃなく、真宗の近代教学がへんなだけ
特に清沢満之以降は、もはや仏教とは思えない

470:考える名無しさん
14/05/07 05:40:30.35 0
朝早いですね。住職さんですか?
俺は自律神経失調症で眠れないヤツ。

471:考える名無しさん
14/05/07 05:46:57.87 0
>>470
最近、毎朝四時半ぐらいに猫に起こされてます

寝る前に座って、アミダさんなり観音さんなりのご名号を千回とか一万回とか
唱えてみてはどうでしょう。
お姿を思い描きながら、唱えると緊張がとれて眠くなるかもです
寝なくちゃとか思わないで気軽にリラックスしてやってみてください

472:考える名無しさん
14/05/07 05:58:36.97 0
他力というのは波平が前いってた?ようにただ念仏を唱えれば
救われるといった方が民衆は理解しやすいし迎合しやすいだろう
というものではなく、念仏をすることで他力本願に近づくという
もっと深い部分での人間の自然な「救い」を体現するのに念仏を
唱えるといった意味を持つものだろう。

人間は自然なものであり、その心や精神も無理矢理に苦行で矯正していく
ものではなく、あるがままを体現していれば自然と阿弥陀仏が救ってくれる
といったものでり、念仏はその手助けとなる。信仰の意味みたいなものを
繰り返していく行為だと思う。または霊的な意味も宗教だからあるだろうが
私も他力の教えには感動し、傾倒している。

涙がでてくるほど優しいことをいっているんだと思うよ。
「あるがままでいいんだ。自分(自力)より大きなもの(他力)に従おうよ。
そうやって自然に生きていれば必ず阿弥陀仏が救ってくれるから
人間が自然でいることはすばらしい。生きよう自分自身(他力)を」
って意味じゃないかな?

嘆異抄を読んでそう思った。

473:考える名無しさん
14/05/07 06:22:25.92 0
>>471
メンヘラに念仏って効くのかな。今度やってみます。

474:考える名無しさん
14/05/07 07:36:12.03 0
>>472
>「あるがままでいいんだ。自分(自力)より大きなもの(他力)に従おうよ。
>そうやって自然に生きていれば必ず阿弥陀仏が救ってくれるから
>人間が自然でいることはすばらしい。生きよう自分自身(他力)を」

こういうのが近代教学の誤解ね
親鸞上人も明らかに仏教の枠内で念仏を説かれててると確信する
そう思えない人は、七里恒順師か山口益先生の本を読むといい。

>>473
効く効く、信があればアミダ、観音が救わないものはない

475:考える名無しさん
14/05/07 09:05:27.14 0
>こういうのが近代教学の誤解ね
親鸞上人も明らかに仏教の枠内で念仏を説かれててると確信する

何いってんの?近代教学の誤解ってあんたが誤解してんでしょう。
親鸞のどこからとってきて誤解とか決めつけてんの?
山口益先生の何から発言してんの?

476:考える名無しさん
14/05/07 12:03:11.68 0
阿弥陀ババァか。。

477:考える名無しさん
14/05/07 17:14:49.84 0
念仏が、「効く、効かない」、じゃないぞ。
「効く、効かない」は、仏教じゃない。
ここが分からないと、浄土門の念仏は分からないだろ。

浄土門はとくに、平等心を大切にする。
禅も同じ。分別を無くすことが、仏教の目標なんだよ。
どんな自分でもお任せする。ありのままでいい。

こういう自分はダメだ、ああいう自分はダメだ、苦を楽にして欲しい、
なんとか今の苦境を救って欲しい、← これじゃ、正しい念仏とは言えないよ。

親鸞は昔、疫病に苦しむ村を通りかかったんだよな。
そしてその村人達を救おうと、浄土三部経を千部読誦しようとした。
お経を読むことによって村人を救おうなんて、阿弥陀様の救いを信じていないってことになるんだよね。
阿弥陀様に全てをお任せすることが出来てない。
本当の信心ってのは、良い自分も悪い自分も、すべてお任せ。
嫌なものが出てきたから、これをお任せ出来なくて取り除こうってのは、阿弥陀様の救いを信じられていない証拠。
救いが確定しているから、「このままでいいよ」と許される。
これが本当の他力なんだよ。
悪いものを取り除いてもらうための念仏なら、それは自力だ。

478:考える名無しさん
14/05/07 19:47:45.73 0
>>477
君のは近代真宗教学内では、そうなんだろうが、
仏教的には全く違う。

>>472
>>「あるがままでいいんだ。自分(自力)より大きなもの(他力)に従おうよ。
>>そうやって自然に生きていれば必ず阿弥陀仏が救ってくれるから
>>人間が自然でいることはすばらしい。生きよう自分自身(他力)を」

上の根拠は、浄土三部経、十住論、浄土論、親鸞著作にあるのかい?
示せないなら、仏教というのは止めた方がいい。

因みに仏教でいう平等心というのは世俗的な意識での平等ではない
勝義、空性での平等に他ならない。
それを世俗因果内での平等と捉えたら無茶苦茶だ。

479:考える名無しさん
14/05/07 23:24:37.72 0
>>478
どう読んだら477を、世俗的平等と読めるのだろうか?
平等心というのは、空性の平等そのものだよ。
あなたは何かを勘違いしている。

もし、念仏によって救ってもらえる、救ってもらおうと考えているのであったら、
それこそ近代的な誤解釈というべきだろう。
近代的というか、当時でも自力念仏とかあったよね。
こういう間違いを犯す人はいつの時代にも出てくる。
阿弥陀の救いをある種のオカルトように考えている。 オカルトというのは聞こえが悪いが、スピリチュアル的に考えている。
阿弥陀をある種のスピリチュアル的な存在と考えていて、それが救ってくれると思ってる。
そういう考えこそ、世俗的な他力だよね。
それじゃ、仏教の空性から外れてしまう。

もし世俗的な他力、救いというならば、逆に阿弥陀の本来の素晴らしい救いを、限定的なものにしてしまう。
477を世俗的平等と見ているところがもうダメだ。

禅でもこういう勘違いをする人が多い。
雑念を無くすために統一する。 心を落ち着けるために座禅をする。 苦悩を無くすために座禅をする。
「~の効果を得るために座禅をする」 というやつ。
雑念があっても無くても、苦悩があっても無くても、平安であっても無くても、そこに捉われないのが禅なんだよ。
念仏も同じ。
二項対立の自分があっても構わない。そういう分別の世界を超えて救われているのが、念仏の意義なんだよ。
悪い自分と良い自分を平等にしよう、ってことじゃないよ。
悪い自分、良い自分に捉われない、中道ってこと。
捉われない境地、中道において平等なんだよ。 

480:考える名無しさん
14/05/07 23:37:55.47 0
>>479
なるほど、平等心は誤読だった
それは認めるけど、君の主張する近代教学は排他的で認めがたい。
どうせ異安心とか言うタイプでしょ。そもそも浄土教が方便道の一つであることに理解がないように思う。

親鸞上人は『現世利益和讃』も説かれてるし、他でも利益、効果も説かれてるけど、それと君のような近代教学とは矛盾するよね。
URLリンク(21dzk.l.u-tokyo.ac.jp)

