カントの「物自体」と仏教の「諸法無我」は同じat PHILO
カントの「物自体」と仏教の「諸法無我」は同じ - 暇つぶし2ch674:考える名無しさん
12/06/29 12:49:19.35 0
「俺の仏教解釈が唯一正しい」と思ってるレス魔がいるな。
あたかも釈迦掌上の損の行者に見える。
「学者」コンプレックスが強いようだが恥ずかしいから学者云々いうのやめな。
哲学的とはとても思えない宣言的な体質の方は宗教すれたてなさい。
ま、このスレ自体が「なにかんがえてんだか」とは思うが。
存在論の基底が正反対ともいえる枠を持っているのに、同じってのは「かく視点から見る限りにおいて同型を見てとれる」程度の話だ。
2つの基底的な存在の性格についての想定は記述済みなので省略。




675:考える名無しさん
12/06/29 12:54:02.98 0
>>674
偉そうだな。


676:考える名無しさん
12/06/29 12:59:46.57 0
存在論の基底は同じだろう
そもそも何かが本当に正しいとすれば日本でだけ正しくてドイツでは正しくないなんてことはおこらないだろ

677:考える名無しさん
12/06/29 13:13:10.32 0
>>676
>存在論の基底は同じだろう

これは空性ってことかな?

だとするなら、ほとんどの西洋思想は間違ってたってことになるよね?

678:考える名無しさん
12/06/29 13:15:06.85 0
日本では中国が間に入ってるから見えにくいけれどインド人は印欧語族で非常にヨーロッパ的だな
言葉がインドから広まるにともなってインド思想がヨーロッパのベースになっていったのは容易に想像できる

679:考える名無しさん
12/06/29 13:22:28.64 0
>>677>>677
あなたの言ってる縁起・空性・仮設(仮説のことかな?)って、もしかして初期の釈尊の教えより中観派の龍樹のこと意識してる?
もしそうだったら、根本的に相容れないわ。

680:679
12/06/29 13:23:16.21 0
>>673>>677

681:考える名無しさん
12/06/29 13:25:36.80 0
>>678

>日本では中国が間に入ってるから見えにくいけれどインド人は印欧語族で非常にヨーロッパ的だな

こうだろ、

サンスクリット・プラークリットは印欧語族で言語的にヨーロッパに近いな
しかし、考え方はユダヤ・ギリシャを起源とするヨーロッパとは隔たりがあるな

>言葉がインドから広まるにともなってインド思想がヨーロッパのベースになっていったのは容易に想像できる

どうみてもベースにはなってないな。影響は大きかったかもしれないが。
有名なところでは、ウパニシャッド、仏教、サンスクリットでしょ。
ウパニシャッドはショウペンハウエル、ニーチェに、サンスクリットはソシュールに大きな影響を与えた。

そしてほとんどの西洋人の学者は否定するが、ピュロンは仏教の影響らしい。
そのピュロンがセクストスを通して、デカルト、ヒューム、カントなど西洋近代思想に影響を与えたのはよく知られている。

682:考える名無しさん
12/06/29 13:28:29.89 0
>>679
龍樹菩薩の説は、釈尊の教えそのものだから。オイラは自分でアーガマ・ニカーヤから確認したよ。
もっとも多くの文献学者は別と考えるが、それは単に読みが甘いだけ。

アナタは自分で確認してるの? それとも文献学者の説を信じているの?


683:考える名無しさん
12/06/29 13:29:34.93 0
>>681
まあ言葉足らずだったが東洋的な思想は西洋のメジャーからは異端視され隠されてきるが
ときに哲学者や宗教家によって発掘される地下を流れていた東洋的な思想が西洋思想を刺激してきたんだろう

684:考える名無しさん
12/06/29 13:35:06.20 0
ま、例としてはヘーゲルの弁証法に一定の影響をあたえたらしい太極思想、実存に結構影響をあたえた様子のある禅。
近代だとそのあたりか。



685:考える名無しさん
12/06/29 13:36:56.00 0
>>682
「 龍樹菩薩の説は、釈尊の教えそのもの」
こういうことを本気でいってるから宗教スレいけといってる。
信じたものが真実



