14/02/11 10:26:35.24 0
>>278
自分なりに行き着いた場所
280:考える名無しさん
14/02/11 11:47:39.03 0
>>279
少なくとも弟子でも解脱した人はたくさんいたよ
それとブッダに思考・見解・思想があっては、解脱してないな
道、教えは問いても、それは思考・見解・思想を主張しているのではありえない
281:考える名無しさん
14/02/11 16:22:15.00 0
西洋哲学の論述に慣れている読者としては、井筒俊彦の
『意識と本質』(岩波文庫)や最近出た『禅仏教の哲学に向けて』(ぷねうま舎)
なんかがやっぱり読みやすい。「哲学(思想)としての仏教」を知るには
井筒俊彦の著書がいいんじゃないか。龍樹とか道元とか、やっぱり読んでいて
いらいらする。
282:考える名無しさん
14/02/11 17:15:05.78 0
>>281
井筒さんの仏教解釈は意図的解釈かもしれないけど、
現象と実在の仏教でいう常見なんで、全くの誤解です
西哲に慣れてる人には、
URLリンク(www.amazon.co.jp)
和訳もあるけど、仏教部分がダメなんで原書でなければ英訳で
これもいい。こっちは訳もいい。
URLリンク(www.amazon.co.jp)
あとは山口益『仏教思想入門』がいいかと
283:考える名無しさん
14/02/12 12:16:35.73 0
>>282
おまえの存在自体が、非仏教だとはやく気づけ・・・
284:252
14/02/12 13:24:31.11 0
>>281
井筒俊彦は悪くないと思いますが、井筒氏の著書を読んだとしても、
たぶん、道元とかの分りにくさは、あまり変わらないのではないか・・・と思う。
道元などは、いろんな経典、論、などを踏まえて書いており、
そして我々はその基になっている教典や論を知らない。
たぶんその点に、分りにくさの一番の理由があるのだと思う。
で、たとえば道元の場合は、『大乗起信論』『宝性論』『勝鬘経』あたりと親近性が深いように思う。
だから、『大乗起信論』→『宝性論』→『勝鬘経』と読んでいってから道元を読めば、
その分りやすさは全然違ってくるはず。
とはいえ、『大乗起信論』や『宝性論』も、仏教的な予備知識(用語など)がない者にとっては、
それを理解するには相当の時間がかかる。
それだけの時間をかけるに値するのかどうか・・・
それは各人が判断し、決断するしかないことですね。
285:考える名無しさん
14/02/12 16:58:29.16 0
>>284
なんで?
オイラ的には『大智度論』『中論』『入中論』あたりからのが分かると思うけど
286:タックル!
14/02/12 17:07:54.57 0
泣いてなんかない
ちょっと、肉汁が出ただけだ
一人にしてくれよ
287:考える名無しさん
14/02/13 10:44:20.41 O
仏教といや、産まれてすぐ7歩あるいて天上天下唯我独尊てどっから出てきたのアレ
哲学的な読みときはできそうだけど、禅ぽくはないし、尚更仏の教えっぽくもない
288:考える名無しさん
14/02/13 11:41:53.49 0
>>287
そりゃ、禅も仏教も勘違いしてるからじゃないか?
289:考える名無しさん
14/02/13 22:40:21.55 O
何を?
290:考える名無しさん
14/02/14 05:23:52.21 0
「天上天下唯我独尊」を「禅ぽくはないし、尚更仏の教えっぽくもない」と言うが、
君の思う「禅」「仏の教え」が勘違いなんじゃないかということ
どういう「禅」「仏の教え」を考えてるんだい?
291:考える名無しさん
14/02/16 18:57:31.57 0
浄土系の仏教は完全に本来の仏教からはずれた異教である、封建体制には
まことに便利で江戸時代には栄えた。とくに浄土「真宗」はいまの
法然の教えとは程遠い、まさに「僧か」みたいなもので、
日蓮本来の教えとは程遠い。真宗の僧の肉食妻帯は釈迦が聞いたら
肝をつぶす異教である。
292:考える名無しさん
14/02/16 20:00:10.18 0
>>291
いやいや、真宗は現代教学は非仏教だけど、
本来仏教だよ
日蓮は明らかに最初から非仏教
293:考える名無しさん
14/02/17 18:20:12.97 0
浄土真宗=ネストリウス派、キリスト教の一派
294:考える名無しさん
14/02/17 20:16:09.39 0
>>293
そういう理解は全くの誤解
295:考える名無しさん
14/02/18 20:07:39.62 0
地獄極楽で愚民を騙し権力の走狗、Cathoric
にソックリな似非仏教、それは浄土志ん醜
296:考える名無しさん
14/02/18 20:43:28.11 0
>>295
そういう地獄・極楽は大乗なら、必ず説くよ
あとキリスト教に浄土教を比するような見方、考え方は清沢満之に代表される
明治以降の説で、本来ありえない
297:考える名無しさん
14/02/18 21:20:45.68 0
>>282 >>284
ご教示ありがとう。参考にしますね。
龍樹と道元は現代語訳で読んだんだけど、こう、「AでもなくnotAでもなく」
的な記述が延々と続くでしょう。特に龍樹。正直、途中で意識がぼーっとなってくる。
井筒俊彦さんはやっぱり西洋人に分からせようとして書いているところがあるから、
論述が西洋哲学的なんだよね。ゆっくり色々読んでみます。
298:考える名無しさん
14/02/18 23:10:20.68 0
>>297
井筒さんの『意識と本質』は西洋人に分からせるというより、
東洋思想の現代的脱構築なんで、仏教そのものを書いてるわけじゃないです。
最初にその言い訳みたいなのが書いてありますよ
299:考える名無しさん
14/02/19 01:20:04.82 0
>>298
なるほど『意識と本質』はそういう捉え方の方がいいかも知れませんね。
ただ、井筒さんは英文の論文、著作が多いでしょう。
『禅仏教の哲学に向けて』も英語からの翻訳で、『意識と本質』の論点を含んでいます。
エラノス会議の存在が大きかったわけだけど、鈴木大拙ほどではないにせよ、
西洋人向けという意識はあったかもしれません。
とはいえ仏教そのものではない、というのは事実ですね。井筒的東洋哲学は西洋哲学を前提しないと
出てこないものだという認識ははっきりありますし、東西を往復、比較しつつ、東洋思想を
共時的に構造化しようとしていたと言うべきでしょうね。自分は中村元さんが苦手なんですよ(笑)
仏教そのものというと難しいですね。岩波文庫や講談社学術文庫に入っているものや、
手元にある現代語訳道元全集を読み直してみます。
300:考える名無しさん
14/02/19 18:58:18.36 0
>>296大乗なるものは実は小乗、上座部仏教こそ本流
301:考える名無しさん
14/02/19 20:16:34.43 0
>>300
そういう言い方はないな
そして全く勘違いしてるけど
思いたいなら、思っとけばいいよ
それとテーラワーダなら、ビルマしかないと思う
スリランカは日本仏教とそれほど変わらないような状態だと思うよ
302:考える名無しさん
14/02/19 21:26:38.25 0
>>299
>仏教そのものというと難しいですね。岩波文庫や講談社学術文庫に入っているものや、
>手元にある現代語訳道元全集を読み直してみます。
それらより、片山一良の原始仏典と中公文庫の大乗仏典の方がいいですよ
道元禅師も現代語訳は変なのが多いので、避けた方がいいと思います。
303:考える名無しさん
14/02/20 12:32:49.78 0
>>302
手元にある道元は、石井恭二訳の『正法眼蔵』(河出書房新社)なんだけど、
現代語訳に問題があるかな?
さておき、>片山一良の原始仏典と中公文庫の大乗仏典
のご紹介ありがとう。読んでみます。
304:考える名無しさん
14/02/20 12:37:43.70 0
スレタイとは意味が違ってくるけど、よくキリスト教系の教会から外人さんが
勧誘に来る。「私はBuddhistなので結構です」と言うと、すぐに帰ってくれる。
そのとき、仏教の凄さを思い知った(笑)
305:考える名無しさん
14/02/20 14:37:35.45 0
>>303
石井恭二訳は読んだことないので分かりません。
306:考える名無しさん
14/02/21 09:18:09.72 0
素朴な質問です。地獄極楽は言葉の上だけではなく存在するのですか。
あるとすればちょっと見せてください。どこで見せてくれるのですか。
307:考える名無しさん
14/02/21 09:42:54.37 0
>>306
>>159
仏教では知覚も対象としての外界も自立的に実在してるとは捉えません。
それぞれの業に従って、それぞれ縁起するのみです。
ですから、知覚したいなら、知覚すべき業、行為をしないといけない。
極楽が見たいなら、アミダに信を持って念仏しないと
地獄が見たいなら、殺す盗む騙るヤルをガンガンすれば見られるでしょう。
308:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
14/02/21 10:47:55.16 O
>>306
仏教が「死後に地獄極楽に行く」とか「来世の為に善業を積む」なぁーんて宗教だと考えてるなら大間違い。
嘘だと思うなら試しに中論なり理趣経なり般若系の経論をご覧なさい。
(^。^)まぁ確かに、一部の宗派や自称「仏教」のカルトはそんな与太飛ばしてますがね。(笑)
309:考える名無しさん
14/02/21 11:26:51.80 0
>>308
相変わらず断見一辺倒の妄想っすな
中論にしろ、般若にしろ、それは戯論寂滅への導き以外のなにものでもない
URLリンク(www28.atwiki.jp)
URLリンク(www28.atwiki.jp)
310:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
14/02/21 20:03:26.86 O
>>309
お前らは一生、そうやって仏教を貶めてろ。(笑)
311:考える名無しさん
14/02/21 20:06:17.39 0
>>310
いや~、言動からも見解からも君こそ仏教と縁がないと思うが
312:考える名無しさん
14/02/21 20:08:33.48 0
原始仏典しか意味ないらしいよ
URLリンク(41jigen.blog12.fc2.com)
313:考える名無しさん
14/02/21 20:56:11.48 0
>>312
それはキリスト教的原始絶対主義と実在論的歴史主義によった19世紀の西洋仏教研究を水で薄めたような見方
それに似たようなもので現代日本で流行っているのにナショナリズムと結びついたスリランカ仏教のテーラワーダ原理主義があるけど、
それも似たようなもん
どっちも信用するに足りない
314:考える名無しさん
14/02/22 08:46:14.27 0
>>307相変わらずの与太話だな
315:考える名無しさん
14/02/22 08:54:54.40 0
>>314
これを与太話とするなら君が仏教に縁がないということに他ならない
素朴実在論に立って仏教を分かろうというのは無理
316:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
14/02/22 09:48:44.49 O
オウム信者みたいな奴がいるな。(笑)
(`・ω・´)「君には仏教と縁がない!」
(^。^)お前がねーよ。(笑)
317:考える名無しさん
14/02/22 09:59:11.10 0
>>316
まあ、それは死んだ時、分かるだろう
318:考える名無しさん
14/02/22 19:31:33.10 0
>>307
>地獄が見たいなら、殺す盗む騙るヤルをガンガンすれば
>見られるでしょう。
つか「でしょう」がきになるな。想像じゃんw
319:考える名無しさん
14/02/22 20:04:28.05 0
>>318
そりゃ、オイラは聖者じゃないからね
そういった神通はないんで、経典や伝承に従うしかない
320:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
14/02/23 11:44:59.84 O
>>319
じゃあお前さんは、過去世譚とか釈尊の出生譚とかも字義のまま受け入れてる訳だよな?(笑)
(^。^)うんうん、お釈迦様は脇腹から産まれて直ぐに喋って二足歩行出来たんですよね。(笑)
321:考える名無しさん
14/02/23 11:52:40.30 0
>>320
当然だ。それらは単なる現れで縁起だから。
君は釈尊が実在だとでも思っているなら、そりゃ縁起でなく
ただの素朴実在論を盲信してることに気づかなくてはならない
322:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
14/02/23 13:12:29.26 O
>>321
なんで素朴実在論なんだか。(笑)
経典に書かれたまま鵜呑みにしてるだけの君は単なる原理主義者だよ。(笑)
(^。^)俺の目の前には、脇腹から産まれ釈尊なんか居ないぞ?(笑)
323:考える名無しさん
14/02/23 14:23:19.64 0
>>322
そりゃ単純だろ君は仏教の経典や聖者による伝承より、常識を信じてるからだ。
経典や聖者は縁起に依り、常識は素朴実在論に依ってる。
常識といっても素朴実在論といっても亜科学信仰といっても、記号は何と言ってもいいが、
それが仏教では我見、有身見などと言われることぐらい分かるだろ。
君の根拠は中論などを曲解した現代学者の説以外に何かあるのか?
