14/01/20 14:07:32.28 0
>>242
我田引水もほどほどにしないと、そういうつまらない話になりますw
その「私は嘘つきです」という問題は、たんなる論理の問題ではなく、自己が自己を扱う時に生じる問題だから、
いわゆる〈私〉の問題であり、仏教の「我執」の問題にもつながる話でしょう。
自己が自己を問題にする時には、自己は〈見る自己〉と〈見られた自己〉に分裂しており、
つまり、自己自身が〈主〉と〈客〉とに分裂している。
(そのように分裂した人間存在をサルトルは「対自存在」と呼ぶ)
そしてその〈見る自己〉と〈見られた自己〉とは決して一致せず、そこには必ずズレが生じます。
なぜなら〈見る自己〉そのものは常に見る側にあるのであって、決して見られる側には回れないから。
(別の言い方をすれば、「私は○○です」と言って、自己を「○○」として〈本質規定している〉のが〈私〉なのだから、
それは、「○○」として〈本質規定された〉ものと同一のものではあり得ないから。)
だから、「私は○○です」と言っている〈私〉は常に「○○」とはズレている。
西洋哲学では特にこの「見る自己は見られない」という点に焦点があてられ、それが〈実存〉の思想につながる。
〈実存〉は、決して見られる側には回らないものだから、客観として扱うことのできないものであり、
言表不可能な性質を含んでいます。
それに対して、仏教では、この〈見るもの〉と〈見られるもの〉は、「能取」「所取」と表現され、それが
「執着するもの」と「執着されるもの」である点に特に焦点があてられていると思われる。
つまり、凡夫の認識の世界が、我執にもとづいている点に焦点があてられる。