686:考える名無しさん
12/06/29 13:39:43.31 0
>>676
おいおい、どう同じなんだ?
アトミズム基幹とトータリテート基幹は水と油だぞ



687:考える名無しさん
12/06/29 13:40:42.90 0
仏教がブッダに発してる以上仏典とくに初期仏典には立ち返るべきだな
もっともここにいるやつは少なくとも哲学も追ってるわけだから専門家のようには読めない

688:考える名無しさん
12/06/29 13:46:25.49 0
翻訳書しか読めなくても哲学ができないわけではないだろ
専門家はサンスクリット語やパーリ語ができないと話にならないだろうがそれができない俺らはまず翻訳から入るしかない

689:考える名無しさん
12/06/29 13:51:33.11 0
>>682
龍樹菩薩の説が、釈尊の教えの発展系であるというならわかるが、
「龍樹菩薩の説は、釈尊の教えそのものだ」というのは・・・まあ、
自分で原典を確かめたわけではないので、仮に認めるとして、
釈尊の十二縁起の線形因果と龍樹菩薩の縁起・空性の同時因果関係は、明らかに違うものだろう。
また、十二縁起を仮説だとするとしても、龍樹菩薩は、説一切有部との論争で、
過剰防衛ならぬ過剰反駁、拡大解釈をしているとしか読まない(あってる間違ってる関係なく)。

690:考える名無しさん
12/06/29 14:01:11.54 0
翻訳をもとに語る場合は署名性が大切
訳者やそのIDを晒していないものは学問的に俎上にあげることはできない

691:考える名無しさん
12/06/29 14:15:28.76 O
サンスクリットなんて集中して3年やれば結構できるようになるんだから、インド思想好きならやって欲しいね
たいして難しくないよw

692:考える名無しさん
12/06/29 14:17:52.28 0
>>691
何も知らない状態からサンスクリット語を独学で勉強しようと思ったら まず何からやればいい?

693:考える名無しさん
12/06/29 14:27:02.68 O
一般的にはゴンダって人の文法書から入って次に辻直四郎の岩波の文法書を学ぶのが日本に於けるオーソドックスコースだね。

ゴンダの文法書は2000円ぐらい、辻さんのも2800円、あとはモリエルの辞書を買っておけば、いいんじゃないかな。


まんどぅーかってタクシー運転手のおじさんのサイトが猛烈に充実してるから、とりあえずそれ見て参考書や辞書の一覧を参考に自分で作戦考えてくれ。

694:考える名無しさん
12/06/29 14:40:21.26 0
たしかに印度哲学科のオーソドックスコースだが、独学向きではないだろう。
というか、こういうマイナー言語は、独学に向かない。

695:考える名無しさん
12/06/29 14:50:59.82 O
たいして頭良くない俺でさえいきなり辻文法から入門しても問題なく独学でできたよ。

だいたい哲学板に出入りしてる奴なら何も困難はないと思うが、
サンスクリットは論理的に整然と整理されてるからとっかかりは難しい感じがしてもやってみると以外と簡単だよ。

般若心経なんて日本語訳・漢訳・英訳・サンスクリット読み比べしてもサンスクリットが一番すっきり理解できるぐらい明晰だよ。

696:考える名無しさん
12/06/29 16:42:16.13 0
>>685
信じる信じないじゃなくて、テキスト的に確認できるんだは。


>>687
つまり、アーガマ・ニカーヤなわけだ。それを梵パ蔵漢で確認したよ。

>>689
違うな。その読みは学者の浅薄な読みだ。
龍樹菩薩は、有部と論争なんぞしてないぞ。論
争と読むのは近代学者および、部派やゲルクなどの誤読だよ。

有部の戯論を寂滅へ導く教えは説いたが、しかも有部だけではない。
外道や他の部派も含む。

>>695
そりゃ、頭いいか、ギリシャ、ラテン、独仏の文法を知ってるからでしょ。

>>693
このコースはギリシャ、ラテン、独仏の文法知識を前提としてるので、
それがないと無理。マンドゥーカから入るといいよ。
辻文法が頭に入ってれば、梵和で一応読める。
モニエル、アプテは買わなくても、ネットで十分です。