自分でキッチリ三蔵や論書から導いたとか、聖者の伝承だとか、
まさか自分が悟ってるとは言わないだろ。
ちょっと、高野山で坊さんのまね事したぐらいで。
まあ、あるっていうなら、書いてみ。
324:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
14/02/23 15:11:06.14 O
>>323
俺は中院流だとか一度たりとも書いてないが、君は俺を高野山派だとデタラメを書いた。(笑)
まぁ真言と言えば高野山しか思い浮かばんのだろうが、
そういう単純な思い込みを「素朴実在論」と揶揄するんじゃないのかね?(笑)
たしか経典では、「自らを島とし、法を島とせよ」とも説かれていたが、
君の周りには脇腹から産まれたという方や出産後直ぐに歩いた赤子が居たのかね?(笑)
(^。^)もしそうなら、俺も考えを改めますがね。(笑)
325:考える名無しさん
14/02/23 16:22:54.79 0
>>324
そうか。オイラの記憶違いか、それは間違いだ。失礼した。
さすがに君のことを人が言っていたのか、君自身が言っていたのか覚えてない。
そこまで注目すべき人じゃないから
自洲・法洲ってのは自らの無明な知覚を信じろなんて近代解釈じゃない。
法に出会えた人身という輪廻の瀑流での中洲のようなもので、
法という乗り物によって解脱・涅槃という彼岸へ渡れという意味。
そりゃ、オイラの周りにはブッダもいないからな
ただ神通持ちなら、結構出会った。
しかし、なんでそう見たものは信じるという自分の知覚を信じ、
経典や伝承という仏教を信じないのに自分が仏教を語ってると思い込めるのか不思議なんだが、
まあ、結局、そういう近代解釈のみで経典も伝承も君には何もないってことだろう
今回も、もう、付き合うのは止めるは
326:考える名無しさん
14/02/23 18:30:45.16 0
>>319教養のない無知な人間なら騙せても、いまどき
「信仰があれば極楽あり」なんぞ信じるものがあるか。
327:考える名無しさん
14/02/23 20:13:56.70 0
>>326
そう考えると多分、新興宗教が盲信によって騙してるように思うんだろうけど、
そう思うなら仏教に縁がないとしか思えない
西洋では多くのインテリが、現代でもそう信じて仏教に入っているよ
328:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
14/02/24 17:58:23.80 O
「西洋のインテリ」が頭良い
↑
これもある種の「素朴実在論」。(笑)
(^。^)俺は、とある日本の伝統的仏教の一僧侶から教わった法を依処として己が信じる所を歩いてるだけだから、
誰かさんみたいに「俺だけが正しい!」とはよう言わんわ。(笑)
329:考える名無しさん
14/02/24 18:33:30.20 0
哲学かと思えば信仰、信仰かと思えば業界用語を使って
けむに巻いたつもり、この生噛りえせ仏教「学者気取り」
はどうしようもない、鰌もない。
330:考える名無しさん
14/02/24 18:39:35.11 0
前々からジョウキョウって人だけは駄目だと思うわ。
頭の中に山ほど仮想敵が住んでて、一瞬一瞬そいつらと戦ってる感じ。で、周りの人もすぐにその仮想敵と
同一視されてしまう。死ねば少しは頭の中も静かになるよ。
331:考える名無しさん
14/02/24 18:44:20.61 0
>>330
仏教を理解もしてないし信じてもないのは確か
332:考える名無しさん
14/02/25 09:38:58.86 0
論理的に整然と説明できないから信仰信仰
333:考える名無しさん
14/02/25 10:20:08.98 0
>>332
アナタのいう「論理的」というのは実在論による説明、
あるいは凡人の知覚でという意味か?
だとすれば、そういう見方が妄想だとするのが仏教なので、
まるで盲人に現象を聞かせても、「見えねから、そら妄想だべ」って言ってるようなもんだ
334:考える名無しさん
14/02/25 10:32:38.32 O
仏教そのものはやはり思想だよなあ
仏の伝えたかった何かは思想でないかもしれないが、それは教えという思想によってしか伝わらない
335:考える名無しさん
14/02/25 11:25:40.11 0
>>334
伝えたかったのは、思想や見解といった分別を鎮める道で
思想ではないです。
この点が『中論』で「仏は何も説かなかった」と説かれ、同じく龍樹菩薩が「我々には主張がない」説く意味。
それは『ヴァッチャ・ゴッタ火喩経』『金剛般若経』
『往生要集』岩波文庫上326頁でも同じ。
336:考える名無しさん
14/02/25 12:17:10.08 O
分別を鎮めること自体は思想でないかもしれないが、道を説いたらそれは思想でしかなくね
337:考える名無しさん
14/02/25 12:27:51.53 0
>>336
そういうことはできるかもしれないが、
少なくとも伝えたい、主張したい思想ではないでしょ
338:考える名無しさん
14/02/25 12:49:49.53 O
伝えたいことは思想でなくて、伝える手段が思想てことでそ
仏の「教え」てのはその手段にあたるんじゃないのかと
上の方にある「仏教ではこう考える」みたいなのは思想以外の何物でもないし
339:考える名無しさん
14/02/25 15:35:20.67 0
>>338
それは違う
伝える手段は言葉などで、その内容は思想などを鎮めるものだが、
その表現内容自体を思想ということも可能だが、
何か主張してるわけではない、ということ
340:考える名無しさん
14/02/25 16:12:59.45 O
思想を主張したい訳でないのはわかる
でも教えという形をとる以上、思想としてしか伝えようがないのではないかと
仏教は思想を伝えることを目的としていない←わかる
仏教における思想はあくまで道であり、それを主張したいわけではない←わかる
仏教は思想を主張しない←えっ
341:考える名無しさん
14/02/25 16:31:01.62 0
>>340
>仏教は思想を伝えることを目的としていない←わかる
>仏教における思想はあくまで道であり、それを主張したいわけではない←わかる
>仏教は思想を主張しない←えっ
なんで上の二文認めて最後の一文を認めないのか分からない。
『中論』で「仏は何も説かなかった」と説かれ、同じく龍樹菩薩が「我々には主張がない」とも説かれてるではない?
主張は全くしてない、考え方、見方として道を説く、それを思想と言うこともできるけど、
思想というと「xが真理である」と主張していると採られやすいので、なるべく思想と言わない方がいいと思うよ
342:考える名無しさん
14/02/25 17:36:23.14 O
んー、そう採られたくないがために極端な物言いをするのはおかしいんでないかと
「飲尿健康法は健康のためにするのあって飲尿を薦めない」
やたらに飲尿を薦めてると勘違いされたくないからといって上のような言い方をしたら、それは単なる嘘でしょ
343:考える名無しさん
14/02/25 19:47:12.99 0
>>342
だって思想っていい方、本来仏教じゃしないから
それを西洋の thought みたいな概念の訳語として使うと、上のようになるでしょ
344:考える名無しさん
14/03/24 06:56:56.46 0
URLリンク(www.ted.com)
345:考える名無しさん
14/04/05 14:27:41.30 0
竜樹への反論
「C点による仏教論」を検索
色即是空ーーー「色〔現象)」は空で、実体が無い。総てが無、我らも「無我」。
これ竜樹、わかる?
色即是空ーーー「色(現象)」=「空(無)」
現象=有で、
「有無合一体」
感覚器官は「無は認識出来ない」ので、
「有無合一体」は、「有」とのみ認識される。
わかる?
あるものはある ないものはない
コドモでもわかる?
346:逝ってしまえーpart2
14/04/05 14:35:53.30 0
家の父親 初めて低周波治療器で肩叩かれたとき
怒ったよ ・・・・・
「 なんだ こんなもの 人をばかにして 」 って
いきなり MAXにするほうがわるいとおもう
首が肩にめり込んでジャミラになってやんの (笑)
347:考える名無しさん
14/04/05 20:48:09.27 0
>>345
> 色即是空ーーー「色〔現象)」は空で、実体が無い。総てが無、我らも「無我」。
こういう意味じゃないんで
348:考える名無しさん
14/04/06 01:28:17.42 0
>>347
どういう意味か教えてください
349:考える名無しさん
14/04/06 06:03:59.64 0
>>348
たしかC点くんには前に教えたことがあるので
繰り返さないよ~
350:考える名無しさん
14/04/06 15:32:53.10 0
>>349
たまたま覗いて斜め読みしてたら気になったから質問した者で、C点さんという人ではありません
空は実体はなくすべては現象だと認識してた
351:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/04/11 09:05:52.73 0
>>1 :ニートたけし
>色即是空空即是色
これは般若心経のことだと思われますけど、心経は大乗仏教の中でも少数派の中観派の経典です。
中観派の言いたいのは色即是空では在りません、その文章の前の「五蘊皆空」と言うことです。
色即是空は前振りに過ぎません、心経を「色即是空」と捕らえる人は心経がポピュラーで人気があるので中観派の心経を曲解して自分(大乗仏教唯識派)の方に逆転して解釈する訳です。
心経は大乗仏教中観派の教えをわかりやすく説いていて「五蘊皆空」の意味は後に続く「無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法」と言う事です。
其の前の色即是空(=物質は絶対的な存在ではない)これは勿論なのだが・・・
「無受想行識」感覚(耳・鼻・舌・身・色・声・香・味・触)や意識、観念(想・行・識)も絶対的な存在ではない。これが心経の言いたかった事なのです。
要は「悟り」だとか「善」だとかそんな観念に拘っているから「苦しみ」が生ずるのだと言っているのです。
現在の大乗仏教(日本が大乗仏教の世界の中心でしょう)では「識」の要素が重んじられているので「無受想行識」ではちょっとまずいので心経を代表する言葉として色即是空を強調します。
そこには「識=観念=悟り」を重視する企みが有ります。
所謂「唯識派」(現代日本の大部分の仏教)と言う集団です。
352:考える名無しさん
14/04/11 09:42:49.13 0
>>351
また適当なことを
353:考える名無しさん
14/04/11 10:57:23.66 0
>>351
唯識は、「転識得智」だから、あなたの考えは頓珍漢。
354:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/04/11 13:55:53.44 0
>>353 :考える名無しさん:
>唯識は、「転識得智」だから、あなたの考えは頓珍漢。
転識得智だから何故頓珍漢になるのかを少し説明してください。
355:考える名無しさん
14/04/11 15:26:42.55 0
>>351の典拠って何
中観や唯識、般若心経をこう解釈する根拠ね
般若心経を語るならせめて以下を読みこなしてからにしてほしい
URLリンク(www.jstage.jst.go.jp)
356:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/04/11 15:52:47.01 0
>>355 :考える名無しさん:
>中観や唯識、般若心経をこう解釈する根拠ね
仏教は宗教です、解釈に根拠はありません。
反論があるなら貴方の解釈で反論しなさい。
それに対して私も反論できます。
357:考える名無しさん
14/04/11 16:14:17.92 0
>>356
それじゃ、話す意味ないでしょ。お互いに自説を述べるだけで。
え~、仏教はインドでもチベットでもシナでも日本でも異論が有る時は、経証と理証で話しました。
まあ、上のは単なる妄想であることが明らかなんで、「根拠はオレ」って言われちゃ付き合ってられませんです。
358:考える名無しさん
14/04/11 16:19:47.95 0
>>357
補足しとくと、もちろんブッダは例外。
高い聖者も異論の根拠に経典や先師の言葉を出すのが仏教の伝統
359:考える名無しさん
14/04/11 17:06:04.29 0
355が出したテキストは<絶対空こそが真理。マントラがその絶対無を暗示
する>と言っている。それは悟りや明智や善悪を重視することとも違う。
むしろ悟りや善悪の観念の脱構築が主眼。
梵文テキスト:<空性>の次元では、物質もなく、感受もなく、想念もなく、
諸意志もなく、識もない。
同テキスト:眼・耳・鼻・舌・身体・思考(意)[とい
う六箇の内なる部門]もなく、色・音声・臭い・味・可触物・存在素(法)
[という六箇の外なる部門]もない。[十八の根源界(十八界)における]眼
の根源界(眼界)から思考識の根源界(意識界)までもない。[十二支分から
なる<依存的生起>(十二支縁起)における無明と敵対する]明智もな
く無明もない。明智の滅書もなく、無明の滅蓋もない。
すなわち悟りの奥義や知も無明と明智もすべて離脱されるのだから351の
解釈-識、観念、悟りにこだわるのは真理ではない-は355の出したテキスト
