12/07/30 15:35:57.95 0
インド哲学では、古くからアートマンの存在が語られていました。
仏教は、一般的に無我を説きますが、これはバラモン教の流れの中で生まれたものであります。
他方、ゴータマ・ブッダは、「それら(五蘊)はアートマンではない」(非我)としか説いていない、
とも云われており、 中には、「仏陀はアートマンを説いていた」という意見もあります。
また、アートマンにかぎらず、デカルトの「我」、如来像、個我、阿頼耶識、現存在、肉体、精神、
魂と、「私」の存在は、古代から現在まで多くの人々の関心を集めてきました。
私とは、誰なのでしょうか?
2:考える名無しさん
12/07/30 15:47:25.47 0
無霊魂論としての仏教
URLリンク(www.nagoya30.net)
3:考える名無しさん
12/07/30 15:53:49.11 0
現象・縁起・五蘊/実在・我・アートマンは、仏教では、あり得ないから、そんなもの実在しない
URLリンク(www28.atwiki.jp)
4:考える名無しさん
12/07/30 16:39:27.23 0
デカルトの我って心身二元論だろ
その上で、「コギト・エルゴ・スム」
とか言ってるなら、間違ってるよね彼
5:考える名無しさん
12/07/30 17:05:07.28 0
ゴータマ・ブッダの教え
【中道】出家者の行き方
相互に対立し矛盾する2つの極端な概念に偏らない実践(仏道修行)や認識のあり方
【縁起】世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方
因縁生起の略。
【四苦八苦】愛別離苦 怨憎会苦 求不得苦 五蘊盛苦
【四諦】苦諦 集諦 滅諦 道諦
【八正道】正見 正思 正語 正業 正命 正精進 正念 正定
6:考える名無しさん
12/07/30 17:23:27.60 0
目の前にPCがあるとして
それは何かの上に立っている
ぶっちゃけ地面の上にあるもの
その地面が梵
また地面に置いてあるものも梵
つまり目の前のPCは梵なのだ
そしてそれを知覚できる梵が我である
生命と無機物という分け方ではない
梵と我という分け方
故に他人も梵である
他人も自分と同じように我を持ちえるか?
とか、我を持っているとか考えるのは無意味
>>1
>私とは、誰なのでしょうか?
梵である
7:考える名無しさん
12/07/30 17:33:49.79 0
ゴータマ・ブッダの教え
人間は、死後も存在するという考えがあろうと、
人間は、死後存在しないという考えがあろうと、
まさに、生老病死であり、悲嘆苦憂はある。
現実に それらを征服することを
私は、教えるのである。
「毒矢のたとえ」中公バックス
つまり、ここで語られているのが、仏の死後であろうと
凡夫の死後であろうと、「今ここ」での苦しみを制服する
為の教えをゴータマ・ブッダは、説いていると読んでいいだろう。
とするのなら、
初期の仏教では決して「アートマン(我)が存在しない」とは説いていない。
・・・アートマンが存在するかしないかという形而上学な問題に関しては釈尊は返答を与えなかったといわれている。
(中村元、『仏教語辞典』「無我」、1316頁)
のような、ゴータマ・ブッダの我にたいする無記は、苦しみを克服する上で
無意味であるとしたと理解できる。つまり、ゴータマ・ブッダの教えが
直接アートマンの否定には、繋がらないと言うことを示している。
8:考える名無しさん
12/07/30 18:52:23.31 0
ブッダの教えって正しいの?(何かに対して)優れてるの?
9:考える名無しさん
12/07/30 19:17:15.13 0
層化に入信すると習わされるよ
今のインドでは流行ってないけど
10:考える名無しさん
12/07/31 13:25:41.80 0
>>6
ということは、肉体が滅んで知覚できなくなったら我は、存在しなくなるって事?
11:考える名無しさん
12/07/31 21:36:07.86 0
>>10
そうだよ