697:考える名無しさん
12/06/29 16:58:45.27 0
>>696
じゃあ
>>龍樹菩薩の説は、釈尊の教えそのものだから
と言っている通り、何処がどう同じなのかという事とその阿含経の文は書かなくてもいいから引用箇所を教えてくれ
ついでに689で言ってるが二人の縁起についてもお願い。

698:考える名無しさん
12/06/29 18:29:38.08 0
カントの物自体と諸法無我はむしろ逆のことを言っているんでないの?
A君という人物を例にとると、カントによれば
A君=(現象界に属する手足などの肉体)+(A君それ自体)
のように、五蘊+アートマンのような構造をとってるってことだよね?
手足や頭や心臓を剥ぎ取っていくと、常住不変のA君それ自体が残るようなイメージ。
(A君それ自体を認めないと、人間を代替可能な道具とみなすことになり、倫理が無くなる、と)

一方で仏教は、「それ自体」とかアートマン的な常住で、構成要素を司る根本のようなものを
前提として認めない世界観を持ってるんだと思ってた
構成要素である五蘊を取り除くと、そこには何も残らないっていう

詳しい人、間違ってるところ、読むべきレスの番号を教えてください

699:考える名無しさん
12/06/29 18:42:24.13 0
問題設定がおかしくて物自体に相当するのはダルマだろう
これはダルマで検索してくれ

700:考える名無しさん
12/06/29 18:49:47.37 0
物自体は、ダルマじゃないぞ
ってこのナガレ何回目だ

701:考える名無しさん
12/06/29 19:02:15.58 0
>>699
「五蘊とは、部派仏教における一切法の分類である三科(五蘊・十二処・十八界)の中の第一」
ってwikiにあるように、ダルマって五蘊、つまり現象界に属するもの(≠物自体)なんじゃないの?
先の例で言えば、手足や心臓は色蘊にあたるんだと思う

702:考える名無しさん
12/06/29 19:08:29.31 0
>>696
お気楽でけっこうなこと。

そういう人たちが
「俺様の解釈こそ正しい」という。
しかし彼らでも
「テキスト通り」とまで破廉恥なことはあまり言わない。


703:考える名無しさん
12/06/29 19:30:17.09 0
>>698
カントが
>>五蘊+アートマンのような構造をとってる
仏教が
>>構成要素を司る根本のようなものを前提として認めない世界観を持ってる
というような、論点から逆であるしているのは、だいたいあっている。
がカント仏教ともに根本的なところで間違って理解しているように読める。
特に、カントの物自体は、物質的な云々より認識のレベルの問題。


704:考える名無しさん
12/06/29 19:32:08.18 P
      分析
       |
    量  |  質
  (物自体)|
規定_____|_____反省
    関係 | 様相
       |(諸法無我)
       |
      総合

カント体系にとって物自体は量に、諸法無我は様相に相当する。
参考 >>221
カントの「物自体」を「物自体は認識できない」という意味でとらえる時、
諸法無我を浮き彫りにする、ということは言える。

705:考える名無しさん
12/06/29 19:35:25.90 0
まったくわかりまてん

706:考える名無しさん
12/06/29 20:09:47.88 0
>>698
物自体はA君自体という意味ではまったくない。
それではあたかもイデア論的発想の枠組みで物自体を捉えるがごとし。
(代表的な誤認の一例)

物自体は(カント的な)理性的認識の彼岸として要請された概念。
その意味にはA君自体に含意されている 常住不変であるとか本質であるとかの意味はない。

(理性的な)認識は或る定在として抽象化されて存立せざるをえないが、
「そのように認識可能なそれ」たる「もの」を思うとき、それについてなにも(理性的に)認識する事はできず、
しかし、そのように認識可能な何かが構成上要請され、 常住不変かどうかもわからない「なにか」を物自体と称したものだ。
ただし、「構成的に要請される」の意味合いと、その主張には多様な異論がある。