と矛盾しない。といっても最終綱領としては識や観念も悟りも超えられ
るということ。識や悟りは中間綱領-まだ哲学に留まる-とみればいい。
360:考える名無しさん
14/04/11 19:57:38.01 0
>>359
それは誤解だ
361:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/04/11 22:36:27.10 0
>>359 :考える名無しさん
>絶対空こそが真理。マントラがその絶対無を暗示・・・
絶対空とか絶対無を否定する為のが心経の趣旨です。
絶対性の否定を「空」と言っているわけです、小学生でも経を読めば判る。空性と別個に物質は無くそのようなことは全てに言えることなのだから空性なるものが空性と別個に存立する(絶対空)はずも無い。
>といっても最終綱領としては識や観念も悟りも超えられるということ。
超えたところに再構築してしまえば元の木阿弥である。
仏教の実践に最終も中観も無い、弛まず実践するのみであると経に書いてある。終わりはない。
362:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/04/11 23:15:03.61 0
>>361 訂正です
中観→中間
363:考える名無しさん
14/04/12 00:58:13.88 0
どうも勘違いしていたようだ。失礼した。あのテキストにも物質とは
空性と同じとありますね。ちょうど廣松渉が物象化的錯視とか言ってる
けども、関係の一次性が実体があるという錯視を生むとか。それを思い出し
た。
あと麻原の言うこととも重なってるね。彼も一応勉強はしていたのだろう
から似ていて当然なんだが。あのテキストと似たことを説法で喋っている
。
364:考える名無しさん
14/04/12 04:01:17.51 0
因みに私は廣松の哲学は人間のrealityとはかけ離れているとみなしている
。それと似て非なる空性の哲学もそういう感じがする。すべてが業縁、因縁
と言われて、しかし現に今ここで有ること、自己の有限であることのもたら
す世界が変わるわけではない。あのテキストにも感じたが、どこまででも
<「私」など幻想>と言われているようで、しかし言われたところで現に
有ることが変わるわけではない。生の実感には遠いしその実感は空性の
理論でどうなるものでもない。変わらないわけです。
まだ麻原の理論の方が修行による世界の深化が実感される分、-一応修行者
の体験として実証されている-世界も変貌や深化が実感されるように思えま
すね。現実世界(俗界)と涅槃を往還することができなければならない
とされている。境地がはっきりしている。麻原は自己のヨーガと連結して
仏教哲学の観想を打開しようとしたのじゃないかと思えてきましたがね。
365:考える名無しさん
14/04/12 06:01:40.34 0
>>363
物質と空性と同じではなく、
物質は本質を欠いて空っぽな性質だというような意味
それと哲学ではない、何か思想・哲学としてつかんでいるものを開放する道として説かれた教えに他ならない
366:353
14/04/12 13:35:59.15 0
>>354
「転識得智」は、唯識の修行の過程で生じる転換のこと。
その説明を引用しておきます。
「〈識〉が〈智〉になる。〈識〉は言葉を通してものを知る概念的認識で、したがってそこには、
対象を実在化する働きが潜在しているのに対して、〈智〉はそういう思慮分別を介さないで、あるままに自己を親証する認識の構造である。
空なる自己が空のままに空を知るのである。空なる自己が空なる自己にたちかえるのが〈智〉である。」
(太田久紀『唯識の読み方』)
だから、「識=観念=悟り」などというのは頓珍漢です。
そもそも、唯識というのは中観の発展なのだから、五蘊皆空を前提としているんです。
「五位の修行」といわれる五段階の唯識の修行の二段階目を「加行位」といいますが、
この段階は、「所取空・能取空」(哲学的にいえば「客観」も「主観」も〈空〉)という自覚が深められていく修行の段階です。
しかし我々は、自分自身が〈空〉の真っ直中にあるはずなのに、その〈空〉を自分の向こう側に置いてしまう(つまり対象化してしまう)。
我々の思惟は、そういう性質をもっています。
この「加行位」という段階では、人は《「客観」も「主観」も空》ということを<頭では>よく理解していながら、
非常に深いところで、〈空〉を対象化してしまう。
だからこの段階では、人はまだ「凡夫」と呼ばれます。
次の第三段階の「通達位」が、そのように対象化する思惟が崩壊する段階です。
そこで「転識得智」が生じ、人は「凡夫」ではなく「聖者」と呼ばれます。
対象化する思惟とは異なるこの〈智〉の働きを、唯識では「住する」などの語を使ってあらわします。
ちなみにこの「通達位」に到達するには、一大阿僧祇劫(ほとんど無限に長い時間)かかるとされます。
367:考える名無しさん
14/04/12 14:28:47.93 0
366を読んでると、359で書いた
<悟りの奥義や知も無明と明智もすべて離脱されるのだから351の
解釈-識、観念、悟りにこだわるのは真理ではない->
<悟りや識が観念として求められる間はまだ中間綱領。悟りの脱構築が主
眼>
と書いたことを言い直しているだけですね。あなたは“<空>を対象化す
る間は人はまだ「凡夫」である”と書いているがそれは359と同じだ。
あなたは段階などないと「仏教の実践に最終も中観も無い」と書いたが、
立派にあるじゃないですか。「そのように対象化する思惟が崩壊する段階
です」と立派に書いている。同じですよそれは359と。
<それは悟りや明智や善悪を重視することとも違う。
むしろ悟りや善悪の観念の脱構築が主眼。>
と私は359の冒頭に書いている。私の解釈をなんで「違う」と書いておいて
また繰り返すのかな。 意味がよく分からなかったのかな。
368:353
14/04/12 15:04:11.74 0
>>367
私はじいさんと話しているのに、私とじいさんを混同しているようです。
驚くべき勘違いをする人ですね。あなたは。
おだいじに・・・
369:考える名無しさん
14/04/12 15:28:19.01 0
ああなるほどね。359と366が同じと言えば正しいか(笑)じい
さんとやらが361で言ってることがおかしいということね。366が言ってるこ
とは359(私)の言い換えだからね。段階はある。対してじいさんは「段階な
どない」と361で言ってるわけだから。
366の話は分かりやすい。そうなるだろうということが押さえてある。じ
いさんは「脱構築」と「再構築」を多分混同してると思う。ちゃんと
<それは悟りや明智や善悪を重視することとも違う。>
<悟りの奥義や知も無明と明智もすべて離脱される>
と書いているのに語彙に引っかかって誤読したのだと思う。仏教は形に
とらわれず本質を見ることであるのに、本質を見誤ったのだと思う。
370:353
14/04/12 15:34:38.35 0
>>369
>359と366が同じと言えば正しいか
どこが同じなのかわかりませんが・・・w
では、お元気で。
371:考える名無しさん
14/04/12 15:50:34.48 0
では370も実は頭が悪いということですか。残念です。
372:考える名無しさん
14/04/12 16:03:55.01 0
>>366
>唯識というのは中観の発展なのだから
これはミロク菩薩以外は違うでしょう
無著菩薩・世親菩薩ともにアビダルマ的で分析体系的で戯論寂滅への導きというより論証という方向だと思うだよね
それは陳那・法称菩薩あたりに明らかで、シナ日本法相宗やチベット・ゲルク派あたりに近いと思う。
373:考える名無しさん
14/04/12 16:05:28.94 0
>>367
こういう理解は仏教を思想・哲学と捉える誤読の典型
修行の必然性が出てこない解釈は間違ってると思うべき
374:考える名無しさん
14/04/12 16:53:25.11 0
しかし
<空のままに空を知る><対象化する思惟が崩壊する段階>
<空なる自己が空のままに空を知るのである>
とかを見てると、これは解離を意識的に作り出すということだろうとい
う気がしてくる。そうすると獄中の麻原をどうしても連想するね。家族の
面会中に自慰に耽り、英語まじりの独語を呟き、脱糞は日常茶飯事で係員
が鼻をつまんでいる。やっぱり彼は聖者だったのか。366はそう言いたい
ようだが。
375:考える名無しさん
14/04/12 20:51:54.04 0
>>374
麻原は水俣病の復讐で、鍼灸、ヨガ、仏教を利用して人を集め
始めから毒ガスによる首都壊滅を狙ってた人でしょ
三昧体験や神通もあったようだけど、仏教とは本質的に無縁
376:考える名無しさん
14/04/12 21:42:14.33 0
物質とは別のところに<空性>があるのではないし、……識とは別のところに
<空性>があるのではない。それはなぜか。物質こそが<空性>であり、……識
こそが<空性>である。<空性>こそが物質なのであり、……<空性>こそが識
なのである。
かような思想を貫通するなら、人間が日常的・刑法的にとらえる善悪など
仮のものでありそれを鵜呑みにするものではない。また、俗界での道徳に
基づいて行為を裁くことなどから徹底的に離脱することは必須だろう。物質
・身体・識の真理が空性ならばその真理を知る人間が無差別殺人したとして
も或いは反対に慈善活動したとしても真理には関係ない。むしろ俗世におけ
る道徳や常識・大人性などを断念し、没落していくこと。それが為されれば
為されるほど固定的観念・人知から離脱できるわけで、逆に真理に近づく。
そういう考えが起こって不思議ではない。
377:考える名無しさん
14/04/12 21:50:21.54 0
固定観念に囚われることと逃げることは同じだから近づいたりはしないよ
378:考える名無しさん
14/04/12 21:54:46.90 0
>>375若いインテリが官僚や金融を潰してやろうというのはよくある話
麻原はやれやれ言ってただけ
三昧体験や神通ができるなら低俗な快楽なんて必要ないから嘘でしょ
379:考える名無しさん
14/04/12 21:56:15.80 0
>>376-378
分かってないなあ
380:考える名無しさん
14/04/12 21:57:16.59 0
>>374乖離したら空じゃないじゃん
381:考える名無しさん
14/04/12 22:09:21.89 0
366が親切に書いてくれてるように知や対象化に囚われている限り「凡夫」
である。その段階よりも上に行くのなら対象的知を離脱しなくてはならない
。市民社会的常識や生活、あるいはアカデミズム、学究や地位、あるいは
僧としての地位や教養や名誉に執着や満足している限り、真理に住すること
からは遠い。
366が提示した真理の階梯は麻原の言動、また現在の獄中での姿にも
通ずるものがある。あれらを現在の常識・教養・市民社会からはかって
も届かないということだ。
382:考える名無しさん
14/04/12 22:09:44.81 0
>>380
なんで?
383:考える名無しさん
14/04/12 22:11:00.26 0
>>381
そういう根拠は?
384:考える名無しさん
14/04/12 22:16:41.27 0
>>382
空っていうのは境目がない状態として捉えることだから
どこかに行くわけじゃないし
何か別のものになったりもしない
悟っても人間でしかない
乖離したら基地外だよ
385:考える名無しさん
14/04/12 22:33:18.31 0
384:乖離したら基地外だよ
「基地外」「基地外ではない」というのも人知だよね。さらに366を補足す
るなら、仏教や唯識や悟りやなんやらも全部人知。言語化され人間がそれを
認識するならそれは超えられるべき階梯にすぎない。よって「階梯」「段階
」や教義でさえも最終的に邪魔になる。366はそう言ってくれてるわけだ。
立派に根拠づけられている。
386:考える名無しさん
14/04/12 22:40:47.39 0
>>385超えられるからといって何でもかんでも超えるから基地外と同じなんだよ
それを乖離と言っているんだよ
その極端な考え方が本来の教義から乖離してるってこと
大げさに考え過ぎなんだよ
とんでもないことできるからスゴイ的な幼稚な発想
387:考える名無しさん
14/04/12 22:53:16.59 0
>>384
それって中論とか般若心経を誤解してるんじゃないかな
インチキ禅師が言いそうなかんじだ
388:考える名無しさん
14/04/13 01:28:06.88 0
空っていうのは、「何者も同一物として存続しない」
ってことなんだよな。
つまり自我を含めて、この世界には何者も存在しない。
ここでいう「存在」とは、「自性」のこと。
たとえば、Aというものがあったとする。
Aは次の瞬間には変化して、Aではなくなったとする。
Aは前の瞬間でも、Aではなかった。
Aが存在できるのは、「今」のみ。
だとすると・・・、Aが存在するのは0,00秒で、0,01秒も存在出来ない。
存在が0,00秒しか維持出来ないとすると、その存在は無きに等しい。
これが諸行無常の原理。
389:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/04/13 02:36:28.74 0
>>366 :353:2014/04/12(土)
>ちなみにこの「通達位」に到達するには、一大阿僧祇劫(ほとんど無限に長い時間)かかるとされます。
なんですかそれ?