それと以下は君の文だと思うが、これの根拠が親鸞上人の著作にあるのかい?
示せないなら、近代教学と親鸞上人でさえ違ってることに自覚されてたし。
仏教一般は尚更だ。

>>472
>>「あるがままでいいんだ。自分(自力)より大きなもの(他力)に従おうよ。
>>そうやって自然に生きていれば必ず阿弥陀仏が救ってくれるから
>>人間が自然でいることはすばらしい。生きよう自分自身(他力)を」

481:考える名無しさん
14/05/08 01:25:18.52 0
母は何十年も仏教をやってるけど色即是空の意味も知らない
有難さや得が耳から入ってくると言っている
うろ覚えだが、これは偶像崇拝といい、仏教徒の誰かが禁止していたような
母には酷なので教えないけど

482:考える名無しさん
14/05/08 01:56:35.95 0
>>481
いや、それで良いんだよ。
知る知らないは関係ない。信じること即救われることなんだから、
お母さんは既に救われてる。

483:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/05/08 04:55:20.90 0
>>479 :考える名無しさん:
>悪い自分、良い自分に捉われない、中道ってこと。

なんか違うと思うぞ・・・
悪い自分に気づいた時点で救われている・・・と言う感じでは?
そこに「悪い自分」と言うあるがままを受け入れたからだ。

>>481 :考える名無しさん:2014/05/08(木)
>偶像崇拝といい、仏教徒の誰かが禁止していた

例えば 念仏を唱えるのは、唱えている間は余計な事は考えないだろうと言う効果です。
それを念仏を唱えたから往生できると考えてしまっては元の子も無い。

484:考える名無しさん
14/05/08 05:07:58.66 0
>>482
>お母さんは既に救われてる。

信じることが救われることじゃない
アミダへの親鸞上人的な金剛心ができるのは稀有なことだ
そこが全く分かってない

>>483
>悪い自分に気づいた時点で救われている・・・と言う感じでは?

また、適当なことを

485:考える名無しさん
14/05/08 05:39:58.89 0
>>481
>うろ覚えだが、これは偶像崇拝といい、仏教徒の誰かが禁止していたような

偶像崇拝というのはセム系宗教の言葉で、仏教の言葉ではないですね
恐らく日蓮系の人がそんなこと言ってるんでしょうが、
日蓮自体が非仏教なので、全く勘違いです。

>母は何十年も仏教をやってるけど色即是空の意味も知らない
>有難さや得が耳から入ってくると言っている

仏教は道が色々あって、こういう道もあります。
その一つが浄土教、アミダの教えです。
だから、お母さんは真っ直ぐな信があり、アミダや観音を信じているなら大丈夫です。

486:考える名無しさん
14/05/08 08:42:42.17 0
介護やら、リストラやら、病気やら、人生詰みそうだ。仏教に救いを求め、四法印を胸に刻んでも、現実の苦悩が減らない。
この先、仏教で俺は救われる事があるのだろうか?

487:考える名無しさん
14/05/08 08:45:27.15 0
>>486
あると思うけど、それは本人次第だと思う

488:考える名無しさん
14/05/08 09:06:16.77 0
>>487
そうですか。。。。

489:考える名無しさん
14/05/08 09:31:13.77 0
>>488
そうですとも
仏の教えは素晴らしいですから
それと四諦の一番目は苦諦ですから、生は苦しいに決まってます

釈尊でもアミダでも観音でもいいですから、好きな本尊を観想して
起きた時と寝る前に五分、座ってみてください。

490:481
14/05/08 11:07:36.40 0
>>485
でも母は救われるとか、これで家族は大丈夫、とか考えて信じているようなのですよ
しかし「色即是空空即是色」は、実態は変化しない、という意味ですよね?
変化を望んでいるのに、変化するものは無い、と唱え続けるのはどうなのですかね?
「色即是空空即是色」は、何かひどい目に合っても実態は変化していないから悲しむ事は無いよ、というような意味もあるのではないかと思うのですが、
多分母は家族がひどい目にあったらメチャ悲しむと思うのです

>アミダや観音を信じているなら大丈夫です
あとこれはどういう意味でしょうか?

491:考える名無しさん
14/05/08 11:37:30.51 0
>>480
人が真実信心によって念仏を唱える時、それは縁起の世界に自己を置いているのと同じ。
縁起の世界=無限の世界=阿弥陀仏

縁起の世界に自己がある時、そこに自我はない。
自我が無いとき、自己はすべての世界の存在と完全に結びついてる。
そのとき自己は、他のすべての存在から守護を受けているといってもいい。
それが、現世利益和賛に言われている、仏や菩薩、善神たちの守護なんだよ。
自我の願いによって、自力の祈願によって守護を受けると思ったら、大間違い。
エゴを満足させるような祈願は、念仏じゃないよ。

念仏を唱えていても、重病になる人もいるだろう。事故や不運に合う人もいる。
そういう事象に捉われず、すべてを任せきってありのままになったとき、そこに本当の意味の幸せがり、浄土がある。
事故や不運を無くすことが幸せなんじゃない。 そこを越えることが幸せなんだよ。
それが仏教なんだよ。
エゴを満足させている以上、また次の不都合が起きる。いくら利益があったってキリが無い。
そこを越えること。
水瓶の蓋を満足させるんじゃなく、蓋をとって中の水に月の光を映すのが、真の現世利益だ。

あるがままっていうのは、月の光を一生懸命受けよう、受けようとするんじゃなくて、
蓋を外してただ水面に月を映すことだ。
蓋を外せば自然に月の光が映ってくる。 それが他力に任せるということで、それが阿弥陀仏の救いということ。

492:考える名無しさん
14/05/08 11:45:23.48 0
>>483
>そこに「悪い自分」と言うあるがままを受け入れたからだ。

悪い自分をあるがままに受け入れるということは、悪い自分に捉われないということと同じ。
あるがまま=捉われない=全てを受け入れる  まったく同じ意味。

良い自分、悪い自分に捉われないというのは、たとえ悪い自分が出てきても、それはダメだというんじゃなくて、
それでもいいよと受け入れること。 そのまま。ありのまま。
捉われがあるから、あれじゃダメ、これじゃダメ、とやっちゃう。

493:考える名無しさん
14/05/08 11:46:20.12 0
>>490
大丈夫

色即是空などは、般若によって戯論寂滅の境地に至る道で知的に文を理解しても、
そんなに意味はない禅定に入って般若観しないとほとんど意味がないです。
もちろん『般若心経』を唱えることは功徳になり意味がありますが。

アミダや観音は他を救うことを誓願していますので、
今、アミダや観音を信じて称名すれば利益がありますから。
こちらは般若の道とは全く違うので、禅定や般若観などができなくても効果ありますから、大丈夫です。

心配御無用

494:考える名無しさん
14/05/08 11:48:29.79 0
>>491
そうやったらそういう保障が無い救いを信じられるのでしょうか?
エゴがどうしても拒否するのですが

495:考える名無しさん
14/05/08 11:59:18.56 0
>>491
だから、親鸞上人の文献のどこにそんなこと書いてあるの?
近代教学がそんなことを言うのは知ってるが、
それは仏教はもちろん、親鸞上人に根拠ないんじゃないか、と聞いてるので、
親鸞上人の文献を引用せずに観念的に色々述べても全く根拠にならないって分からないかな?