諸法無我と因縁生起(輪廻概念の基礎)と合いまったイメージとしてシーツの例がある。
四隅が止めてシーツをピンと張る。
一ヶ所をつまむと山ができる。
その周辺をもう片方の手でつまむと、また山ができるが、それに影響されてもとの山が変形する。
そして、それぞれの山は山として独立した存在なのか?というとたかだかシーツのあり方でしかない。
手を離せば山は「消える」。
この例では、変容し生成消滅させる「力」がたかだか、自分の手でしかないが、空間内ないおけるそれ自体は空間ではない(空間から独立した)ある(要素的な)実体(またはその集まり)が個別としてあるたる典型的にヨーロッパで優勢だった思想との差がわかるだろう。
また、この点をみて現代宇宙論に似ているとかいう人もいるわけだ。
因縁うんぬんは
「そがかくあるゆえ、こはかくあり。そかくなければ、こかくなし」を基礎とするわけだが、そこでいう「そ」「こ」はいわく、独立的個別の意味としてのべられ切るわけではないのは当然だ。



707:考える名無しさん
12/06/29 20:10:16.16 0
>>698
追記

西洋におけるアトミズム的な存在論のイメージは
空間にそれ自体空間ではないある実体を想定することがメジャーだった。
イメージとしては碁石意がいいいかな。
碁石はそれぞれが他から独立したものであって、その上で他の石との間畏敬が生まれる。個人主義思想とあいまつものだ。
碁をするとき、あるいはじゃらじゃらしてぶりまけるとき、個自体はそれ自体の本質を失わず他との関係性がかわるだけだ。

ただし、西洋といっても多様であり、あくまで代表的なイメージであるに過ぎない。ヘーゲルにしても
ビットゲンにしても上の個別関係論には組みしない。


708:考える名無しさん
12/06/29 20:10:30.78 0
>>703
kwskつっついてください。
カントの物自体は、物質的というイメージとは逆で、凄く形而上学的なイメージなんだけど。
物質的なのは、目の前に写る、認識される、現象としての机。

>>704
あ~…わかったかも。
釈尊の「五蘊はどれもアートマンじゃないですよね」という発言を、
「あれ、アートマン見つかりませんね」という風に解釈すれば、
カントの「物自体ってあるかもしれないけど認識できないね」
と同じように見えるわ。

709:考える名無しさん
12/06/29 20:12:46.22 0
>>697
あいよ。ほんの一例だが。

『中論』13-1, 2の根拠が『分別六界経』大正1、692a; MN III., dhātuvibhaṅgasutta, CSCD, 4.366.; P: PTS p.245
それを裏付けるのが、『無畏』D58a『青目釈』大正30、17a『仏護註』D217b『般若灯』』大正30、90a; D 147b
『明句』Poussin 237, Vaidya 117; D80b

『中論』15-7の根拠が『カーティヤーヤナへの教戒』Tripāṭhī, Fünfundzwanzig Sūtras des Nidānasaṃyukta, Berlin 1962, Sūtra 19; 大正2、85c; SN, CSCD, II.1.2.V.15; PTS v.2, p.14
『カーティヤーヤナへの教戒』を受けているのは『中論』15-7の本文に明らか。且つこの経典が中論という題名の根拠に他ならず、また典拠を明示する唯一の経典である。

『中論』 24-18の根拠が『勝義空性経』大正2、92c; 大正15、807a; 梵蔵は諸論書の引用から再構成されるが省略。
『中論』 24-18の『青目釈』大正正30、33bは以下のように読める。

 [a]縁起するもの。それは空性と私たちは言う。なぜなら、諸縁を満たして結合して物が生じる。
この物は縁起するから本質はない。本質がないから空です。[その]空もまた空です。
 [b]ただ有情を導くために仮設によって説く。
 [c]有無の二辺を離れるから中道と名づける。
 この法は実体がないから有と言えない。虚無でもないから無といえない。もし、法に実体があれ
ば、諸縁によらずに有るが、諸縁によらずに法は無い。それゆえ、空でない法はあることがない。

これがそれぞれ上に対応する。

 [a]縁起は空性。諸行が虚妄と述べる『分別六界経』などに基づく教え
 [b]縁起は仮設。『勝義空性経』などに基づく教えで、此縁性によって世俗の習わし通り記号付けられて、表示されるという意味
 [c]縁起は中道。 これは『カーティヤーヤナへの教戒』に基づく教えで、有無などが世俗の習わしを般若で見て、表示された対象を有とも無とも掴み取らないという意味