結局「通達位」など実現しないと言っているではないか。
390:考える名無しさん
14/04/13 02:38:15.81 0
386のような方は空性とか唯識とかからは縁がない人だと思う。教義
や知(いかなる知であれ)や悟性にどこまでも執着すべでないこと。
また人間的善悪や俗界の常識・大人性にどこまでも執着すべきでない
こと。それらは麻原に聴くまでもない仏教的真理の一種としてある。
仏教は理論を知って終わりではない。と前レスで誰か言っていた
だろう。空性もそうだ。388みたいなことを知って終わりではない。
ただそれを修行や学習の末に実際に実践してみせた、自らも対象的
知や悟性を最終的に離脱したところが徹底的である。あの姿は理論
から導けないことはない。世の仏教者はあれは外道とか関係ないと
かインチキとか387みたいなことを大抵は言ってるだろうがそれは
そっちの方が思考を途中で止めているだけだろう。
別に麻原の全部が正しいとか言いたいわけではない。しかし仏
教者としては認める。あれはありうるということ。
391:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/04/13 03:41:06.17 0
>>369 :考える名無しさん:
>じいさんは「脱構築」と「再構築」を多分混同してると思う。
いえいえ其れが平気で再構築する人が多いんですよ。
例えば・・・・・・・・・・・・・・・・
<もの>はそれ自体が実体として現象し存在するのではないことを<色即是空>といい,
また実体としてではなくて,諸条件に支えられているからこそ,<そのもの>が<そのもの>として現象し存在することを<空即是色>と説く.」
(「岩波仏教辞典第二版」)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こんな解釈が平気でまかり通っている。
「<そのもの>が<そのもの>として現象し存在」し直してしまったら元の木阿弥だ。
諸条件に支えられる<そのもの>なんだから絶対的な存在性は何処まで行っても無いということである。
脱構築した後に「存在」と言う脱構築以前の言葉を使ってはならない、仮設とか幻想とかの言葉を使うべし。
392:考える名無しさん
14/04/13 06:18:10.12 0
>>388
>空っていうのは、「何者も同一物として存続しない」
>ってことなんだよな。
そりゃ無常だべ
393:考える名無しさん
14/04/13 06:19:33.95 0
>>391
いやいや、少なくともアナタの説明よりずいぶんいいよ
394:考える名無しさん
14/04/13 06:42:39.04 0
>>391
>脱構築した後に「存在」と言う脱構築以前の言葉を使ってはならない、仮設とか幻想とかの言葉を使うべし。
以下の岩波の解説者が意識しようがしまいが、「存在」も「色」も仮設であることは仏教の前提なんだけどね
>この><もの>はそれ自体が実体として現象し存在するのではないことを<色即是空>といい,
>また実体としてではなくて,諸条件に支えられているからこそ,<そのもの>が<そのもの>として現象し存在することを<空即是色>と説く.」
アナタの場合は自分勝手な形而上学があって、それに合わせて適当に仏典読んでるだけでしょ。
で、その形而上学に合致すれば分かってると、合致しなければ分かってないというだけ。
それは仏教でなくアナタの妄想に合致するかしないかなんだけど
395:考える名無しさん
14/04/13 10:39:30.61 0
>>392
諸行無常=空 だよ
よく、諸行無常を誤解する人に、「Aという事象が変化するのが諸行無常である」と
考えている人がいるけど、それは諸行無常の本当の理屈じゃない。
「パンは時間とともに腐っていく、これも諸行無常である」 と、大抵の人は誤解している。
諸行無常とは、そのパンこそ同じものは継続しないということ。
誤解する人は、パンは継続されて、表面的な変化だけが起こると思ってる。
仏教の教えはそうじゃない。
何者も継続されるもの(自性)はない。
今の関係性の中から、ある一つだけを抜き取って、次の今の関係性に継続させることは出来ない。
なぜなら、次の今の関係性には、次の「もの」があるからだ。
縁起というのは「今」において成り立っている。
次の「今」には次の関係性(縁起)がある。
同じ縁起は1秒足りとも継続しない。
1秒たりとも継続しないものに、実体があるわけない。 これが 縁起=空=「今」(諸行無常)
396:考える名無しさん
14/04/13 10:44:04.41 0
>>395
まあ、それならとりあえずいいは
じゃ、今縁起してる何かをどう捉える?
人々は共通認識してるxを
397:考える名無しさん
14/04/13 11:20:57.13 0
>>396
そもそも縁起の解釈に誤解があるような気がする。
大抵の人は、「今目の前にあるリンゴは、縁起によって起こっている。」という仏教的な解釈をする。
ところが、その解釈は間違っている。
縁起しているからこそ、「リンゴという固定の物質は存在しない」のである。
だから、「リンゴが縁起によって起こっている」という言い方には矛盾がある。
こういう風に言い換えるべきだ。
「今目の前にあるように見えるリンゴは、縁起ゆえに空である。」 と。
縁起というのは、一枚の絵から、ある部分を抜き出すということが、出来ないということ。
一枚の絵で一つであり、その中に雑多なものがあるわけじゃない。
絵の中は空。
今という関係性(一枚の絵)の中から、一つのパズルのピースを抜き出し、
次の「今の絵」にはめることは出来ない。
なぜならその絵のその部分には、別のピースがすでにあるからだ。
パズルのピースという自性は、縁起の中では存在出来ない。
398:考える名無しさん
14/04/13 11:28:10.57 0
>>397
答えずにずらしか
そうなると君の説は仏教でなく、自分の形而上学に基いてて、
自説に合致するものを仏教に被せて解釈してるということでいいのか?
399:考える名無しさん
14/04/13 11:35:06.14 0
諸行無常や空を固定的に考えない方がいい。こういう考え方が正しく、それ以外は間違っているという発想自体が諸行無常や空に反する。
400:考える名無しさん
14/04/13 11:38:07.18 0
>>398
答えずにずらしじゃない。
ストレートに答えようと思ったが、
どういう意図か測りかねたため、わざと説明を拡大的にしたまで。
ストレートに答えるほうが楽。
Xを認識するっていうのは、Xに時間の幅を持たせた存在にしてるってこと。
Xの存在が0,00秒(今しかない)のならば、Xは人の思考で認識することは出来ない。
認識するってことは、認識出来るだけの時間の幅を与えたってこと。
人間の思考はこのように、「今」にあるのじゃなくて、常に個別の名称、形態に、
時間の幅を与えている。
だから、ものが存続している(自性がある)ように見えてる。
人々が共通認識をするXを見出すとき、すでにそのXは、縁起の世界から離れてる、
なぜなら縁起において、Xという個別の自性は、認識出来ないからだ。
401:考える名無しさん
14/04/13 11:40:20.74 0
>>399
導きの杖だからね
確かに見解・思想・哲学として捉えてしまっては躓きの石だ
だけど、妥当な説き方とそうでない説き方があるでしょう
正に見解・思想・哲学として捉えたものは誤りに他ならない
402:考える名無しさん
14/04/13 11:42:11.36 0
>>400
それだと釈尊や中論の縁起とは全く違うね
やっぱ、自分の形而上学説を仏教に投影してるだけじゃない
もういいは
403:考える名無しさん
14/04/13 11:47:47.22 0
>>402
私の見解が釈迦や中論と違うのではなくて、
あなたの見解が釈迦や中論と違うんじゃないの?
どの部分が違うと思うのか、あなたはその部分を明らかにしてないよね?
自分の意見を言っていない。
それこそ、「自分の意見と違うから、あなたの言うことは釈迦や中論とちがう」 って
言ってるようなもんだよ。
つまり、「自分の見解こそ、釈迦や中論と同じだ」
しかし、その自分の意見がどのように同じなのか、明らかにしていない。
404:考える名無しさん
14/04/13 11:50:57.72 0
>>403
え、聞きたいの?
じゃ、中論と違うなら、自説は撤回するというなら説明しましょう。
できないなら、時間の無駄なんでやめとくけど
405:考える名無しさん
14/04/13 11:55:47.41 0
>>404
っていうか、あなたは私の話しも、中論も、理解出来てないように思う。
理解して「違う」と言ってるんじゃなくて、理解出来なくて、「違うことを言ってるように見えてるだけ」だと思う。
中論そのものが理解出来てなかったら、おそらく私の言うことも理解出来ないでしょう。
中論の解釈を間違っているのなら、どんなにこちらが中論と同じことを言おうが、
あなたにとっては全部間違いに見えるだろう。
406:考える名無しさん
14/04/13 12:00:08.16 0
>>405
まあ、中論を完全に理解してるとは思わないが、アナタよりは分かってると思うは
まあ、撤回できないなら、やめとくは
オイラは仏教伝統教学にも従って学んで、梵パ蔵漢の諸本を結構検討した上で言ってるんだが
407:考える名無しさん
14/04/13 12:06:14.86 0
ネットで自分の解釈の妥当性を根拠づけるには経典によるしかないでしょ
論理はそれぞれ各自が正しいと思ってるわけだから
経典を出さないで、適当な解釈だけ述べる君やじいさんは、要するにオレの思いは正しいとしか言ってないでしょ
408:考える名無しさん
14/04/13 12:11:24.31 0
>>406
いくら経典を学んでも、その奥を見抜く洞察力がないとダメ。
仏教がここまで理解されないのはなぜかっていうと、表面的な学問に始終して、
その本質を理解しようとしないから。
本質を理解する洞察力がない。
本質を理解すれば、おのずと経典が後から証明してくれる。
もし経典だけの表面的理解だけならば、後から矛盾が出てくることになる。
学問だけではダメだよ。 いつまで経ってもグルグル同じところを回るだけで、
一向に本質を掴むことは出来ない。
経典の世界だけで本質をつかもうとしてもダメ。
全体的な理屈からも、筋の通った話が出来ないとダメ。
409:考える名無しさん
14/04/13 12:26:57.36 0
>>408
やっぱオレが正しいってだけですね
410:考える名無しさん
14/04/13 12:36:15.57 0
>>409
えーっと、あなたが>>396と同一人物か分からないけど、
>>396は、
>今縁起してる何かをどう捉える? 人々は共通認識してるxを
と言ってるわけね。
これは縁起の理屈を本当に知らない人の言葉だよ。
最初に言ったとおり、「目の前にあるリンゴは、縁起している」 という見方は矛盾している。
なぜなら「目の前のリンゴ」という、時間的に継続する個別の物体を認めているからだ。
「リンゴ」という個別の物体を認めながら、それを「縁起している」と見ることは出来ない。
「どのようなものでも縁起している、それゆえ空なのだ」 という説明をもって、
ありとあらゆる個別の存在は、縁起している「もの」だ、と、勘違いする人がよくいる。
これは中論の初歩中の初歩の誤りだよ。
こんな理解力でいくら経典を読んだって、その本質は理解出来ないってこと。
っていうか、そういう理解は経典の本質を見抜けなかったってことで、
経典を読んでるから、本質を見なくても正しいんだって言ってるのと同じ。
411:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/04/13 13:05:57.34 0
>>366 :353:2014/04/12(土)
答えてください「転識得智」の第三段階で
>そこで「転識得智」が生じ、人は「凡夫」ではなく「聖者」と呼ばれます。
>「通達位」に到達するには、一大阿僧祇劫(ほとんど無限に長い時間)かかるとされます。
ならばビッグバンから生じたこの宇宙で「通達位」に達したものがあるの?
