12/07/20 12:40:14.19 0
もし貴方が女嫌いだとしたらどんなネタでオナニーするのだろうか?
詰まり、女が嫌いって思い込んで理性でオナニーを制御してもお前の体は正直であり、結局、夢精と言う
オナニーをするのである。
そもそもオナニーとは、キリスト教主義的なありかたの我が国への流入は、自慰行為の健康性の阻害を
起こした。詰まり、自慰行為に対する背徳心の発生である。
江戸時代においては、普通であったその考えが逆転し非道徳的であるとみなされた。
恥ずかしいと言う感情は、自分の中での認識であり理性の制御である。理性のリミットを
外すことで快楽を得る事ができ、私達は快楽を得るために生きているのである。
「全ての、行動力の源泉は快楽への揺るぎない好奇心である。」
詰まり、誰も見ていない状況で恥ずかしなどありえないのである。
例えば、快楽に対する運動として、人間の脳で理解できる事には限界があると言ったのはカントである。
詰まり、仏教で言うような形而上学的解釈は不可能であるとすると、人間の欲を捨てようとする
試みは単に私達がその欲求に押し殺されないようにするだけの方法である。
女が欲しい時に、リア充を見て発狂しない為にはその欲を捨て去る事なのである。
しかし、その欲をすてると肉体的な快楽を得られないのである。
では、肉体的な快楽を持続的に得ている存在=リア充にたいして、その肉体的な快楽を得ることが
出来ない場合にどうするのか?
その場合、肉体的な快楽をすてる事で欲をすてさそうとする。
肉体的な快楽を捨て去ると言う行為は、私達が痛みなどの神経系により受ける刺激を
痛みのみの刺激だけ受ける事を意味している。
つまり、人間と言う肉体であってそれからは逃れられないのである。
リア充からの永久的な回避は不可能である。。
セクサロイドの発想はいいのだが、現代社会では、高度な人形でオナニーする事はできるが、精神的な満足感は得られないのである。
結局、セックスと言う行為は人間の精神的な優越感と自信の回復と言う効果があり
真に、ニーチェの言うような超人になることである。詰まり、男と女を弁証法的に止揚した形態なのである。