ホントはもっと緻密に対応し、八不も『梵網経』の六十二見に対応するなど、いろいろあるが、一々論証してたら、スレがうまっちまうので、これで止めとく。しかし、これが要点だよ。

710:考える名無しさん
12/06/29 20:21:02.25 0
>>701
ダルマには複数形単数系があり、そのように現象をしているようにみえるのが男性複数形のダルマ。
「諸法無我」の状態がこれで、その原理はまさに無我であり空。これが一方の極。
同じダルマの他方の極あるいは基層として女性単数系のダルマがあり、これがいわば物自体的なものだといえる。
このダルマの仕組みについては中村元の弟子の津田真一が示唆的な研究をしている。

唯名論のオッカムには実在論のスコトゥスの弟子としての側面があり(その意味でもプラトンとアリストテレスだが)、
「個」の重視もスコトゥスから受け継いでいる。じゃあ、オッカムとスコトゥスの「個」の違いはなにかというと、
オッカムの個はそれ以上でも以下でもない個だが、スコトゥスの個は個体化する個であることだね。つまり普遍と個の媒介原理がある。
複数形と単数系のダルマはこの原理を内包してるといえるだろう。

711:考える名無しさん
12/06/29 20:30:40.61 0
>>709
ありがとう 

712:考える名無しさん
12/06/29 20:30:42.71 0
即物的にはヒューム的な刻々解体されている無我であり空の世界であるはずなのに、なぜ現に今「私」が「私」として持続している
(ように映る)のかに対するスコトゥスからの説明はこの個体化の原理となる。
そしてヒュームもさすがに偉大で、彼も個体化の原理を提出するのを忘れるわけはなかった。
それがハビトゥスという反復の原理だが、このハビトゥスも何あろうスコトゥスとオッカムが源流だ。
もちろんヒュームはオッカム流にこれを使っているわけだ

713:考える名無しさん
12/06/29 20:34:46.80 0
>>710
はいはい、無明と明との両極構造ね。

中性単数のダルマがアートマンに対応すると、それじゃ外道なんだよね。
男性複数のダルマが縁起した現れである諸法、女性単数のダルマを智慧・般若、中性単数のダルマを空性とすればまあまあかな。


714:考える名無しさん
12/06/29 20:57:35.36 0
>>713
そう、中世単数のダルマを物自体的とすべきだったかもしれない。
実在論者の考え方というのはこのような媒介、仲裁、連続性であり、唯名論者の考え方は切り捨て(オッカムのカミソリとは言い得て妙)
そしてケチ(思考節約)の原理、不連続性。中観論者がよくいう「中観にあらざれば仏教にあらず」は切り捨ての精神ともとれる。
ばっさり切り捨てるのは非常に批評的でかっこよくみえるが、カントの「批評」は実はこっちじゃない。
諸能力という分析対象の存在根拠を問うというライプニッツ的な態度だと思う。
ただし、理性の越権行為を固く禁じカテゴリーを重んずるところは唯名論的というかアリストテレス的なところといえなくもない。

715:考える名無しさん
12/06/29 21:00:02.82 0
>>708
カントの物自体は、純粋理性批判(第二版XVIII)で書かかれているコペルニクス的転回の末
我々が認識できるのは現象だけであるとした。しかし、認識できないにしても、少なくとも現象として
現れる当の物がなければ矛盾が生じる。ココで初めて、「物自体」として<思推する>という概念がうまれる。

だから、
>>「物自体ってあるかもしれないけど認識できないね」
より「認識できないけど、物自体があるとしなければ矛盾が起きるよね」
の方が正確。

一方、諸法無我は
「この世の現実存在はすべて諸行無常だし、永遠不滅の実体なんてないよね」
と言ってるんだから、そもそも一緒には語り得ない。


716:考える名無しさん
12/06/29 21:00:26.35 0
>>714
そういう松本史朗とかの中観は、知的遊戯で中観じゃないから
中観は上に書いたように戯論寂滅への導きだよ~