412:考える名無しさん
14/04/13 21:40:43.06 0
修行を積むことでその位階にいけることを証明したのが麻原。しかしそれ
は人間社会では狂人・異常者であることと変りない。彼の元弟子でもそれが
もう分からなくなってるのだから皮肉なものだ。いかに俗世の観念が強固
であるか、脱するのが困難かということだろう。ひょっとすると、これ
までの歴史でも最高段階にいった者はいたかもしれない。しかし周囲の
仏教者がそれを見抜けなかっただけかもしれない。周囲は99.999…%が俗世
の観念でしか生きられない。インテリだろうが僧だろうがそこは変わらない
。
413:考える名無しさん
14/04/14 00:10:58.09 0
「何であれ、事物は縁りて生ずるが故にそれらの分別は観察さ
れ得ないのだから、その故に、縁起というかの道理によって、
誤った見解の網はことごとく断ぜられる。」 チャンドラキールティ
414:考える名無しさん
14/04/14 06:13:37.45 0
>>413
『入中論』6-115以下の訳ね
URLリンク(www.tulips.tsukuba.ac.jp)
これは縁起という方便であらゆる思想・哲学・見解を戯論寂滅へ導くことを述べています。
その意味で『中論』と同じです。
415:考える名無しさん
14/04/14 13:00:33.20 0
>>414
びっくりした
まさに、そのPDFからの引用です
416:考える名無しさん
14/04/14 20:23:23.52 0
>>415
この論文だと、龍樹菩薩や月称菩薩の諸論から断片を集めて主張する思想を導こうとしてますが、
そういう前提で中観を研究しても失敗します。
なぜなら、中観に主張する思想・見解はないからです。
その証拠に『廻諍論』29『入中論』6-173で「我々には主張がない」などと説かれ、
『四百論』16-25で「有・無・有かつ無といった何らかの主張。それが有ることのない者。彼に対して長時間かけようとも瑕疵は述べられない」と説かれるからです。
それは全く釈尊に添った道で『スッタニパータ』837で次のように説かれるからです。
URLリンク(www28.atwiki.jp)
これこそ『中論』25-24「仏は何も説かなかった」と説かれる意味です。
つまり、ブッダは戯論寂滅へ導くために教えは説かれたけれど、何らかの主張は何も説かなかったという意味です。
417:考える名無しさん
14/04/16 03:57:46.54 0
>>416
汝自身が戯論寂滅に導かれることを切に祈るw
418:考える名無しさん
14/04/16 05:40:19.78 0
>>417
戯論ってどういう意味だと思う?
戯れの論みたいな意味ではないよ
419:考える名無しさん
14/04/16 06:05:07.46 0
私はあなたがずっとここにいるのが不思議でならないんだ。
戯論寂滅、戯論寂滅、といって、衆生を戯論寂滅に導こうと本気で思っているのか。
あるいは、そうでないのか。
そうでないように私には見えるから、皮肉を書いたんだ。
420:考える名無しさん
14/04/16 06:16:37.55 0
>>419
導ける能力があるわけないでしょ
より妥当な読みを示してるだけ
文献学系の学者のほとんどは、中観を思想と捉えてるので誤読してるんで、
さらにそういう本を読んで妄想戯論を膨らましてる人にそれは違うよ~
と言ってるだけ
421:考える名無しさん
14/04/16 06:35:53.54 0
導く力がないと思っているなら、
導く力を得るための修行をしたほうが良くないですか?
修行してますか?
422:考える名無しさん
14/04/16 06:52:45.56 0
>>421
そりゃ、してますよ
篭って集中してもやったし、これからも篭りたいとも思ってますよ~
423:考える名無しさん
14/04/23 20:37:11.01 O
ブッダ(釈迦)の2500年前の言葉に共感する人が増加中 「全ては諸行無常を前提に生活設計しろ」
スレリンク(news板)l50
お前ら書き込んだだろ
424:考える名無しさん
14/04/23 21:34:32.50 0
>>423
書き込んでないけど、佐々木 閑、結構和辻よりなんだよな~
これじゃほとんど断見で、仏教的に最低の見方に近い
>たとえば釈迦の仏教では「拝んで救済を願えば、死後、よい世界に生まれる」などということは一言も言っていませんし、
少なくとも布施し、行いを良くすれば、死後、よい世界に生まれるとは説かれてるけどね。以下、漢訳の「生天」がそう、天界に生まれるという意味
URLリンク(21dzk.l.u-tokyo.ac.jp)
もちろん、パーリでも同じこと。
『ダンマパダ』でも来世は説かれるし、拝むこと、供養することも説かれるよ。
こういった現代への阿りは和辻以来の伝統で、それは方便としてはありかもしれないけど、学問としては終わってます。
425:考える名無しさん
14/04/24 00:10:26.79 O
>>423
そのスレざっと読んだけど>>1で引用されてるやつよりか核心ついた話もされてるね
426:考える名無しさん
14/04/30 07:23:32.95 0
我執とか思考とか心に湧き出る自分を苦しめるものをどうすれば観察できる?
瞑想で思考に気付く事は出来るが観察なんか出来ないよ。
悩み苦しんでいるときは、心にデタラメに悩みが湧き出でくるから、それに振り回されてる自分に気付くだけだ。
ここを乗り越えた人いますか?
427:考える名無しさん
14/04/30 08:32:15.32 0
>>426
そりゃ、最初は意識が散乱してるから
集中することに毎日親しみ馴れるしかないっすね
そのために座って集中するわけです
できれば、誰も居なく意識の散乱対象の少ない山奥などで
428:考える名無しさん
14/04/30 10:50:48.72 0
>>427
レスありがとう。
その集中するってのが出来ないってか、何をどう瞑想すればいいかわからないんですよ。
じ~っと、頭にに湧き出てくる思考や雑念を認識し続けるんでしょうか?
これやると、5分ももたないで苦しくなるんですよね。
何をどう集中するのか、教えてくれませんか?
429:考える名無しさん
14/04/30 11:12:46.71 0
>>428
最初は5分ぐらいから、意識の流れを観るのが難しければ、
呼吸に集中してみましょう。
呼吸に5分集中できるようになったら、だんだん時間を伸ばして、
二時間ぐらいできるようになったら、意識を観るのがいいかもしれません。
430:考える名無しさん
14/04/30 11:24:13.18 0
>>424
佐々木氏の本は、最近出た新書のやつしか知らないけど、日本的な大乗仏教をサゲることによって、相対的に
原始仏教をアゲる軽薄な本としか読めなかった。和辻の思想を、あれと一緒にするのはさすがに気の毒では?
431:考える名無しさん
14/04/30 11:44:26.32 0
>>430
原始仏教の実践哲学、読んだ?
あれ、基本
>たとえば釈迦の仏教では「拝んで救済を願えば、死後、よい世界に生まれる」などということは一言も言っていませんし、
という路線の亀鑑だから。
釈尊が「凡夫が如来を賞賛して語るとき、わずかなことのみを、 卑近なことのみを、戒のみを語るにすぎない」と説かれた
URLリンク(www28.atwiki.jp)
それを正に地で行って仏教を伝統から常識に引きずり下ろし、グチャグチャにした元凶こそ和辻に他ならないと思ってる
432:考える名無しさん
14/04/30 12:00:09.60 0
>>429
ありがとう。
やってみます。
433:考える名無しさん
14/04/30 15:14:05.23 0
「仏教論」で検索すると
「c点による仏教論」も、仏教論の一つです。「無記」「竜樹のけ論」を無視しているので仏教哲学ではない。元々仏教は哲学ではない。
c点論も哲学ではなく、一つの思想に過ぎない。
「裸の王様」という童話あり。
あるものはある ないものはない 色即是空? 空即是色?
434:考える名無しさん
14/04/30 15:36:33.57 0
>>433
c 点は問題外
435:考える名無しさん
14/05/01 12:02:54.14 0
>>426
「心をもてはかることなかれ」 て道元さんの言葉にあるけど、まさに、意図的な気づきはうまくいかないと思う。
ここをどう乗り越えるかは、今熟考中だが、なんとなくヒントが見えてきた。
436:考える名無しさん
14/05/01 13:07:19.35 0
考えて分かるようなものじゃない
437:考える名無しさん
14/05/01 13:55:16.14 0
思考や知的理解を一方的に排除しては、その人に悟りは永遠に来ないだろう。
438:考える名無しさん
14/05/01 14:16:15.90 0
考えるな。感じるんだ。
439:考える名無しさん
14/05/01 15:30:56.40 0
>>435
>「心をもてはかることなかれ」
そりゃ、高い境地だから、集中もできない人には無理です
440:考える名無しさん
14/05/01 15:54:46.71 0
ごちゃごちゃ言うなと。
不二だよ不二。
黙ってろ。
441:考える名無しさん
14/05/01 16:12:32.29 0
>>440
全然分かってないだろ
それに掲示板で黙ってどうする
なぜ、釈尊は教えを説いたのか?
ダルマも
442:考える名無しさん
14/05/01 16:20:20.53 0
>>441
おまえ、釈迦や達磨じゃねーだろw
443:考える名無しさん
14/05/01 16:33:03.58 0
>>442
そんな当たり前のこというなよ
掲示板で、黙ってどうすんだ?
不二ってどういう意味だと思ってる?
444:考える名無しさん
14/05/01 16:55:28.90 0
>>439
高い境地と低い境地、集中出来る、集中出来ない、こういう風に思っていては、
本当の瞑想は出来ない。
445:考える名無しさん
14/05/01 16:58:45.75 0
>>443
おれやおまえの意見など関係ない。不二は不二だ。黙。
446:考える名無しさん
14/05/01 18:11:33.72 0
>>444
本当の瞑想ねw
そんな優れた瞑想者が糞ミソの形だけの無分別論を語るとは思えないけど
447:なんとなく思った名無しさん
14/05/01 18:38:49.15 0
ハンマーヘッドシャーク と ノコギリザメ
448:考える名無しさん
14/05/01 19:56:37.06 0
>>444
そんなこと言われてもなあ
伝統仏教ではそうだし、実際そうなんだが
>>445
なるほど、単なるスローガンですね
何も分かってないし、体験もないと
449:考える名無しさん
14/05/01 20:09:27.18 0
あほ
450:考える名無しさん
14/05/01 20:25:25.86 0
>>449
悪口はいけませんな
仏教に信があるなら
また、仏教に信がなくても、ここは哲板なんで明晰判明に言葉で述べられないなら
黙るしかない
451:考える名無しさん
14/05/02 00:15:46.04 0
鏡はすべての物を映し出すでしょ。
452:なんとなく思った名無しさん
14/05/02 04:46:47.17 0
マンゲ鏡
453:考える名無しさん
14/05/06 18:59:10.79 0
仏教新参者です。浄土真宗の他力の信心に傾倒中。
瞑想中に自力で我執を見送るなんて無理だ。そもそも、自力でってところが既に我執だもんな。阿弥陀様にお願いしたい。瞑想と念仏ごっちゃ混ぜになってるのは自覚してる。
南無阿弥陀仏。我をとなえよ絶対救う。この心強さが嬉しんだよな。
阿弥陀様好きな人いますか?