そんなこじつけの付会じゃ、なあ。

496:考える名無しさん
14/05/08 12:02:21.32 0
>>493
アミダや観音の誓願にはどうして効果があると言えるのでしょうか?

497:考える名無しさん
14/05/08 12:02:28.09 0
>>491
最終的に似たような境地もあるけど、
こういう現代教学は、たんなる観念的な気休めの現状肯定に堕していて、
仏教とはほとんど関係ない唯の詭弁だと思う

もし、こういう説を真宗が取るなら、それは仏教一般とは相容れない。

498:考える名無しさん
14/05/08 12:07:05.91 0
>>496
過去に聖者がそれを信じて結果を出したからです。
江戸時代なら日本でも沢山あり、戦前ぐらいまでは残っていました。
現代でもチベット系では沢山そのような結果が出ています。

それが信じられるかどうか、それが仏教の門であり、
特に浄土教は信が要であることは、親鸞上人も法然上人も源信上人も
シナやインド、チベットの聖者も口を揃えています。

499:考える名無しさん
14/05/08 12:21:50.32 0
>>490
>「色即是空空即是色」は、実態は変化しない、という意味ですよね?

実態は変化しない、という意味ではなく、逆に諸行無常を言い表していると思いますよ。
実態があると思われているものは、常に変化変滅していて、実は実態がない・・・
だから、苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、それらに実態はなく(空)、 消え去っていく。
消え去るものを追うから、苦しみが付きまとう。

>>481のお母さんの信仰は、それで良いと思いますよ。
普通のご利益信心より、一歩上だと思います。

500:考える名無しさん
14/05/08 12:29:57.39 0
>>499
そんな解釈はインド・チベット・シナ・日本の聖者の解釈とは全く違うんで
そういう気休めが和辻以来の常識への阿諛追従で日本仏教を骨抜きにしてきたと思うは

501:考える名無しさん
14/05/08 12:35:07.52 0
>>500
「色即是空空即是色」をインド・チベット・シナ・日本の聖者たちはどう解釈してるの?

502:考える名無しさん
14/05/08 12:36:46.67 0
>>494
信仰というのは、信じられるか、信じられないか、って問題だから、
信じられないのなら、無理に信仰する必要はないでしょう。
時節が来れば信仰出来るようになるかもしれないし、また、この宗教だけが救いの道だってわけでもない。
自分に合った道を見つければいい。

503:考える名無しさん
14/05/08 12:38:56.37 0
>>500
「空」というのは「自性」が無いことで、これが「諸行無常」だよ。
解釈もクソもない。

504:考える名無しさん
14/05/08 13:04:42.80 0
>>495
では、あなたは何が言いたいの?
言いたいことが見えてこないんだけど。

念仏に力があって、あらゆる危難から守られる、ってことが言いたいのかな?

>>497
>たんなる観念的な気休めの現状肯定に堕していて

観念的な現状肯定、気休めではないよ。
悪い物もそのまま受け入れましょうってのは、ただ逃げられないからその中にいましょう、ってことじゃない。
我、分別によって、苦しみの捉われが起こる。
それをそのままにしておけっていうんじゃ、いつまで経っても苦しみは無くならない。
苦しみが無くなるには、全てを預け切って任せる場所が必要。
それが念仏なんだよ。

全てを預けきるとは、どのような苦しみがあっても、そこを超えた世界に身を置くということ。
これはヴィッパーサナにおける観察と同じだろ。
この業の世界から、それを超えた世界に意識を移す、思考分別の世界から離脱するってこと。
離脱もなく、ただ苦しみのウズの中に巻き込まれているだけの観念的な現状肯定じゃないよ。

505:考える名無しさん
14/05/08 14:16:02.09 0
>>501
そりゃ大変だぜ
親鸞上人の典拠も出せないヤツになんで見せなきゃならない

>>503
空性は無自性ならいいが、空が「自性」が無いことというのは違うな
そして諸行無常とも微妙に違う。
そしてまた、空性を見解や思想として捉えてしまってはどうしようもない。
般若にしろ中観にしろ、見解を寂滅する道で、見解を掴むじゃない。
日本の仏教学は、ほとんどそうなってしまってる。
山口益先生は数少ない例外なんだよ。

>>504
単に君は現代真宗教学しか知らなくて、そういう変な知識で仏教語るなってことって分かりそうなもんだけど

まあ、もう言うことは言ったからもう辞めとくは。
山口益『大乗としての浄土』を前提に親鸞上人を真宗聖典などを読めば明らかに真宗現代教学がおかしいのは分かると思う。
手っ取り早く末木文美士『浄土思想論』でも充分だ。

インド・チベット・シナ・日本と20年かけて学べとは言わんが、上ぐらい一ヶ月ぐらいかけてやった方がいいぞ。

506:考える名無しさん
14/05/08 16:42:10.11 0
>>498
>過去に聖者がそれを信じて結果を出したからです。江戸時代なら日本でも沢山あり、戦前ぐらいまでは残っていました。現代でもチベット系では沢山そのような結果が出ています。

アミダや観音の誓願の効果を知りたいです。
いくつか具体例を教えてくれませんか?
オカルト的な結果になるんでしょうか?

皆さんスルーしているので、不思議です。

507:考える名無しさん
14/05/08 17:40:47.97 0
>>505
「空性」も「空」も同じ。
「無自性」も「自性が無い」も同じ。

山口益って現代人だよね?
現代人の解釈による真宗なら、それもまた広い意味で、真宗現代教学とも言えるんじゃないの?
そんなにすごいなら、その主張をここに書いてみればいいのに。
きっと何かの参考になるだろう。

508:考える名無しさん
14/05/08 19:44:37.75 0
>>506
オカルトとかではなくて、生死を越えた境涯を達成したということなら、
「妙好人」の人達がいるでしょう。

509:考える名無しさん
14/05/08 20:16:44.57 0
>>508
妙好人をぐぐって、分かりました。

510:考える名無しさん
14/05/08 20:48:05.87 0
>>506
例えば、親鸞上人は二つの夢告が重要です。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(21dzk.l.u-tokyo.ac.jp)

江戸時代は、妙好人以外でも弾誓上人、称名念仏のみで自然智を得て浄土法界を体得した徳本行者、不断念仏を行い死後舎利を残した祐天上人など枚挙にいとまありません。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

また観音の霊験は白隠禅師が詳しく『延命十句経霊験記』に書き留めています。
白隠禅師は『十句観音経』の霊験を讃えた後に一転してそれらは「ただ世間的あり様、有為の夢幻・空華の談論」と述べています。
これを霊験譚を方便説と解釈する方がいますが、これは原始仏典で釈尊が始めに施・戒・生天、つまり輪廻と出離の功徳を説き、
後で無我・空の教えにより、それら因果も無我・空であると説かれたのと同じでしょう。

つまり「ただ世間的あり様、有為の夢幻・空華の談論」と観音の霊験談を述べます、それは確かに幻で空です。
ですが、それは我々が知覚する対象すべて幻で空なだけで、その場合、実在など何もないという意味です。
言い換えると観音の霊験と世間の現実、どちらも世俗では効果がありますが、勝義ではどちらも幻という意味に他なりません。

信じる信じないは別にして仏教はこういう意味では一貫してます。

511:考える名無しさん
14/05/08 21:11:44.23 0
>>510
>言い換えると観音の霊験と世間の現実、どちらも世俗では効果がありますが、勝義ではどちらも幻という意味に他なりません。

すごく良く分かりました。
詳しい説明ありがとう。

512:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/05/09 01:03:37.61 0
>>492 :考える名無しさん:2014/05/08(木)
>たとえ悪い自分が出てきても、それはダメだというんじゃなくて、それでもいいよと受け入れること。 

それは酷いんじゃあないの?
人を殺して懺悔してる人に、「良いのいいの殺してもいいの」という訳?

513:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/05/09 01:13:27.54 0
>>490 :481:2014/05/08(木)
>「色即是空空即是色」は、何かひどい目に合っても実態は変化していないから悲しむ事は無い

     >>351 :じいさん ◆6rgGIYz09M :2014/04/11(金)
にも書いたが心経の趣旨は「色即是空」ではなく「五蘊皆空」なので、そこんとこ宜しく。
それにしても「実態は変化していない」とは酷い解釈、逆です。
実体はない、生もない、だから生まれても居ない、しからば酷い目に逢っても悲しむ自分も居ないだろう・・・・
と言った意味です。

514:横で亀ですが
14/05/09 04:10:12.18 0
>>465
>阿弥陀様が救いを確定して下さっている。
>だからいちいち何かを変えようとしなくていい。
>全てを阿弥陀様にお任せすればいい。
>そのまま、ありのままでいい。
>これが他力の信仰です。

これは親鸞上人の消息文に反してるので、(まともに聖教を読む限り)明確に否定されますね


  「ふかくちかいをも信じ、阿弥陀仏をもこのみもうしなんどするひとは、もとこそ、こころのままにて、あしきことをもおもい、あしきことをもふるまいなんどせしかども、
  いまは、さようのこころをすてんとおぼしめしあわせたまわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめ。」
  URLリンク(www.icho.gr.jp)


煩悩そのままではない、悪しき行いを翻すのが親鸞説です
で、真偽問題をいう人が出てくると思うので言っておくと、
これは妙好人(赤尾の道宗)によっても支持される信心理解です。つまり証によっても確かめられているので、後代の改竄ではない


  「冥の照覧と存候て、人しり候はすとも、あしきことおはひるかへす候へき事。」
  URLリンク(www009.upp.so-net.ne.jp)

515:考える名無しさん
14/05/09 05:47:03.98 0
>>513
 また、適当なことを

516:考える名無しさん
14/05/09 06:12:49.93 0
>>514
どうもありがとうございます。
ちなみにこのような近代教学と伝統教学は、今真宗内でどの程度普及信仰されてるのでしょうか?

517:考える名無しさん
14/05/09 06:38:10.18 0
>>516
すいません
ただの好事家なので真宗信者ではないし、現場の真宗事情はまったくの無知です
ただネットで門徒の方と話してみた限りでは聖教や伝統的理解に基づいてなにか語ってる人というのは皆無で
近代教学の独壇場といった感じですね

チベットと真宗を並行で学んでおられた女性が一人だけいて、彼女だけが例外です

518:考える名無しさん
14/05/09 07:04:09.65 0
>>517
ありがとうございます。
チベットの浄土教も一般には日本の浄土教と同じなんですが、
日本に紹介されているのはゲルクの特殊な浄土教否定説ばかりで困ったものです。

近代仏教は清沢満之や和辻の罪が大きいと思うのですが、以下の論考はもっと現場のあり方を扱っていて、とても新鮮でした。
URLリンク(repo.komazawa-u.ac.jp)

519:考える名無しさん
14/05/09 08:20:52.97 0
>>518
ゲルク派が浄土教否定というのは初めて聞きました。ダライラマ法王はそのような立場ではないと思うのですが


論文の池上氏は近代的な合理主義から抜け切れていないけれど、刺激的な知見が多いと感じました
熟読せねば
優れた論文のご紹介ありがとうございます

520:考える名無しさん
14/05/09 08:37:24.32 0
>>519
ダライ・ラマ猊下はもちろん違います。
ゲルクでも悪霊派というゲルク原理主義がありまして、
ゲルクの中でかなり有力な勢力です。

それが浄土教を否定しています。浄土教というかゲルク原理主義以外全て否定というのがその本質だと思います。
これは日本でいうと日蓮宗や真宗の排他性に近いと思います。

ダライ・ラマ猊下はそれを否定し排除に努めております。
そして悪霊派はダライ・ラマ猊下を否定しています。

521:考える名無しさん
14/05/09 13:13:16.67 0
>>512
悪い自分が出てきたとき、「それでもいいよ、と受け入れる」 ということは、
「悪いことをしてもいいよ」 という悪の肯定じゃなくて、「悪いことをしたのは仕方が無いんだ」 と受け止めること。
他力というのは、「悪業」と「念仏の心」を完全に切り離してる。

「ハスの花は泥に塗れず咲いている。」 という時、ハスの花の視点で「泥に塗れても花は一つも汚れない」 というんであって、
花もなく、ただ「泥そのままでいいんですよ」というのと訳が違う。
泥の無い花では、いつまで経っても救われない。
「悪いことは一切関係ない」っていうのは、業の世界の肯定じゃなくて、業の世界の否定なんだよ。
もしも「悪いことは悪い」と断罪するんなら、それは業を掴んでることになる。
まさに、泥の中で泥を洗うようなことになってしまう。

悪いことも良いことも、全て阿弥陀様にお任せという時は、分別思考(泥)を全て阿弥陀様にお任せして、
泥から離れるってこと。
泥の一部分を、良い悪いと、泥の中で分別するんじゃなくて、泥の中から出てしまう。 それが念仏の功徳なんだよ。

522:考える名無しさん
14/05/09 13:21:43.22 0
>>521
そういう境地はある任運とか、サハジャーとか無功用とかあるけど
ほんと空性体験に留まれるような高度な境地なんで、
いきなりそんなこと言っても、初心者は単なる現状肯定か、気休めしか思えないし
恐らく現代真宗教学者もアナタ自身も単なる言葉で観念的にしか理解してないとしか思えないんですね。

ほんとに慈悲に溢れた妙好人や七里老師にような方が言うなら、納得できるけど

523:考える名無しさん
14/05/09 13:25:48.25 0
補足すると、そういう境地の方は必ず菩提心を起こし、誓願を立て、普賢行の中で述べられます。
そうでなく智の側面だけで捉えるというのが現代教学や現代仏教学、野狐禅などの特徴ですね。
そうなるともはや、大乗仏教ではないと思います。

524:考える名無しさん
14/05/09 13:32:14.71 0
>>514
その文章は、深く信仰に入った人の境地を抜き出していますよね?
「仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには」「ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏をも好みまうしなんどするひとは」
これは深く信心が確定している人の境地です。
こうなると、業の世界から離れているので、それに捉われることも無くなってくる。
我が無くなって自然(阿弥陀、浄土)と調和してる状態なので、その行いは自然と調和する方向に向かっていく。
だから悪い行いは自然としなくなる。
浄土の行いが自然と出てくる。