717:考える名無しさん
12/06/29 21:54:08.85 0
ああ やっぱり自称中観派は、めんどくさい
そもそも龍樹菩薩の定義の空でないものって言うのは、
それ自体で自立していて常住かつ不変不滅なもの。
んなもんあるわけねーだろ。この定義じゃ世界は全部空だわ。これを根拠に論理を作り上げるもんだから、
1+1=0だから四則計算の答えは全部0です(( ー`дー´)キリッみたいに
一切は、空・空性、あり得ないけど仮にカテゴライズされないものが出てきたらは、それは仮説です。
思想としては、面白いけど、めんど臭い。何言っても最後は、全ては空性、例外は仮説だもんね。

不立文字的なことを言うのは良いが、自分自身が達磨大師の
「文字(で書かれたもの)は解釈いかんではどのようにも変わってしまうので、そこに真実の仏法はない。したがって、悟りのためにはあえて文字を立てない」
の呪縛に捉えられてるぞ。学者ならそれも仕方がないが。。。聞こえますか、アーガマ・・・

718:考える名無しさん
12/06/29 22:00:09.62 0
>>717
違うよ。全ては縁起・空性・仮設だよ。

仮設というのは、仮に設けたものと訓読すべきですが、本来の意味は表示、仮象、ラベリングだよ。

どういう意味かというと、知覚対象として立ち現れるものを言い習わしに添ってラベリングして、記号づけ表示するというような意味。

だらか八喩で示されるように一切諸法は幻なんだよ。それぞれの有情にそれぞれに見える。だから、空性。


719:考える名無しさん
12/06/29 22:15:04.46 0
>>718
は?なにが違うの?龍樹菩薩は、縁起も空(空性)も同じ用なもんだと言ってるだろ。
違うなら違うでいいんだけど、それらにカテゴライズされないものを仮の名前をつけて説明するという意味で仮説(けせつ)
とするんだろ。空の定義にしても一切諸法は幻ならそう書けば良いのに、てかそれこそ不立文字でいいじゃんってところを
グダグタグダグタ言ってるじゃん。で結局中身はない。箱を開けたら正に一切諸法は幻なんです。ハイ終わり。

720:考える名無しさん
12/06/29 22:22:06.83 0
>>719
違う。上の説明をよく読んでくれ。自分の理解は一回捨てて。



721:考える名無しさん
12/06/29 22:33:59.10 0
>>720
だらか八喩で示されるように一切諸法は幻なんだよ。それぞれの有情にそれぞれに見える。だから、空性。

中観派あと唯識派もそうだけど、言いたいことは、この最後の一行でしょつまり。
こちらが言ってるのは717でも書いたけどそういう一切幻とか心がどうとか言う前に、そもそも空・空性の定義おかしいでしょって事。

722:考える名無しさん
12/06/30 01:34:41.36 0
幻と空は違うような気がするね。

723:考える名無しさん
12/06/30 04:02:37.59 0
>>721
いや、そういう短絡的な理解じゃ分からないよ。

もう繰り返しになるから止めるは。


724:考える名無しさん
12/06/30 05:28:39.71 0
>>723
中観派を名乗る人々の空・空性の定義がおかしいと言ってるだけだよ。 難しいことなんて、何も言ってない。


具体的に言うと、龍樹菩薩の言った空・空性の定義は、717に書いたけれど、仮にそれが正しいとしても
その空を、真だと、言えるまたは考えられる人は、どれだけ居るのかという話。

文献だけに頼って、実地に修行をせずに、仏教の教義(特に龍樹菩薩の空)を本当に理解できるのか。
修行といっても、龍樹の言ってる空は、中観に一定の理解があるなら分かると思うが、ほんとに何でもかんでも
空性だと言っているわけだから、生半可な修行ではない。それこそ、体現するには夢精をしてしまうような阿羅漢では足りない。

熱心な信者が聖書に書かれたことを一字一句信じるように、信じているというなら、宗教だからなんの問題もないが
難しいことなど考えず、胸に手を当てるだけで、龍樹菩薩の教えを自分自身の体が否定しているが分かる。