454:考える名無しさん
14/05/06 19:35:38.83 0
>我をとなえよ絶対救う
ここがちょっと違うぞ。
これでは他力にならない。
455:考える名無しさん
14/05/06 20:06:16.85 0
教義と違うかもな。
新参者だから理解不足もあるが、阿弥陀様の心意気に惚れたんだよね。
456:考える名無しさん
14/05/06 20:49:23.54 0
>>453
はい、好きというか、尊敬しております
アミダは有難すぎです
他の仏教とも勿論矛盾しません
矛盾すると思う人は仏教の理解が狭いか、
浄土教を勘違いしてると思います
457:考える名無しさん
14/05/06 21:02:45.31 0
>>456
よかった。安心した。
浄土教って言い方良いですね。地理的にも時間的にも全部包括して。
458:考える名無しさん
14/05/06 21:17:15.58 0
>>457
安心してアミダ様を拝んでください。
インドでもチベットでもシナでも信仰され修行されてますので
日本の真宗の一部はちょっと変なので、それは倒錯してると考えてください
もちろん、親鸞上人は違います
江戸時代は浄土宗の聖者がたくさんでましたし、
真宗でも妙好人もたくさんでましたので、ちゃんと結果も保証されております。
459:考える名無しさん
14/05/06 21:57:39.13 0
>>458
いろいろありがとう。結構、マジに信心すると思います。
ただ、あれだね、俺はまだまだ欲深いから現世でも救われたいって思います。これは宗教を問わず、人間の業みたいなもんだね。
460:考える名無しさん
14/05/06 22:13:50.70 0
>>459
それもまるっと包み込むアミダの有り難さっすね
往生要集を読むといいかもです
461:考える名無しさん
14/05/06 22:35:51.28 0
もう一度言うけど、「念仏を唱えることによって救われる」 んじゃないぞ。
そこを間違えると、浄土門の意味が無くなる。
唱えることによって救われるならば、それは広い意味で自力になってしまう。
本当の他力じゃない。
462:考える名無しさん
14/05/06 22:41:57.06 0
>>460
往生要集ググりました。
俺はまだまだ現世に執着が有って、我執に苦しむ者です。今は自分にある苦しみを少しでも薄めたいので、この本は、後々読もうと思います。
正直に言うと、現世に苦しむ者が救いを求めて、阿弥陀様に惹かれているのです。
463:考える名無しさん
14/05/06 22:49:39.70 0
>>461
コメントありがとう。
新参者なので、他力の意味を完結に答えられません。
下記のブログで他力の意味を理解しました。
URLリンク(ictv.easymyweb.jp)
464:考える名無しさん
14/05/06 23:10:24.59 0
463です。
浄土真宗に救いを求めて始めたキッカケは下記の法話です。
URLリンク(www.hongwanji.or.jp)
465:考える名無しさん
14/05/06 23:52:30.29 0
「どんな時にもお任せする」 それが他力の信心です。
「念仏したら救われる」 じゃなくて、「もう既に救われている」のです。
念仏をひとたびでも唱えたら、もう既に救われている。
阿弥陀様の救いが確定している。
だから後は阿弥陀様を称え、感謝する称名念仏をすればいい。
どんなに悪い自分であっても、どんなに困難が襲ってきても、どんなに自分が弱気であっても、
落ち込んでいても、潰れかけていても、阿弥陀様の救いは確定している。 阿弥陀様が救いを確定して下さっている。
だからいちいち何かを変えようとしなくていい。
全てを阿弥陀様にお任せすればいい。
そのまま、ありのままでいい。
これが他力の信仰です。
>>463のブログに出てくる、「内観の念仏」 というのは、自力の行になります。
466:考える名無しさん
14/05/07 00:57:09.39 0
>>465
長文による説明ありがとう。
webの拾い読みだったので、間違った理解をしていたんですね。
見ず知らずの者に時間を使ってくれて、感謝します。
467:考える名無しさん
14/05/07 04:38:01.04 0
日本、特に近代真宗でいう他力って結構、へんなんで
あんまり気にしなくていいと思う
468:考える名無しさん
14/05/07 05:15:29.14 0
その辺が日本人の限界だろ。
469:考える名無しさん
14/05/07 05:27:49.51 0
>>468
日本人の問題じゃなく、真宗の近代教学がへんなだけ
特に清沢満之以降は、もはや仏教とは思えない
470:考える名無しさん
14/05/07 05:40:30.35 0
朝早いですね。住職さんですか?
俺は自律神経失調症で眠れないヤツ。
471:考える名無しさん
14/05/07 05:46:57.87 0
>>470
最近、毎朝四時半ぐらいに猫に起こされてます
寝る前に座って、アミダさんなり観音さんなりのご名号を千回とか一万回とか
唱えてみてはどうでしょう。
お姿を思い描きながら、唱えると緊張がとれて眠くなるかもです
寝なくちゃとか思わないで気軽にリラックスしてやってみてください
472:考える名無しさん
14/05/07 05:58:36.97 0
他力というのは波平が前いってた?ようにただ念仏を唱えれば
救われるといった方が民衆は理解しやすいし迎合しやすいだろう
というものではなく、念仏をすることで他力本願に近づくという
もっと深い部分での人間の自然な「救い」を体現するのに念仏を
唱えるといった意味を持つものだろう。
人間は自然なものであり、その心や精神も無理矢理に苦行で矯正していく
ものではなく、あるがままを体現していれば自然と阿弥陀仏が救ってくれる
といったものでり、念仏はその手助けとなる。信仰の意味みたいなものを
繰り返していく行為だと思う。または霊的な意味も宗教だからあるだろうが
私も他力の教えには感動し、傾倒している。
涙がでてくるほど優しいことをいっているんだと思うよ。
「あるがままでいいんだ。自分(自力)より大きなもの(他力)に従おうよ。
そうやって自然に生きていれば必ず阿弥陀仏が救ってくれるから
人間が自然でいることはすばらしい。生きよう自分自身(他力)を」
って意味じゃないかな?
嘆異抄を読んでそう思った。
473:考える名無しさん
14/05/07 06:22:25.92 0
>>471
メンヘラに念仏って効くのかな。今度やってみます。
474:考える名無しさん
14/05/07 07:36:12.03 0
>>472
>「あるがままでいいんだ。自分(自力)より大きなもの(他力)に従おうよ。
>そうやって自然に生きていれば必ず阿弥陀仏が救ってくれるから
>人間が自然でいることはすばらしい。生きよう自分自身(他力)を」
こういうのが近代教学の誤解ね
親鸞上人も明らかに仏教の枠内で念仏を説かれててると確信する
そう思えない人は、七里恒順師か山口益先生の本を読むといい。
>>473
効く効く、信があればアミダ、観音が救わないものはない
475:考える名無しさん
14/05/07 09:05:27.14 0
>こういうのが近代教学の誤解ね
親鸞上人も明らかに仏教の枠内で念仏を説かれててると確信する
何いってんの?近代教学の誤解ってあんたが誤解してんでしょう。
親鸞のどこからとってきて誤解とか決めつけてんの?
山口益先生の何から発言してんの?
476:考える名無しさん
14/05/07 12:03:11.68 0
阿弥陀ババァか。。
477:考える名無しさん
14/05/07 17:14:49.84 0
念仏が、「効く、効かない」、じゃないぞ。
「効く、効かない」は、仏教じゃない。
ここが分からないと、浄土門の念仏は分からないだろ。
浄土門はとくに、平等心を大切にする。
禅も同じ。分別を無くすことが、仏教の目標なんだよ。
どんな自分でもお任せする。ありのままでいい。
こういう自分はダメだ、ああいう自分はダメだ、苦を楽にして欲しい、
なんとか今の苦境を救って欲しい、← これじゃ、正しい念仏とは言えないよ。
親鸞は昔、疫病に苦しむ村を通りかかったんだよな。
そしてその村人達を救おうと、浄土三部経を千部読誦しようとした。
お経を読むことによって村人を救おうなんて、阿弥陀様の救いを信じていないってことになるんだよね。
阿弥陀様に全てをお任せすることが出来てない。
本当の信心ってのは、良い自分も悪い自分も、すべてお任せ。
嫌なものが出てきたから、これをお任せ出来なくて取り除こうってのは、阿弥陀様の救いを信じられていない証拠。
救いが確定しているから、「このままでいいよ」と許される。
これが本当の他力なんだよ。
悪いものを取り除いてもらうための念仏なら、それは自力だ。
478:考える名無しさん
14/05/07 19:47:45.73 0
>>477
君のは近代真宗教学内では、そうなんだろうが、
仏教的には全く違う。
>>472
>>「あるがままでいいんだ。自分(自力)より大きなもの(他力)に従おうよ。
>>そうやって自然に生きていれば必ず阿弥陀仏が救ってくれるから
>>人間が自然でいることはすばらしい。生きよう自分自身(他力)を」
上の根拠は、浄土三部経、十住論、浄土論、親鸞著作にあるのかい?
示せないなら、仏教というのは止めた方がいい。
因みに仏教でいう平等心というのは世俗的な意識での平等ではない
勝義、空性での平等に他ならない。
それを世俗因果内での平等と捉えたら無茶苦茶だ。
479:考える名無しさん
14/05/07 23:24:37.72 0
>>478
どう読んだら477を、世俗的平等と読めるのだろうか?
平等心というのは、空性の平等そのものだよ。
あなたは何かを勘違いしている。
もし、念仏によって救ってもらえる、救ってもらおうと考えているのであったら、
それこそ近代的な誤解釈というべきだろう。
近代的というか、当時でも自力念仏とかあったよね。
こういう間違いを犯す人はいつの時代にも出てくる。
阿弥陀の救いをある種のオカルトように考えている。 オカルトというのは聞こえが悪いが、スピリチュアル的に考えている。
阿弥陀をある種のスピリチュアル的な存在と考えていて、それが救ってくれると思ってる。
そういう考えこそ、世俗的な他力だよね。
それじゃ、仏教の空性から外れてしまう。
もし世俗的な他力、救いというならば、逆に阿弥陀の本来の素晴らしい救いを、限定的なものにしてしまう。
477を世俗的平等と見ているところがもうダメだ。
禅でもこういう勘違いをする人が多い。
雑念を無くすために統一する。 心を落ち着けるために座禅をする。 苦悩を無くすために座禅をする。
「~の効果を得るために座禅をする」 というやつ。
雑念があっても無くても、苦悩があっても無くても、平安であっても無くても、そこに捉われないのが禅なんだよ。
念仏も同じ。
二項対立の自分があっても構わない。そういう分別の世界を超えて救われているのが、念仏の意義なんだよ。
悪い自分と良い自分を平等にしよう、ってことじゃないよ。
悪い自分、良い自分に捉われない、中道ってこと。
捉われない境地、中道において平等なんだよ。
480:考える名無しさん
14/05/07 23:37:55.47 0
>>479
なるほど、平等心は誤読だった
それは認めるけど、君の主張する近代教学は排他的で認めがたい。
どうせ異安心とか言うタイプでしょ。そもそも浄土教が方便道の一つであることに理解がないように思う。
親鸞上人は『現世利益和讃』も説かれてるし、他でも利益、効果も説かれてるけど、それと君のような近代教学とは矛盾するよね。
URLリンク(21dzk.l.u-tokyo.ac.jp)
それと以下は君の文だと思うが、これの根拠が親鸞上人の著作にあるのかい?
示せないなら、近代教学と親鸞上人でさえ違ってることに自覚されてたし。
仏教一般は尚更だ。
>>472
>>「あるがままでいいんだ。自分(自力)より大きなもの(他力)に従おうよ。
>>そうやって自然に生きていれば必ず阿弥陀仏が救ってくれるから
>>人間が自然でいることはすばらしい。生きよう自分自身(他力)を」
481:考える名無しさん
14/05/08 01:25:18.52 0
母は何十年も仏教をやってるけど色即是空の意味も知らない
有難さや得が耳から入ってくると言っている
うろ覚えだが、これは偶像崇拝といい、仏教徒の誰かが禁止していたような
母には酷なので教えないけど
482:考える名無しさん
14/05/08 01:56:35.95 0
>>481
いや、それで良いんだよ。
知る知らないは関係ない。信じること即救われることなんだから、
お母さんは既に救われてる。
483:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/05/08 04:55:20.90 0
>>479 :考える名無しさん:
>悪い自分、良い自分に捉われない、中道ってこと。
なんか違うと思うぞ・・・
悪い自分に気づいた時点で救われている・・・と言う感じでは?
そこに「悪い自分」と言うあるがままを受け入れたからだ。
>>481 :考える名無しさん:2014/05/08(木)
>偶像崇拝といい、仏教徒の誰かが禁止していた
例えば 念仏を唱えるのは、唱えている間は余計な事は考えないだろうと言う効果です。
それを念仏を唱えたから往生できると考えてしまっては元の子も無い。
484:考える名無しさん
14/05/08 05:07:58.66 0
>>482
>お母さんは既に救われてる。
信じることが救われることじゃない
アミダへの親鸞上人的な金剛心ができるのは稀有なことだ
そこが全く分かってない
>>483
>悪い自分に気づいた時点で救われている・・・と言う感じでは?