問題は、あなたの挙げた文章の、その前の文章だよ。
深く信心が確定した人の態度じゃなくて、凡夫の態度だよ。
  
   「はじめて仏のちかひをききはじむるひとびとの、わが身のわろくこころのわろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずるといふひとにこそ、煩悩具足したる身なれば、
    わがこころの善悪をば沙汰せず、迎へたまふぞとは申し候へ」

>悪しき行いを翻すのが親鸞説です

悪しき行いを翻すってのは、ハスの花の立場だよ。
泥の中で、「あの泥はいい、この泥は悪い」 ってやるんじゃない。

深い信心の中から出てくる良い行いってのは、分別の世界を超えてるんだよ。
自然に出てくるもの。
自分が意図していい行いをしたり、悪い行いをしないようにするってことじゃない。
自然にそうするようになるってこと。

525:考える名無しさん
14/05/09 13:38:46.61 0
>>522
「で」あるからだよ、だからこそ、「他力」なんだよ。
だからこそ、「全てを阿弥陀に任せる」んだよ。
自分の力ではどうにもならない。 業の世界というのは自分の力に関係なく出てくる。
ある時は怒りが出てきて、ある時は人を傷つけてしまうかもしれない。
それはもう自分ではどうしようもない。

だからこその念仏であり、だからこその信心なんだよ。
ここに阿弥陀様がどんな人でも救ってくださるという意義が出てくる。

526:考える名無しさん
14/05/09 13:40:54.83 0
>>524
分かってないな
唯の観念論

現代教学を是として論じても間違いは分からないよ
もし、文献的にやるならインドからキッチリ追ってかないと無理

真宗学の「深心」とかで解釈しても仕方ない
それをやるなら十地・五道などをきっちり梵パ蔵漢に渡ってトレースしていかないと仏教としては語れない

少なくともここでは現代真宗学で語っても、ほとんどの人は納得しないぐらい気づいてくれよ

527:考える名無しさん
14/05/09 13:45:00.89 0
>>525
いやいや、細かい違いをすっ飛ばして適当に観念的に勝義の境地に持っててるのが、真宗現代教学でしょ
そもそも念仏などの浄土教は往生のための称名と信が重要で親鸞上人もそう。
現代教学はそういう部分を切り落として現代人に合わせて口当たりよく適当にいってるだけでしょう。

もっともそういう方便もありだろうけど、それを王道と説かれてはなあ

まあ、アナタに通じないことは良くわかった

528:考える名無しさん
14/05/09 14:02:36.23 0
もしも「怒りは悪い」、と決め付けてしまったら、怒りが抑えられない度に、「自分はダメだ~」と思うだろ。
そして、「こんな自分じゃダメだ」と、怒らないように怒らないようにと、自分の力で抑えようとする。
しかし、業ってものはそんなに甘いもんじゃない。
いくら抑えても抑えても、どんどん出てくる。
抑えきれるもんじゃない。

もしもそういうのを自分の努力でなんとかしないといけないって言うんなら、それは浄土門じゃない。
他力でもなんでもない。

親鸞がなぜ「悪いことをしてはならない」と言ったのか。
本来、この世の悪行というのは浄土(悟り)の世界を一切汚すことが出来ない。
業の世界というのは浄土(悟り)の世界に一切影響しない。
夢の中でいくら悪いことをしても、起きている人には一切影響しないのと同じ。
だからといって、いつまでも夢を楽しんでいいって話じゃない。
仏教本来の目的は、夢の中から脱すること。
夢の中が、苦そのものなんだよ。
苦の世界から脱するのが念仏の意義なのに、いつまでも苦の世界に捉われて、それを良しとする人がいる。
「あ~、自分はいつまでも夢の世界に捉われていてはいけないな、ここから抜け出たいな」 と思ってる人にこそ、
「夢の中の善悪に捉われるな。 すべてをお任せして、なるべく夢の世界から離れていきなさい」 っていうのがこの教えの重要なポイントなんだよ。

善悪は関係ないという言葉を聴いて、「夢の中でどんなに悪いことやったって関係ないんだ、夢の中でどんどん悪いことやろう」 って人が出てきた。
これじゃあ、夢の中にどんどん捉われていって、夢から抜け出せなくなるよね。
だから親鸞が「悪いことはいけない」と言う時は、「この世の善悪に捉われるな」と言ってるのと同じなんだよ。

悪いことを好んでするのも、悪いことへの捉われ。
悪いことを断罪するのも、悪いことへの捉われ。
どちらも否定しているのは、「捉われ(業の世界)」だよ

529:パンの耳
14/05/09 14:56:04.96 0
     
     錨 の マーク見ながら 

  意味を wiki ってみれば  魚の皮かぶったおじさんの

    天地創造と不動明王の意味が分かりますよ

  
             クサリの比喩表現も でてくるし

 ブルートと ポパイの法蓮草の缶詰と オリーブの 関係
      

530:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/05/09 15:14:39.30 0
>>521 :考える名無しさん:2014/05/09(金)
>「それでもいいよ、と受け入れる」 ということは、「悪いことをしてもいいよ」 という悪の肯定じゃなくて、「悪いことをしたのは仕方が無いんだ」 と受け止めること。

だったら最初から「悪いことをしたのは仕方が無いんだ」と言えば良いだろう。

>>492 :考える名無しさん:2014/05/08(木)
>「悪い自分が出てきても、それはダメだというんじゃなくて、それでもいいよと受け入れること。」

これじゃあ絶対誤解を受ける。

531:考える名無しさん
14/05/09 15:20:20.77 0
これじゃ唯の気休め以外のなにものでもない
現代日本仏教はほとんどそうなってしまってるから、再生しないとね~

532:考える名無しさん
14/05/11 00:01:31.61 0
>>465
そんな風な哲学を無理やり自分に自力で思い込ませることが難しい人も多い。

そんな人でも大丈夫なのが南無阿弥陀仏です。

533:考える名無しさん
14/05/11 05:18:39.11 0
>>532
そうそう、五逆謗法以外の人ならどんな人でも信さえあれば極楽往生できる
アミダの誓願は有難すぎる

534:考える名無しさん
14/05/11 12:05:20.24 0
無欲であろうとすることこそが欲なのではないか?
打算的でないよう装うこと自体が打算であるように。
誰か教えてくれ。

535:考える名無しさん
14/05/11 15:00:27.48 0
>>534
欲考えてみな

536:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/05/11 20:00:37.51 0
>>534 :考える名無しさん:2014/05/11(日)
>無欲であろうとすることこそが欲なのではないか?

