13/04/10 08:08:37.38 0
バカなことを、少しばかり書いてみます。
内科医(唯物論者?)の「矛盾論」です。論になりますか、心もとないですが。
554:S・イマムラ
13/04/10 08:18:32.66 0
般若心経では、「色」と「空」との言葉を使います。唯物論者では、そもそもの
出発点から問題ですが。一応次の様に、考えました。
「色」---現象 存在 有 あるもの
「空」---非現象 非存在 無 ないもの
以上の、まず「空」に異論が出ると、思われます。総ての哲学者、仏教者にとり
ポイントですから。乱暴ですが、ここは唯物論。お許しあれ。
555:S・イマムラ
13/04/10 08:28:32.74 0
般若心経では
色即是空 空即是色
これは、われわれ素人には
色 = 空
としか、考えられません。「矛盾」そのものです。しかし、どうしても
素人には あるものはある ないものはない A
としか考えられません。だが、仏教学者は
あるものは 無い B
といいます。
556:S・イマムラ
13/04/10 08:41:05.93 0
仏教学者によれば
日常に溺れ、悟りきれない凡俗には、A の認識しか出来ずこれを「世俗諦」
と言う。これに対して
総てを悟る達人には、 B の認識が出来、宇宙の真実にいたる。「勝義諦」
と言う。凡俗には、到達できない世界です。
557:S・イマムラ
13/04/10 08:53:05.95 0
西田哲学では、宇宙の真実在は
絶対矛盾的自己同一
と言う。絶対に「相容れないものーーー例えば、有と無」が矛盾であるが
「互いに、相容れて」自己同一、つまり、「一体」になる? と言う。
これは、仏教学者とは異なる立場である。つまり、
有無合一体(有=無)
である。しかし、西田哲学は難解、神秘的であると言われる。
558:S・イマムラ
13/04/10 09:07:14.03 0
C点論では、内科医(自然科学)ですので、次の様に考えます。
「C点」は、有無合一体である。だが、我々の「感覚器官」では、「無は認識されない」 よって
「有無合一体」 → 「有」のみ
と認識され、我々の日常にトラブルを生じない。これが
色即是空 空即是色
の正しい理解との立場が、「C点論」である。唯物的ですが ?
559:S・イマムラ
13/04/10 09:10:13.61 0
反論が目に見えるようです
「空」とはそんなものではない
560:考える名無しさん
13/04/10 14:13:35.68 0
西田幾多郎は、「自己を越えるもの」について、「我々の自己の自覚の奥底には、
どこまでも自己を越えたものがある。我々の自己が自覚的に深くなればなるほど
その様な指向性を現出する。内在即超越(作られたもの)と超越即内在的(作るもの)に、
即ち「絶対矛盾的自己同一的」に、我々の真の自己はそこから働くのである。そこには、直観
と言うものがなければならない。」と述べている。
西田幾多郎は、「無限球」の解釈について「直観で無我(客観的領野)を悟った時、不思議に、世界が
自己となる。いつでも、どこにいても、自分が中心という感覚が生じる。」と述べている。
この「無限球」の概念が、上記の「絶対矛盾自己同一」と同義であると思う。
西田自身も「内在(自己)即超越」と、「超越(客観)即内在的(自己)」が自己内部の現象化により
体験的感覚として認識(=経験)されると述べている。
この体験的感覚を私見として述べると、内在的即超越(客観的領野)と超越即内在的(主観的領野)の、
現象化は「自己内部」に限定されるものではなく、主観と客観の存在が、「一つのもの(空)」の二つの属性(
主観と客観)の「両義性」として現出するものと思う。
この主観(自我)と客観(無我)の両義性が、「華厳経」の「一即多」として「多即一」の本質と解釈している。
561:S・イマムラ
13/04/10 15:22:00.19 0
↑ 560さんへ
懇切丁寧なご指導を、有難う存じます。「華厳経」への解説、嬉しく拝読致しました。
562:考える名無しさん
13/04/10 18:41:47.33 0
カント「恐れず認識せよ」
563:S・イマムラ
13/04/11 08:21:47.15 0
「華厳経」まで、話が進んできましたが、これに「法華経」が加わると、「顕教」の
世界に近ずき、いよいよ哲学から離れて、しまいます。
私は唯物論者(内科医)ですが、「顕教」の世界を論理(科学、哲学)で考えることは
不可能と考えています。「C点論」は、「矛盾・無限の視座」に立つ宗教と、自分では
考えています。
564:S・イマムラ
13/04/11 08:35:53.54 0
「華厳経」の 一即一切 一切即一 一即多 多足一
「般若経」の 色即是空 空即是色
これらを、論理で説明するこは不可能と考えています。「C点論」では、唯物論的
ではありますが、「C点」(妄想のような存在?ーーーゼロの概念に殆んど近似?)