また、適当なことを
485:考える名無しさん
14/05/08 05:39:58.89 0
>>481
>うろ覚えだが、これは偶像崇拝といい、仏教徒の誰かが禁止していたような
偶像崇拝というのはセム系宗教の言葉で、仏教の言葉ではないですね
恐らく日蓮系の人がそんなこと言ってるんでしょうが、
日蓮自体が非仏教なので、全く勘違いです。
>母は何十年も仏教をやってるけど色即是空の意味も知らない
>有難さや得が耳から入ってくると言っている
仏教は道が色々あって、こういう道もあります。
その一つが浄土教、アミダの教えです。
だから、お母さんは真っ直ぐな信があり、アミダや観音を信じているなら大丈夫です。
486:考える名無しさん
14/05/08 08:42:42.17 0
介護やら、リストラやら、病気やら、人生詰みそうだ。仏教に救いを求め、四法印を胸に刻んでも、現実の苦悩が減らない。
この先、仏教で俺は救われる事があるのだろうか?
487:考える名無しさん
14/05/08 08:45:27.15 0
>>486
あると思うけど、それは本人次第だと思う
488:考える名無しさん
14/05/08 09:06:16.77 0
>>487
そうですか。。。。
489:考える名無しさん
14/05/08 09:31:13.77 0
>>488
そうですとも
仏の教えは素晴らしいですから
それと四諦の一番目は苦諦ですから、生は苦しいに決まってます
釈尊でもアミダでも観音でもいいですから、好きな本尊を観想して
起きた時と寝る前に五分、座ってみてください。
490:481
14/05/08 11:07:36.40 0
>>485
でも母は救われるとか、これで家族は大丈夫、とか考えて信じているようなのですよ
しかし「色即是空空即是色」は、実態は変化しない、という意味ですよね?
変化を望んでいるのに、変化するものは無い、と唱え続けるのはどうなのですかね?
「色即是空空即是色」は、何かひどい目に合っても実態は変化していないから悲しむ事は無いよ、というような意味もあるのではないかと思うのですが、
多分母は家族がひどい目にあったらメチャ悲しむと思うのです
>アミダや観音を信じているなら大丈夫です
あとこれはどういう意味でしょうか?
491:考える名無しさん
14/05/08 11:37:30.51 0
>>480
人が真実信心によって念仏を唱える時、それは縁起の世界に自己を置いているのと同じ。
縁起の世界=無限の世界=阿弥陀仏
縁起の世界に自己がある時、そこに自我はない。
自我が無いとき、自己はすべての世界の存在と完全に結びついてる。
そのとき自己は、他のすべての存在から守護を受けているといってもいい。
それが、現世利益和賛に言われている、仏や菩薩、善神たちの守護なんだよ。
自我の願いによって、自力の祈願によって守護を受けると思ったら、大間違い。
エゴを満足させるような祈願は、念仏じゃないよ。
念仏を唱えていても、重病になる人もいるだろう。事故や不運に合う人もいる。
そういう事象に捉われず、すべてを任せきってありのままになったとき、そこに本当の意味の幸せがり、浄土がある。
事故や不運を無くすことが幸せなんじゃない。 そこを越えることが幸せなんだよ。
それが仏教なんだよ。
エゴを満足させている以上、また次の不都合が起きる。いくら利益があったってキリが無い。
そこを越えること。
水瓶の蓋を満足させるんじゃなく、蓋をとって中の水に月の光を映すのが、真の現世利益だ。
あるがままっていうのは、月の光を一生懸命受けよう、受けようとするんじゃなくて、
蓋を外してただ水面に月を映すことだ。
蓋を外せば自然に月の光が映ってくる。 それが他力に任せるということで、それが阿弥陀仏の救いということ。
492:考える名無しさん
14/05/08 11:45:23.48 0
>>483
>そこに「悪い自分」と言うあるがままを受け入れたからだ。
悪い自分をあるがままに受け入れるということは、悪い自分に捉われないということと同じ。
あるがまま=捉われない=全てを受け入れる まったく同じ意味。
良い自分、悪い自分に捉われないというのは、たとえ悪い自分が出てきても、それはダメだというんじゃなくて、
それでもいいよと受け入れること。 そのまま。ありのまま。
捉われがあるから、あれじゃダメ、これじゃダメ、とやっちゃう。
493:考える名無しさん
14/05/08 11:46:20.12 0
>>490
大丈夫
色即是空などは、般若によって戯論寂滅の境地に至る道で知的に文を理解しても、
そんなに意味はない禅定に入って般若観しないとほとんど意味がないです。
もちろん『般若心経』を唱えることは功徳になり意味がありますが。
アミダや観音は他を救うことを誓願していますので、
今、アミダや観音を信じて称名すれば利益がありますから。
こちらは般若の道とは全く違うので、禅定や般若観などができなくても効果ありますから、大丈夫です。
心配御無用
494:考える名無しさん
14/05/08 11:48:29.79 0
>>491
そうやったらそういう保障が無い救いを信じられるのでしょうか?
エゴがどうしても拒否するのですが
495:考える名無しさん
14/05/08 11:59:18.56 0
>>491
だから、親鸞上人の文献のどこにそんなこと書いてあるの?
近代教学がそんなことを言うのは知ってるが、
それは仏教はもちろん、親鸞上人に根拠ないんじゃないか、と聞いてるので、
親鸞上人の文献を引用せずに観念的に色々述べても全く根拠にならないって分からないかな?
そんなこじつけの付会じゃ、なあ。
496:考える名無しさん
14/05/08 12:02:21.32 0
>>493
アミダや観音の誓願にはどうして効果があると言えるのでしょうか?
497:考える名無しさん
14/05/08 12:02:28.09 0
>>491
最終的に似たような境地もあるけど、
こういう現代教学は、たんなる観念的な気休めの現状肯定に堕していて、
仏教とはほとんど関係ない唯の詭弁だと思う
もし、こういう説を真宗が取るなら、それは仏教一般とは相容れない。
498:考える名無しさん
14/05/08 12:07:05.91 0
>>496
過去に聖者がそれを信じて結果を出したからです。
江戸時代なら日本でも沢山あり、戦前ぐらいまでは残っていました。
現代でもチベット系では沢山そのような結果が出ています。
それが信じられるかどうか、それが仏教の門であり、
特に浄土教は信が要であることは、親鸞上人も法然上人も源信上人も
シナやインド、チベットの聖者も口を揃えています。
499:考える名無しさん
14/05/08 12:21:50.32 0
>>490
>「色即是空空即是色」は、実態は変化しない、という意味ですよね?
実態は変化しない、という意味ではなく、逆に諸行無常を言い表していると思いますよ。
実態があると思われているものは、常に変化変滅していて、実は実態がない・・・
だから、苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、それらに実態はなく(空)、 消え去っていく。
消え去るものを追うから、苦しみが付きまとう。
>>481のお母さんの信仰は、それで良いと思いますよ。
普通のご利益信心より、一歩上だと思います。
500:考える名無しさん
14/05/08 12:29:57.39 0
>>499
そんな解釈はインド・チベット・シナ・日本の聖者の解釈とは全く違うんで
そういう気休めが和辻以来の常識への阿諛追従で日本仏教を骨抜きにしてきたと思うは
501:考える名無しさん
14/05/08 12:35:07.52 0
>>500
「色即是空空即是色」をインド・チベット・シナ・日本の聖者たちはどう解釈してるの?
502:考える名無しさん
14/05/08 12:36:46.67 0
>>494
信仰というのは、信じられるか、信じられないか、って問題だから、
信じられないのなら、無理に信仰する必要はないでしょう。
時節が来れば信仰出来るようになるかもしれないし、また、この宗教だけが救いの道だってわけでもない。
自分に合った道を見つければいい。
503:考える名無しさん
14/05/08 12:38:56.37 0
>>500
「空」というのは「自性」が無いことで、これが「諸行無常」だよ。
解釈もクソもない。
504:考える名無しさん
14/05/08 13:04:42.80 0
>>495
では、あなたは何が言いたいの?
言いたいことが見えてこないんだけど。
念仏に力があって、あらゆる危難から守られる、ってことが言いたいのかな?
>>497
>たんなる観念的な気休めの現状肯定に堕していて
観念的な現状肯定、気休めではないよ。
悪い物もそのまま受け入れましょうってのは、ただ逃げられないからその中にいましょう、ってことじゃない。
我、分別によって、苦しみの捉われが起こる。
それをそのままにしておけっていうんじゃ、いつまで経っても苦しみは無くならない。
苦しみが無くなるには、全てを預け切って任せる場所が必要。
それが念仏なんだよ。
全てを預けきるとは、どのような苦しみがあっても、そこを超えた世界に身を置くということ。
これはヴィッパーサナにおける観察と同じだろ。
この業の世界から、それを超えた世界に意識を移す、思考分別の世界から離脱するってこと。
離脱もなく、ただ苦しみのウズの中に巻き込まれているだけの観念的な現状肯定じゃないよ。
505:考える名無しさん
14/05/08 14:16:02.09 0
>>501
そりゃ大変だぜ
親鸞上人の典拠も出せないヤツになんで見せなきゃならない
>>503
空性は無自性ならいいが、空が「自性」が無いことというのは違うな
そして諸行無常とも微妙に違う。
そしてまた、空性を見解や思想として捉えてしまってはどうしようもない。
般若にしろ中観にしろ、見解を寂滅する道で、見解を掴むじゃない。
日本の仏教学は、ほとんどそうなってしまってる。
山口益先生は数少ない例外なんだよ。
>>504
単に君は現代真宗教学しか知らなくて、そういう変な知識で仏教語るなってことって分かりそうなもんだけど
まあ、もう言うことは言ったからもう辞めとくは。
山口益『大乗としての浄土』を前提に親鸞上人を真宗聖典などを読めば明らかに真宗現代教学がおかしいのは分かると思う。
手っ取り早く末木文美士『浄土思想論』でも充分だ。
インド・チベット・シナ・日本と20年かけて学べとは言わんが、上ぐらい一ヶ月ぐらいかけてやった方がいいぞ。
506:考える名無しさん
14/05/08 16:42:10.11 0
>>498
>過去に聖者がそれを信じて結果を出したからです。江戸時代なら日本でも沢山あり、戦前ぐらいまでは残っていました。現代でもチベット系では沢山そのような結果が出ています。
アミダや観音の誓願の効果を知りたいです。
いくつか具体例を教えてくれませんか?
オカルト的な結果になるんでしょうか?
皆さんスルーしているので、不思議です。
507:考える名無しさん
14/05/08 17:40:47.97 0
>>505
「空性」も「空」も同じ。
「無自性」も「自性が無い」も同じ。
山口益って現代人だよね?
現代人の解釈による真宗なら、それもまた広い意味で、真宗現代教学とも言えるんじゃないの?
そんなにすごいなら、その主張をここに書いてみればいいのに。
きっと何かの参考になるだろう。
508:考える名無しさん
14/05/08 19:44:37.75 0
>>506
オカルトとかではなくて、生死を越えた境涯を達成したということなら、
「妙好人」の人達がいるでしょう。
509:考える名無しさん
14/05/08 20:16:44.57 0
>>508
妙好人をぐぐって、分かりました。
510:考える名無しさん
14/05/08 20:48:05.87 0
>>506
例えば、親鸞上人は二つの夢告が重要です。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
URLリンク(21dzk.l.u-tokyo.ac.jp)
江戸時代は、妙好人以外でも弾誓上人、称名念仏のみで自然智を得て浄土法界を体得した徳本行者、不断念仏を行い死後舎利を残した祐天上人など枚挙にいとまありません。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
また観音の霊験は白隠禅師が詳しく『延命十句経霊験記』に書き留めています。
白隠禅師は『十句観音経』の霊験を讃えた後に一転してそれらは「ただ世間的あり様、有為の夢幻・空華の談論」と述べています。
これを霊験譚を方便説と解釈する方がいますが、これは原始仏典で釈尊が始めに施・戒・生天、つまり輪廻と出離の功徳を説き、
後で無我・空の教えにより、それら因果も無我・空であると説かれたのと同じでしょう。
つまり「ただ世間的あり様、有為の夢幻・空華の談論」と観音の霊験談を述べます、それは確かに幻で空です。
ですが、それは我々が知覚する対象すべて幻で空なだけで、その場合、実在など何もないという意味です。
言い換えると観音の霊験と世間の現実、どちらも世俗では効果がありますが、勝義ではどちらも幻という意味に他なりません。
信じる信じないは別にして仏教はこういう意味では一貫してます。
511:考える名無しさん
14/05/08 21:11:44.23 0
>>510
>言い換えると観音の霊験と世間の現実、どちらも世俗では効果がありますが、勝義ではどちらも幻という意味に他なりません。
すごく良く分かりました。
詳しい説明ありがとう。
512:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/05/09 01:03:37.61 0
>>492 :考える名無しさん:2014/05/08(木)
>たとえ悪い自分が出てきても、それはダメだというんじゃなくて、それでもいいよと受け入れること。
それは酷いんじゃあないの?