勿論そうなのだか、それでは「無欲の欲」を無・無欲の欲とするがそれも欲なので、さらに無・無無欲として・・・・何時までも欲は付きまとう是を縁起と言う。
そこで般若心経の作者は革命的なことを思いついた。
欲(五蘊の意識から来る)そのものが無いとしたのだ。
何かを欲したいと思っても何かと言う物事そのものが空であるとしたのだ。
空を欲してもその欲は空となる、こうして始めて因果意識(縁起)から解脱できると言う事。

537:考える名無しさん
14/05/11 21:04:29.32 0
妄想おつ

538:考える名無しさん
14/05/12 08:58:46.61 0
ここで、話している方々って、我執とかに悩まされないの?
例えば、お金とか家族とか健康とか、人生の悩み事あるでしょ? 家族持ちなら避けて通れない悩みだよね。

539:パンの耳
14/05/12 12:17:02.19 0
  
 環境破壊して 精神的に追い込んで問答させるのが

      蟹バブルだから(笑)
  

540:考える名無しさん
14/05/12 16:32:26.80 0
>>538
問題や感情としては起こるけど、あんまり引きずらない
無常・無我・空だと信じてると、あんまり囚われないよう段々なるよ

541:考える名無しさん
14/05/12 17:39:16.11 0
>>540
やっぱ、そうですか。
煩悩に悩まされないようになりたいね。

542:考える名無しさん
14/05/12 20:17:42.53 O
怒りや悩みも長続きしないが嬉しさや意欲も長続きしない
草のように風に吹かれて揺れるだけ

543:考える名無しさん
14/05/12 20:22:09.55 0
>>541
ほんとはちゃんとした聖者から教えを受けた方がいいんですが、
無常であること、無我であること、空性であることを意識しながら、
自分の怒りや愛著を観てると、段々虚しい自爆行為であることが分かってくるかも
けっこう、時間かかるので何年も意識を持ち続け心を見つめることが重要かと

>>542
いいっすね~、そうなりたいものです

544:考える名無しさん
14/05/13 11:21:41.62 0
ヴィパッサナー瞑想やって自力で我執を薄めながら、でも心は他力に傾倒して念仏も唱える人いますか?

他力にシンパしたら自力の瞑想は禁止ですか?

545:考える名無しさん
14/05/13 11:51:13.67 0
>>544
真宗の特殊な教義以外、大乗だと一般にそうですね

中国中観の吉蔵も浄土への信があったし、智光浄土マンダラで有名な日本の智光も中観者
チベットでも中観をやりながら極楽誓願を唱える行者・学者いっぱいですし

中観は当然、観(ヴィパサナー)やりますよ
といってニューウェーブ・テーラワーダ説のような四念処をヴィパッサナーというようなヴィパッサナーではなく
本来の通仏教的なヴィパッサナーですが

546:考える名無しさん
14/05/13 12:23:38.70 0
>>545
説明ありがとうございます。

手前のような駆け出し者には分からない事も多く、教えて頂い内容を頼りに調べます。

こに質問のキッカケを書きますと、
我執や煩悩の苦しみを薄めたくヴィパッサナーを始めました。しかし、上座仏教の教えは苦しみ悶えてる人には厳しいと感じる部分があり、この点 他力の教えの方が、苦しむ者(私です。)にとって、優しさを感じたからです。

547:考える名無しさん
14/05/13 14:00:36.38 0
>>544
念仏自体がヴィパッサナーになりますよ。
しかも、はからい(自力)の無い、ヴィパッサナーです。
とてもお買い得です。

548:考える名無しさん
14/05/13 15:26:36.11 0
僕はかれこれ10年前くらいに、すべての執着から離れ、煩悩を滅し、
草木国土悉有仏性を悟ったつもりでいました。
まわりからは「君は不思議だね。神様みたいな感じがするよ。宇宙的な感じだね」と言われたり、
妹から「お兄ちゃんは何かの宗教興しそうだね」と言われ
「どういうこと?」と聞いたら、
妹「何か人間じゃないみたい」
「人間じゃないって離人症みたいなもの?」
妹「そうじゃなくて、何か人間の醜いものがお兄ちゃんにはないの
 何か不思議な感じ。宇宙観があるの。ねえ、あんまり宗教とか興さないでね」と
言われました。仏教に傾倒していたわけではないのですが、
非常に世界が狭くなっていき、無意識に全体の像みたいなものが
浮かび上がり、霊感が強まり、人の考えていることや未来が何となく
わかるようになってきました。目を瞑ると、毎回宇宙的な空間と共に
精神の肥大がおこりました。そうやって、僕の対象(知り合い)の
ことを思い巡って眠りにつきました。

このような状態状況は段々に解消されていき、今では業の深い状態が
戻ってきました。仕事をするようになり、休みの日にはギャンブルを
するようになり、それが段々エスカレートしていき、金が尽きるまで
遊びました。段々金が欲しくなり、そしてとうとう人の財布に手が
のびるようになってきました。

仏教ではこのような状況や精神の状態をどう説明できますか?
仏教についての知識はあまりありません。

549:考える名無しさん
14/05/13 15:49:20.93 0
パンの耳つまんねえ

550:考える名無しさん
14/05/13 16:15:49.27 0
>>546
あんまり他力という考え方に拘らず
アミダを信じて念仏するのがいいと思います。

>>547
三昧に入れないとヴィパッサナーではなく
ただの念(スムリティ)ですね
だからこそ念仏と一般にいうのでしょう。

>>548
すべての執着を離れたら退転しないので
恐らく三昧体験だと思います。それも素晴らしいですが、
ちゃんとしたビルマかチベットの先生に就くといいと思いますよ。

551:考える名無しさん
14/05/13 16:25:04.75 0
キリスト教も仏教も全部フェイク

552:考える名無しさん
14/05/13 16:43:48.42 0
>>551
少なくともビルマとチベットの仏教は今でも結果出してるんだけどな
まあ、信じないだろうけど

553:考える名無しさん
14/05/13 16:46:00.74 0
「結果」とは具体的にはどういうこと?

554:考える名無しさん
14/05/13 16:50:07.85 0
ビルマだとアルハット、チベットだと成就だね
物理的証拠としては死後、火葬にした時玉のような舎利がでる
涅槃する時に禅定状態で、死体が腐らないなどなど
これは古代文献でも確認できる現象で、今でも現象するということは
説かれていることと、現象が一致するということになる

555:考える名無しさん
14/05/13 16:57:02.43 0
物理的証拠を求めてるようじゃあねぇ・・・

『カラマーゾフの兄弟』で、ゾシマ長老の遺体から異臭が発生した時、
アリョーシャの心が動揺してしまったことを思い出した。

556:考える名無しさん
14/05/13 17:09:07.97 0
>>555
もっともだ、仏教は自分を見つめるもので他人を評価するものではない
だからオイラは求めてないが
2ちゃんではよく求められるので
書いてみた

557:考える名無しさん
14/05/13 17:14:35.92 0
>オイラは求めてないが

ほんとかな?w
「結果出してる」なんていう書き方がおかしいと思って質問してみたら
案の定「物理的証拠」なんて言い出したから、ある意味納得できたんだけどね・・・w

558:考える名無しさん
14/05/13 20:13:20.69 0
>>557
結果出してるって書き方はおかしくないと思うよ
恐らく、そちらの宗義・見解だけの問題じゃないかな?

559:548
14/05/13 21:54:50.49 0
>>550
考え方としたら、ああいった精神と肉体の変調を誰かに指南していただくのが
本来だと思うのですが、何せオウム真理教のような例があるので、すべてをその人に
身をまかせてしまうのは危険だと思うのですが?どんなもんでしょう?