なるもので説明を試みています。バカより狂気? でしょう。
565:S・イマムラ
13/04/11 08:53:42.45 0
「C点」と「華厳経」の関係については、ホームページ
「C点論と仏教論」 「C点による仏教的宇宙論」 まとめに
C点論を巡って」
を検索のうえ、参考にして下さい。哲学とは、離れる事をお許し下さい。
宗教ーーー信ずるか 否かーーーですが?
566:考える名無しさん
13/04/11 08:59:17.04 P
>>1
おまえ、中村元も知らないの?
567:S・イマムラ
13/04/11 09:06:05.79 0
余談ですが、内科医の私は生物学的にも、「密教」の経典
「大日経」 「金剛頂経」 「理趣経」
などに興味があります。「真髄?」は、理解できませんが。蛇足でした。
568:S・イマムラ
13/04/11 09:15:56.76 0
哲学なんてバカのやるもの
「C点論」は、なんのメリットも無い
569:考える名無しさん
13/04/11 22:35:20.73 0
>>564
「C点」は「有と無」とを同時同位置にもつ存在と述べていますが、
西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一(無限球)」と、どの様に連関しているのでしょうか。
570:非因果的ブラックボックス ◆nyDbrW8/YE
13/04/12 01:06:24.10 0
高卒の糖質ニートは位相すら知らねーのか
ゴミやな
571:S・イマムラ
13/04/12 08:24:54.47 0
↑ 569さんへ 唯物論者の宗教論(仏教?)が、「C点論」です。西田哲学より
以前に、「C点」について述べます。勿論、暴論をお許し下さい。
「C点」とは、時間的には「現在という瞬間0秒」の存在で、実在しません。
反論も認めますが、ホームページ「C点論を巡って」を参考にして下さい。
空間的には、「空間における純粋な点であり、体積を持たない」
「無限に小さい有である。同時に同位置で、矛盾するが、無でもある」
「無」は、無限に小さくもアリ、同時に同位置で、無限に大きくもアル」
この有無合一体が「C点」である
「C点」の時空論的オリエンテーションは、上記のようなものです。
572:S・イマムラ
13/04/12 09:16:27.29 0
さて、西田哲学の絶対矛盾的自己同一(無限球)については、唯物論者の
私には、難解過ぎます。先に、懇切丁寧なご指導があり、「華厳経」まで論が
進みましたが、私には、了解不十分な点があります。
また、西田先生ご本人の論文も、難解過ぎます。
まず、西田哲学の 絶対矛盾とは?
「なにとなに?」つまり「なにが甲で、何が乙か」
の二者が、「どのような二者」が、絶対の矛盾なのか?
甲とは? 乙とは?
甲も概念? 乙も概念? のようですが、唯物論者には、正直なところは
難解過ぎます。それ故、「無限球」なる概念のイメージが掴めません。
誰か、素人(唯物論)にも了解出来るようご指導願います。
573:S・イマムラ
13/04/12 09:38:40.50 0
絶対矛盾とは
絶対に「相容れない二者」無しでは、考えられません。
この西田哲学の出発点であるべき「二者」が、難解です。
唯物論は、幼稚です。「C点」は有無合一体ですが、次の様に考えます。
「無」は無限に「小さく」もあり、無限に「大きく」もあります。また、
「小さい無」が、無限に「多い無」でもあります。つまり
一即一切 一切即一 一即多 多即一
唯物論的な「華厳経」の解釈? です。勿論、暴論で多くの反論を認めます。
574:S・イマムラ
13/04/12 09:51:26.84 0
↑ 569さんへ
絶対矛盾的自己同一(無限球)と有無合一体(c点)とは、表現の違い?