こんなむちゃくちゃな定義概念を本気で、理解してるとかいう人は、本物の修行者かただの嘘つきしかいない。


725:考える名無しさん
12/06/30 07:50:52.39 0
>>724
ただ単にアナタに理解力がないだけなんだけど。

中論は、戒定慧の慧の部分しか説かないから勘違いされやすいけど、
勧戒王頌、宝行王正論、四百論、入中論、入菩提行論を見れば分かるように戒定慧の行をする。

そりゃ行はしなくちゃ悟れないが、その行をする前に教えの意味を正確に理解しないと行も意味がない。

仏教は、聞思修だぞ。つまり、教えを伝統の師、サンガから聞く、その教えをよく考えて理解するのが思。
理解して修行するわけだ。

津田説は、戒定はあるが慧がない。慧とは縁起・空性によって観じること。
津田説は縁起・空性の理解がない。だから、外道と同じで現象(マーヤー)と実在(アートマン)になっちゃう。

松本説とかは慧はあるが戒定がない。しかも慧といっても縁起・空性を凡人の論理認識と解釈する。
だから、凡人の常識そのままで、そこにいろんな妄想を加え混乱に混乱を重ねるだけになっちゃう。

だから、こういう説によって縁起・空性を理解してると思ってるのが間違いなわけなんだが。

726:考える名無しさん
12/06/30 08:26:21.60 0
>>725
そこまで中論がわかってると言うなら、
その手の解説本等でおすすめありますか?出来れば日本語で
あと、参考になる著者でもいいです。

727:考える名無しさん
12/06/30 08:29:07.74 0
>>726
石飛道子『龍樹』これが最高。
山口益『仏教思想入門』これは石飛先生と同じ方向を示し仏教全体の中で中観を論じたもの。

それと近刊『入中論自註』ね


728:考える名無しさん
12/06/30 09:24:27.73 0
>>727
ありがとう

なるほどね、釈尊と龍樹ともに一切知の応身として位置づけて
衆生秘密、如来秘密的な意味で、釈尊に嘘はないと言っていたのね。

一方コチラは、プラトン、アリストテレスから現代に到るまで、間違いを犯さなかった哲学者、思想家はいない
当然釈尊龍樹も間違いを犯したと言う立場で、(専門知識は、あなたに大きく劣るにしても)懐疑をしていたので、
そもそも論の所で相容れなかったね。アタナにとって、私の話など、赤子の手をひねるようなものだったかもしれないが
こちらとしては、勉強になりました。

729:考える名無しさん
12/06/30 10:35:55.15 0
>>728
そもそも「間違いを犯す」っていうのが、あんまり哲学的表現でないよね。

「真」については、様々な立場があって、「真理は存在しない」という立場もある。
「真」ということについて、よく考えてみました?



730:考える名無しさん
12/06/30 12:36:26.60 0
>>729
「真」については、様々な立場があると述べていますが。現代の
社会状況(テクノロジ-の高度に発達した世界)で、西洋哲学と
仏教哲理の「真」の立場として、どの様な方向性があるのでしょうか。

731:考える名無しさん
12/06/30 20:10:01.91 0
>>729
最初から、宗教的「真」理以外の意味で、真と言う言葉を使ってない。
人間として、間違いを犯す自由が含まれていないのであれば、自由は持つに値しない。
釈尊も龍樹も間違いなく現実に実在した歴史的人物。神や仏ではなく人間として、
彼らを尊敬し彼らの言葉を一つ一つ吟味すべきではないか?

麻原彰晃の言葉をオウムの信者達が、盲信したように、開祖の言葉を無条件に信じるのは
宗教ではあるかもしれないが哲学ではない。

また、単純に真理が存在するしないとかそんな下らないことを考える前に、形而上学的問題を
考えると行為自体がカントの言葉を借りるなら、アンチノミーだ。可能な経験を超えている場合は、
理性は合理的な真理を確立する役割を演じることができない。

話を戻すと、インド哲学では、古くから、ブラフマン・アートマンの存在を紀元前数千年も前からの
瞑想体験(経験)によって認められていた。それを釈尊や龍樹は、否定したわけだから、カントに従えば、
紀元前数千年からなる瞑想の体系を可能な経験として超えていなければならないと言う命題が残る。