密教の勉強をひとりでしようと思ったのですが、どこからどう手をつけていいのか
わからず、精神が一度おかしい状態に陥りました。あの精神と肉体の変調のおかげで、
随分怖いめにもあいましたし、人との関係も悪化しました。
一度創価学会の人と話あったのですが、二人とも高揚してしまい、恍惚な状態になって
非常に精神がおかしくなりました。(同性愛の関係ではなく、宗教的な体験です。念のため)

一度、親におまえはおかしいから家にいろと言われた時期があって、
2ヶ月家に隠っていたら精神疾患に掛かってしまい、誰かに追いかけられる
ような感覚に襲われました。精神医学の分野では神経症と精神病の間に位置づけ
られる状態だと思います。その時に寝ながら、「如是我聞」と何遍か唱えたくなり、
日に何度も「如是我聞如是我聞・・・」と唱えている最中にするすると足から
龍が昇ってくるような感覚があってするすると自分の身体を覆っていた何かが
取れていくのがわかりました。身体が信じられないくらい軽くなり、また恍惚の
状態を経験しました。

ああいった経験は何なのか?今でも不思議でなりません。まだ不思議なことはいっぱい
あるのですが、それをいちいち書き留めると字数ばかり増えてしまうのでいいませんが、

560:考える名無しさん
14/05/13 22:22:15.81 0
>>559
恐らく前世は行者でなかなかよい功徳を積まれた方だと思います。
そういう前世の功徳のおかげですね。

密教を伝授なしに学ぶこと自体が悪業なので、それはやめてください。
密教に興味があるのでしたら、ガルチェン・リンポチェ、ゾンサル・キェンツェー・リンポチェ、ズィガー・コントゥル・リンポチェあたりの方が来日された時に教えを受けるか

インドかネパールに教えを受けに行くのがいいと思います。
密教の場合は師が、ほぼ全てといっていいので、最初によく師匠を吟味し、
自分とご縁のある方に就くのが重要だと思います。

よい出会いがあることをお祈りします。

561:考える名無しさん
14/05/13 22:27:13.75 0
なかなか独特なスレだな

562:考える名無しさん
14/05/13 22:36:40.44 0
>>560
いろいろなアドバイスありがとうございます。
う~ん、それがですねえ、僕も前世についてはいろいろ思うところがあるのですが、
実は人がどんどん離れていってしまう業があるように思うのですよ。
これは僕の勝手な観念の世界の話なのですが、

僕は義経のような前世を送っているのだと思います。源義経です。
僕が源義経だったというわけではなく、あのような運命を辿ってきた人物で
あるように思うのです。人も殺めているように思います。
とにかくいろいろな人に囲まれて光を放ち、それが兄ノヨウナモノによって
忙殺されるような運命です。漠然としたイメージが子供の頃からありました。
牛若丸が自分なのだという勝手な思いこみも昔からありました。

運命についてですが、やはり、大事な人が心が繋がっている状態で
離れていってしまう輪廻があるように思います。これまでの僕の一生も
少なからずそういうことがありました。心は繋がっているのです。
それが消失してしまう。僕が性格が悪くて人がどんどん離れていってしまう
ということも言えなくはないのかもしれませんが、心は繋がっているのです。
喧嘩別れしていっているというのではないんですが、いつもある一定の時期から
さっと身を引くようにしてます。すると、相手もそれ以上自分に近づいてこないのです。
不思議なんですが、そういうイメージです

563:考える名無しさん
14/05/13 22:46:35.69 0
なんだオウム系スレか

564:考える名無しさん
14/05/13 22:46:36.53 0
変なやつだと思われて避けられるんじゃないか
俺にもよくある
気にすんな

565:考える名無しさん
14/05/13 22:48:17.22 0
>>562
あまり過去世について憶測してもしかたないですよ
それは妄想を生み、意識を散乱させて悪業を積むだけだと思います。

重要なのは今、どうするかで
三宝に帰依して、菩提心を起こし善いことをし悪いことをしない戒で抑制し、
心を集中させて三昧に入り、観によって無我・空性を体得し、
誓願・回向して普賢行に入ることです。

そのためには優れた師を探すことが先決です。

上でいう善いこととは、他者を利しようとすることで、
悪いこととは、逆に他者を害しようとすることです。

566:考える名無しさん
14/05/13 22:51:08.17 0
もう少し続けて書きます。
僕は昔禅宗(たぶん臨済宗)の行者だったように思います。
暗闇の中を歩いていくイメージがあるのです。
抽象的なイメージではなく、本当に暗い夜道を仏道のなかで
悩みもがき苦しみ歩いているようなイメージです。
そのようなイメージが昔からあるのです。
現世、仏教の本はいくつか読みましたが、全然わかりせん。
般若心経だけはすうっと自分のなかに入ってきました。
僕は仏教のことはあまりわからないのですが、自分なりの仏教観
みたいなものがあります。

これまたイメージなのですが
精神と肉体は繋がっているように、精神と宇宙も繋がっている。
また身体と宇宙も繋がっている。繋がってはいるが常にズレはある。
非常に全体というのは広大で、簡単に人間が認識できるものではない。
ただ全体と肉体は繋がっていることが真であると思っている。
といったところでしょうか?
自分と世界全体の結びつきを空想しているのです。
そんなイメージです

567:考える名無しさん
14/05/13 22:59:23.04 0
>565
やはり、そうですか。過去世についてはかなり妄念があるのでしょう。
ただ、これはあくまでイメージです。自由連想の範疇なので
それがどうということはありません。ただ、聞いてもらって
何かわかるかな?と期待したまでのこと・・・

ご自愛ください。

568:考える名無しさん
14/05/13 23:01:52.86 0
>>566
自分なりの仏教観は危険ですよ。
師匠に就かないなら、アミダの念仏がいいです。

仏教書でお勧めは

山口益『仏教思想入門』
水野弘元『仏教要語の基礎知識』
ダライラマ『智慧の眼を開く』
パユットー『仏法』

禅宗だと上のどれか、特に水野先生のを読んだ後に
柴山全慶『無門関』

あるいはこれとかいいと思います
URLリンク(ja.scribd.com)

569:考える名無しさん
14/05/21 21:11:40.91 0
やっぱり、ヴィパッサナーで心を軽くもするし、阿弥陀様も念じるのが、いいなあ。

570:考える名無しさん
14/05/22 23:03:35.16 0
呉智英の「つぎはぎ仏教入門」が面白かった。

571:考える名無しさん
14/05/23 11:06:09.42 0
大乗仏教を信心してる方々が瞑想する場合は、念仏だけになるのでしょうか?

南無阿弥陀仏と念じるだけかも知れませんが、在家には想像も付かないくらい奥の深いものだったりするのでしょうか?