と言ったら、我田引水と思われますが、どうでしょうか?
575:S・イマムラ
13/04/12 10:05:01.57 0
蛇足ですが
C点は、「ゼロの概念」≒「C点」といえます。
C点は「基準0」で「単位 1」があれば、2進法の数学となり
「+ -」とコンピューターにも、
しかし
「華厳経」的発展は、「ゼロ」と同一では、ありません。
この点も、西田哲学とは異なる様に感じます。
576:S・イマムラ
13/04/12 10:13:48.11 0
哲学なんてバカのやるもの
「C点論」は、哲学以前で論理もない「宗教」でしかありません。
気持ちだけは、唯物論? ですが。宗教学者からは、叱られるでしょう。
577:考える名無しさん
13/04/12 11:06:43.90 0
>>571
>C点とは「空間には無限に小さな有であり、同時に同位置で、矛盾するが
無でもある」。「無」は無限に小さな有であり、同時に同位置で、無限に大きく
もある」この有と無の合一体が「C点」である。
>ライプニッツはモナドリジ-(単子論)で、「モナドとは、自然に於ける真のアトム(これ
以上に分割し得ない事物を構成する最小存在)であり、これが宇宙に於ける真の存在者であるとする。
従って、モナドは物理的な最小実体ではあるが、同時にモナドは表象(知覚に基づいて意識に現れる
外的対象の像)を有している。 それ故に、モナドは自発的に世界全体を自己の内部に映し出し、世界全体を
世界全体を認識するとともに、その内部に多様性と変化とを認めることが可能となる」と織部手居る。
「無限球」の概念が、この「モナド」の概念に通底するところがある。 又、上記の「C点論}も無限に小さな
「有」であり、同時に無限に大きくもある、と言う論理とも、共鳴するところがあります。
578:考える名無しさん
13/04/12 11:36:53.32 0
↑ 577さんへ
ライプニッツのモナドリジー(単子論)のご指導、有難う存じます。「無限球」に
ついても、新しく勉強して見ようと思います。独学で、診療の合間ですので、この
ようなアドバイスは、非常に嬉しく存じます。
579:S・イマムラ
13/04/12 11:43:29.90 0
↑ 訂正
考える名無しさん→S・イマムラ
580:考える名無しさん
13/04/12 13:06:44.04 0
>>577
訂正 モナドリジ-→モナドロジ-(単子論)
581:非因果的ブラックボックス ◆nyDbrW8/YE
13/04/12 21:49:03.99 0
>>576
ただの数学でいう位相
無学だから知らないで死んで行くWWWWWW
理系の大学生なら全員知ってるのになぁ
582:考える名無しさん
13/04/15 13:53:32.05 0
>>575
C点は、「ゼロの概念}≒「C点」と言えます。
>C点は、「±0」と言う解釈なのか、又は「0」に限りなく近いと、解釈するのか、
どちらの概念で捉えるのでしょうか。又、この数字は、時間の流れとして捉えているのでしょうか。
583:S・イマムラ
13/04/15 15:28:48.23 0
↑ 「C点」=「ゼロ」+「華厳経的拡大解釈」
つまり 一即多 多即一 を含めます
584:S・イマムラ
13/04/15 15:31:20.09 0
なを、ホームページ
「C点論を巡って」
検索して、参考にして下さい
585:考える名無しさん
13/04/17 23:59:04.29 0
URLリンク(www.youtube.com)
586:考える名無しさん
13/04/19 21:04:41.11 0
スレリンク(math板)
587:考える名無しさん
13/04/22 11:35:26.12 P
哲学なんてバカのやるもの
1)哲学は言語使用が数学ほど論理性が厳密でなくよって真理を語ってこなかった
2)哲学は生きてゆく上で実用性がない(教員等になる以外)
英米分析哲学の系譜は日常言語学派に至って自らを否定し伝統的哲学に近親性を示し始めている
人はパンのみにて生きるにあらず 自分が死ぬことへの思い及び愛する者の死は生きるための実用性を無に帰せしめる
哲学と宗教は死生を含んだ全人的見地に立った時、実用性がある
科学技術とはトートロジーをその本質とする悟性の産物、ゆえに限界がある
哲学は悟性を包み込んだ理性の自己認識である