人を殺して懺悔してる人に、「良いのいいの殺してもいいの」という訳?
513:じいさん ◆6rgGIYz09M
14/05/09 01:13:27.54 0
>>490 :481:2014/05/08(木)
>「色即是空空即是色」は、何かひどい目に合っても実態は変化していないから悲しむ事は無い
>>351 :じいさん ◆6rgGIYz09M :2014/04/11(金)
にも書いたが心経の趣旨は「色即是空」ではなく「五蘊皆空」なので、そこんとこ宜しく。
それにしても「実態は変化していない」とは酷い解釈、逆です。
実体はない、生もない、だから生まれても居ない、しからば酷い目に逢っても悲しむ自分も居ないだろう・・・・
と言った意味です。
514:横で亀ですが
14/05/09 04:10:12.18 0
>>465
>阿弥陀様が救いを確定して下さっている。
>だからいちいち何かを変えようとしなくていい。
>全てを阿弥陀様にお任せすればいい。
>そのまま、ありのままでいい。
>これが他力の信仰です。
これは親鸞上人の消息文に反してるので、(まともに聖教を読む限り)明確に否定されますね
「ふかくちかいをも信じ、阿弥陀仏をもこのみもうしなんどするひとは、もとこそ、こころのままにて、あしきことをもおもい、あしきことをもふるまいなんどせしかども、
いまは、さようのこころをすてんとおぼしめしあわせたまわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめ。」
URLリンク(www.icho.gr.jp)
煩悩そのままではない、悪しき行いを翻すのが親鸞説です
で、真偽問題をいう人が出てくると思うので言っておくと、
これは妙好人(赤尾の道宗)によっても支持される信心理解です。つまり証によっても確かめられているので、後代の改竄ではない
「冥の照覧と存候て、人しり候はすとも、あしきことおはひるかへす候へき事。」
URLリンク(www009.upp.so-net.ne.jp)
515:考える名無しさん
14/05/09 05:47:03.98 0
>>513
また、適当なことを
516:考える名無しさん
14/05/09 06:12:49.93 0
>>514
どうもありがとうございます。
ちなみにこのような近代教学と伝統教学は、今真宗内でどの程度普及信仰されてるのでしょうか?
517:考える名無しさん
14/05/09 06:38:10.18 0
>>516
すいません
ただの好事家なので真宗信者ではないし、現場の真宗事情はまったくの無知です
ただネットで門徒の方と話してみた限りでは聖教や伝統的理解に基づいてなにか語ってる人というのは皆無で
近代教学の独壇場といった感じですね
チベットと真宗を並行で学んでおられた女性が一人だけいて、彼女だけが例外です
518:考える名無しさん
14/05/09 07:04:09.65 0
>>517
ありがとうございます。
チベットの浄土教も一般には日本の浄土教と同じなんですが、
日本に紹介されているのはゲルクの特殊な浄土教否定説ばかりで困ったものです。
近代仏教は清沢満之や和辻の罪が大きいと思うのですが、以下の論考はもっと現場のあり方を扱っていて、とても新鮮でした。
URLリンク(repo.komazawa-u.ac.jp)
519:考える名無しさん
14/05/09 08:20:52.97 0
>>518
ゲルク派が浄土教否定というのは初めて聞きました。ダライラマ法王はそのような立場ではないと思うのですが
論文の池上氏は近代的な合理主義から抜け切れていないけれど、刺激的な知見が多いと感じました
熟読せねば
優れた論文のご紹介ありがとうございます
520:考える名無しさん
14/05/09 08:37:24.32 0
>>519
ダライ・ラマ猊下はもちろん違います。
ゲルクでも悪霊派というゲルク原理主義がありまして、
ゲルクの中でかなり有力な勢力です。
それが浄土教を否定しています。浄土教というかゲルク原理主義以外全て否定というのがその本質だと思います。
これは日本でいうと日蓮宗や真宗の排他性に近いと思います。
ダライ・ラマ猊下はそれを否定し排除に努めております。
そして悪霊派はダライ・ラマ猊下を否定しています。
521:考える名無しさん
14/05/09 13:13:16.67 0
>>512
悪い自分が出てきたとき、「それでもいいよ、と受け入れる」 ということは、
「悪いことをしてもいいよ」 という悪の肯定じゃなくて、「悪いことをしたのは仕方が無いんだ」 と受け止めること。
他力というのは、「悪業」と「念仏の心」を完全に切り離してる。
「ハスの花は泥に塗れず咲いている。」 という時、ハスの花の視点で「泥に塗れても花は一つも汚れない」 というんであって、
花もなく、ただ「泥そのままでいいんですよ」というのと訳が違う。
泥の無い花では、いつまで経っても救われない。
「悪いことは一切関係ない」っていうのは、業の世界の肯定じゃなくて、業の世界の否定なんだよ。
もしも「悪いことは悪い」と断罪するんなら、それは業を掴んでることになる。
まさに、泥の中で泥を洗うようなことになってしまう。
悪いことも良いことも、全て阿弥陀様にお任せという時は、分別思考(泥)を全て阿弥陀様にお任せして、
泥から離れるってこと。
泥の一部分を、良い悪いと、泥の中で分別するんじゃなくて、泥の中から出てしまう。 それが念仏の功徳なんだよ。
522:考える名無しさん
14/05/09 13:21:43.22 0
>>521
そういう境地はある任運とか、サハジャーとか無功用とかあるけど
ほんと空性体験に留まれるような高度な境地なんで、
いきなりそんなこと言っても、初心者は単なる現状肯定か、気休めしか思えないし
恐らく現代真宗教学者もアナタ自身も単なる言葉で観念的にしか理解してないとしか思えないんですね。
ほんとに慈悲に溢れた妙好人や七里老師にような方が言うなら、納得できるけど
523:考える名無しさん
14/05/09 13:25:48.25 0
補足すると、そういう境地の方は必ず菩提心を起こし、誓願を立て、普賢行の中で述べられます。
そうでなく智の側面だけで捉えるというのが現代教学や現代仏教学、野狐禅などの特徴ですね。
そうなるともはや、大乗仏教ではないと思います。
524:考える名無しさん
14/05/09 13:32:14.71 0
>>514
その文章は、深く信仰に入った人の境地を抜き出していますよね?
「仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには」「ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏をも好みまうしなんどするひとは」
これは深く信心が確定している人の境地です。
こうなると、業の世界から離れているので、それに捉われることも無くなってくる。
我が無くなって自然(阿弥陀、浄土)と調和してる状態なので、その行いは自然と調和する方向に向かっていく。
だから悪い行いは自然としなくなる。
浄土の行いが自然と出てくる。
問題は、あなたの挙げた文章の、その前の文章だよ。
深く信心が確定した人の態度じゃなくて、凡夫の態度だよ。
「はじめて仏のちかひをききはじむるひとびとの、わが身のわろくこころのわろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずるといふひとにこそ、煩悩具足したる身なれば、
わがこころの善悪をば沙汰せず、迎へたまふぞとは申し候へ」
>悪しき行いを翻すのが親鸞説です
悪しき行いを翻すってのは、ハスの花の立場だよ。
泥の中で、「あの泥はいい、この泥は悪い」 ってやるんじゃない。
深い信心の中から出てくる良い行いってのは、分別の世界を超えてるんだよ。
自然に出てくるもの。
自分が意図していい行いをしたり、悪い行いをしないようにするってことじゃない。
自然にそうするようになるってこと。
525:考える名無しさん
14/05/09 13:38:46.61 0
>>522
「で」あるからだよ、だからこそ、「他力」なんだよ。
だからこそ、「全てを阿弥陀に任せる」んだよ。
自分の力ではどうにもならない。 業の世界というのは自分の力に関係なく出てくる。
ある時は怒りが出てきて、ある時は人を傷つけてしまうかもしれない。
それはもう自分ではどうしようもない。
だからこその念仏であり、だからこその信心なんだよ。
ここに阿弥陀様がどんな人でも救ってくださるという意義が出てくる。
526:考える名無しさん
14/05/09 13:40:54.83 0
>>524
分かってないな
唯の観念論
現代教学を是として論じても間違いは分からないよ
もし、文献的にやるならインドからキッチリ追ってかないと無理
真宗学の「深心」とかで解釈しても仕方ない
それをやるなら十地・五道などをきっちり梵パ蔵漢に渡ってトレースしていかないと仏教としては語れない
少なくともここでは現代真宗学で語っても、ほとんどの人は納得しないぐらい気づいてくれよ
527:考える名無しさん
14/05/09 13:45:00.89 0
>>525
いやいや、細かい違いをすっ飛ばして適当に観念的に勝義の境地に持っててるのが、真宗現代教学でしょ
そもそも念仏などの浄土教は往生のための称名と信が重要で親鸞上人もそう。
現代教学はそういう部分を切り落として現代人に合わせて口当たりよく適当にいってるだけでしょう。
もっともそういう方便もありだろうけど、それを王道と説かれてはなあ
まあ、アナタに通じないことは良くわかった
528:考える名無しさん
14/05/09 14:02:36.23 0
もしも「怒りは悪い」、と決め付けてしまったら、怒りが抑えられない度に、「自分はダメだ~」と思うだろ。
そして、「こんな自分じゃダメだ」と、怒らないように怒らないようにと、自分の力で抑えようとする。
しかし、業ってものはそんなに甘いもんじゃない。
いくら抑えても抑えても、どんどん出てくる。
抑えきれるもんじゃない。
もしもそういうのを自分の努力でなんとかしないといけないって言うんなら、それは浄土門じゃない。
他力でもなんでもない。
親鸞がなぜ「悪いことをしてはならない」と言ったのか。
本来、この世の悪行というのは浄土(悟り)の世界を一切汚すことが出来ない。
業の世界というのは浄土(悟り)の世界に一切影響しない。
夢の中でいくら悪いことをしても、起きている人には一切影響しないのと同じ。
だからといって、いつまでも夢を楽しんでいいって話じゃない。
仏教本来の目的は、夢の中から脱すること。
夢の中が、苦そのものなんだよ。
苦の世界から脱するのが念仏の意義なのに、いつまでも苦の世界に捉われて、それを良しとする人がいる。
「あ~、自分はいつまでも夢の世界に捉われていてはいけないな、ここから抜け出たいな」 と思ってる人にこそ、
「夢の中の善悪に捉われるな。 すべてをお任せして、なるべく夢の世界から離れていきなさい」 っていうのがこの教えの重要なポイントなんだよ。
善悪は関係ないという言葉を聴いて、「夢の中でどんなに悪いことやったって関係ないんだ、夢の中でどんどん悪いことやろう」 って人が出てきた。
これじゃあ、夢の中にどんどん捉われていって、夢から抜け出せなくなるよね。
だから親鸞が「悪いことはいけない」と言う時は、「この世の善悪に捉われるな」と言ってるのと同じなんだよ。
悪いことを好んでするのも、悪いことへの捉われ。
悪いことを断罪するのも、悪いことへの捉われ。
どちらも否定しているのは、「捉われ(業の世界)」だよ
529:パンの耳
14/05/09 14:56:04.96 0
錨 の マーク見ながら
意味を wiki ってみれば 魚の皮かぶったおじさんの
天地創造と不動明王の意味が分かりますよ
クサリの比喩表現も でてくるし
ブルートと ポパイの法蓮草の缶詰と オリーブの 関係