572:考える名無しさん
14/05/23 12:50:43.23 0
阿字観とか沢山ありますよ 禅も瞑想です

573:考える名無しさん
14/05/23 13:05:27.18 0
>>571
違います。
大乗はテーラワーダの道も包括しています。

574:考える名無しさん
14/05/23 16:08:09.57 0
>>572
>>573
コメントを頼りにググりました。
密教、大乗仏教に観(ヴィパッサナー)の瞑想が有るのを知りました。ありがとうございます。

上座部仏教のヴィパッサナーの入門書は多いですが、大乗仏教のは話題になっておらず、全く分かりませんでした。

大乗仏教の教えは他力、ヴィパッサナーの修行は自力、このあたりがよくわかりませんが、コツコツ調べて行きたいと思います。

在家の私は、大乗の教えに傾倒します。また、テーラワーダのヴィパッサナーで心が軽くなり、妄想の苦しみから救われてもいます。このような煩悩に悩む者も質問でした。

575:考える名無しさん
14/05/23 16:31:57.00 0
>>574
大乗仏教の教えが他力ってことはありません
ごく一部で他力の方便があるだけです

576:考える名無しさん
14/05/23 17:33:16.56 0
>>574
>大乗仏教の教えは他力
こう仰る方が日本の大乗者に多いのは事実ですが、正当な理解ではないですよ
禅でも「自力がおちて他力がやってくる」とか自分の経験を表現する人もいますが、そういうのは個人的な見解であって
大乗=他力ではないです

577:考える名無しさん
14/05/23 18:29:06.36 0
>>575
>>576
574です。
大乗、他力、自力でググりました。
勉強不足による私の誤解でした。

私の求めるものは、家族持ちなので、在家に身を起きながらも、少しでも煩悩を抑え心安らかに暮らす事です。
いたって一般的な願いですが、仏教には色々な宗派があって、何を選べば良いかよくわかりません。

上座仏教は、瞑想を学んだだけですが、在家の私にはその教義が厳し過ぎて、かえってストレスがかかりました。

もう少し調べます。

578:考える名無しさん
14/05/23 19:55:48.92 0
>>577
いや、だから初心者がネットで調べるのは混乱するだけなんで
大乗仏教なら、以下二冊を読んでください。

山口益『仏教思想入門』
ダライラマ『智慧の眼を開く』

それが早いし正確だと思います。

579:考える名無しさん
14/05/23 20:49:43.72 0
分かりました。
読んでみます。

580:考える名無しさん
14/05/23 23:37:25.99 0
原始仏教の解説本がいい。現代は末法の世である。

581:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/05/24 04:25:58.37 0
>>577 :考える名無しさん:2014/05/23(金)
>在家に身を起きながらも、少しでも煩悩を抑え心安らかに暮らす事です。

それなら このスレの趣旨とも一致しますが般若心経をお勧めします。
素晴らしい内容です、ですから人気があります。

ちなみに念仏を唱える意味ですが・・・
念仏を唱えている間は、少なくとも下らない煩悩は考えないで済むと言う事です。
瞑想が宗教のプロの専売特許に対して、念仏は在家の素人に易しい取り組み方です。

582:考える名無しさん
14/05/24 04:49:34.68 0
>>580-581
こんな適当な意見ばっかだから、ネットで初心者が探るのは無理なんだよね

583:考える名無しさん
14/05/24 15:17:16.09 0
>>577
>私の求めるものは、家族持ちなので、在家に身を起きながらも、少しでも煩悩を抑え心安らかに暮らす事です。
>いたって一般的な願いですが、仏教には色々な宗派があって、何を選べば良いかよくわかりません。

自分の《煩悩を見つめる》という点では、我執を「第七末那識」として独立的位置にまでおしあげた唯識がお勧めです。
唯識が末那識を独立的位置に置いたということは、人間の我執の根強さを痛感したということです。
唯識の本を読んでいると、人間の煩悩というものが、そう簡単になくせるものでないことが納得できて、ある意味安心する。
しかしそれとともに、その煩悩を離れるための修行が説かれており、「煩悩」と「修行」が非常に直結している感じがします。

「煩悩は捨てるべき心所である。
だが、世界の文学、映画、演劇から、人間の愚劣さを抜き去ってしまったら、いったい何が残るだろうか。
人間は愚かなのだ。人間は弱いのだ。
仏陀は、それを、じっと澄み切った暖かいまなざしで照覧されるのである。それが《煩悩》の分析だ。
しかし仏陀は、煩悩に私たちが身を滅ぼすことをすすめられておられるのではない。
それが人間の現実として避けられぬことであるとしても、《煩悩に目覚めよ》と仏陀は呼びかけておられるのである。」
(太田久紀著『凡夫が凡夫に呼びかける唯識』より)

584:考える名無しさん
14/05/24 15:46:54.88 0
>>583
大田さんとかは伝統と信を感じるんで好きだけど
唯識は大乗をアビダルマ的に還元してしまったかんじがどうも
そういうのが合う人にはいいと思うけど

585:考える名無しさん
14/05/24 20:28:14.56 0
>>583
唯識および『凡夫が凡夫に呼びかける唯識』の紹介ありがとうございます。

大乗仏教の学びの過程にて目を通します。

長文でのコメントありがとうございました。

586:考える名無しさん
14/05/28 14:15:19.58 0
仏教議論スレッド101
スレリンク(psy板)

587:人間の探求
14/05/30 11:45:04.80 0
貧乏、病気、離婚など、不幸な人は不幸を愛しているのです。

良くも悪くも人間は‘成りたい自分に成っている’のです。

「中杉弘のブログ」

URLリンク(blog.livedoor.jp)

URLリンク(ameblo.jp)

588:考える名無しさん
14/05/30 14:32:31.54 0
>>587
つまんね

589:考える名無しさん
14/05/30 20:45:53.32 0
世界最初の唯物主義。「心は存在しない。すべて外界の雰囲気(科学用語)で
左右される意識がオメーだよ。」

590:考える名無しさん
14/05/30 20:53:43.37 0
>>589
仏教の場合は物も心も空だけどね

591:考える名無しさん
14/05/31 01:30:58.03 0
でも死んでも霊魂は残ると思うんだ。実感だからしょうがない

592:考える名無しさん
14/05/31 02:33:37.58 0
いいかい、霊魂も空なんだ

593:考える名無しさん
14/05/31 04:02:21.32 0
ただ、「全て空だ」と言うものは、じゃあ誰なのかというcogitoについての
問題は解決されないけどな。

594:考える名無しさん
14/05/31 05:15:34.93 0
>>593
そりゃ、空が分かってない
知覚が有っても、意識が連続して縁起しても空だ
空ってのは無いって意味ではない
本質が無い、単に縁起するだけというような意味

595:考える名無しさん
14/05/31 11:06:23.24 0
運動の力が保存される法則のことでしょうか?
その運動の力(善因、悪因、この世への貸し借り)である「業」が
残ったまま死んでしまうとと次の生が始まってしまう。
これが「零(自分自身そのまま)」にすることができれば
次に生まれ変わる理由がないので輪廻転生の繰り返しから解脱できる。

596:考える名無しさん
14/05/31 11:17:00.13 0
>>595
似てるけど違うと思う
仏教の場合、既存の知見で解釈すると誤解することが多い
なぜなら、既存の知見は実在論か虚無論の前提で構築されるから
仏教はどちらでもない

597:馬鹿の壁 ◆GS40HbbwOo
14/05/31 17:38:39.40 0
キリスト教は愛を肯定し
仏教は愛すら否定する

でも私は根本的には同じだと思うのです。

キリスト教の究極愛は命の自己犠牲つまり自我の否定ですよし

皆さんはどう思います?

598:ごあ
14/05/31 19:03:04.78 0
   
 マグロ大使 だと思う
 

599:考える名無しさん
14/05/31 20:08:15.62 0
>>597
別に否定しない
キリスト教と仏教はだいぶ違う

600:考える名無しさん
14/05/31 20:09:40.04 0
非常に似ているとおもう。
愛というは、仏教でいう慈悲の様なものでは無いでしょうか

慈愛とでも言う様な 慈しみの眼で見ている様な


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