732:考える名無しさん
12/06/30 21:15:53.61 O
考え抜いた人は思考の自由度が広いため、どんな状況でも自由に解釈し行動できる

考えないですぐ悟った奴は思考の自由度が乏しいために、状況が変動するとすぐ摩擦を生じる

733:考える名無しさん
12/06/30 21:27:37.90 0
仏教の真理を知ったにもかかわらず、まだ考えたり、学んだりする迷いを断ち切れていない者のことを有学という。

734:考える名無しさん
12/06/30 21:56:59.84 0
悟りは痴呆兆候ですよ

宗教は情動を悦ばすだけのドラッグです

735:考える名無しさん
12/06/30 22:04:59.45 0
宗教は、アヘンです
やめましょう

736:Absalom ◆owNN8RDlXo
12/06/30 23:07:06.03 0
どんな煩悩にも因がある。すなわち、その因を取り除くことで煩悩は断たれる。
因は個人の記憶の中を探れば探すことができる。それは、個人の欲が全ての
行動の指針であるからだ。消し去られた煩悩は空になる。すなわち、色即是空
とは、色が空であるように努めよということである。滅却の、あるいは消しさるような
悟りが仏教的教えである。弁証法とは違う。

737:Absalom ◆owNN8RDlXo
12/06/30 23:33:50.28 0
悟りの考えを得たものは同じ過ちを繰り返さない。これを敷衍すると輪廻からの
脱出ということになる。

738:記憶喪失した男
12/07/01 08:13:04.89 0 BE:2737416285-2BP(3)
「存在と時間」(全2巻) ハイデッガー
128位/142作品。翻訳小説SF以外。
まったく読む価値はないと思われる。
カントを理解し、肯定していること以外に褒めるべき点はない。
この本を読んで、存在論とか時間論に理解が深まることはまったくないであろう。
ハイデガーの時間論は、まったくくだらない。 ハイデガーは、死が時間の終わりであるとしている。
そして、個体の死を内包しつつある世界=内=存在(物自体)は臨死にあるという。
くだらなすぎる。
東浩紀が「ハイデッガーより難しいことを考えるなんてできないんじゃないの?」
といったそうだが、ハイデッガーは難しいことなんか考えていないし、
少なくともこの代表的著作には披露していない。
もちろん、若者が大志を抱くのに、目標をハイデガーなんかに見据えるのは、
志が低すぎると警告しなければならない。
ハイデガーがカントを超える点は、ひとつもない。

739:記憶喪失した男
12/07/01 08:14:41.22 0 BE:684354825-2BP(3)
ハイデガーを読んだが、
ハイデガーの使う単語「世界=内=存在」がカントの「物自体」に対応することばとして、
適切とは思わない。
同じことをいっているようだが、ことばとして不適切である。

740:記憶喪失した男
12/07/01 08:30:43.77 0 BE:1642449964-2BP(3)
>ハイデガーは、死が時間の終わりであるとしている。
>そして、個体の死を内包しつつある世界=内=存在(物自体)は臨死にあるという。

ここから、ハイデガーの「世界=内=存在」は個体の主観を含めたものであり、
物自体より幅広い概念だといえる。
よって、世界=内=存在は物自体ではない。

741:考える名無しさん
12/07/01 08:45:21.39 0
ハイデガーはパルメニデス以来の形而上学・論理学に疑問を持った稀有な西洋人。
彼の言説はウィトゲンシュタインとならんで結構いいは。
もっとも仏教読んでりゃ、二人とも仏教により完全なものを発見していたと思うが、
当時の仏教学が一歩も二歩もダメだったからな。

仏教学は今でもだめだけど、西洋には本物の仏教がやっと入ったから、今なら二人は分かったと思う。


742:考える名無しさん
12/07/01 10:31:09.87 0
>>731
>カントに従えば、紀元前数千年からなる瞑想の体系を可能な経験として超えていなければならないと言う命題が残る。

貴方はカントをかなり誤解しているようです。
『純粋理性批判』でカントが「認識」と言っているのは、科学(学問)的な認識のことだよ。
そもそも『純粋理性批判』という書物は、科学的認識を基礎付ける意図で書かれたんだ。

それで、あなたのいう「形而上学的問題」は、カントにおいては「実践理性」の領域で重要な意味をもつ。
そしてカントは、純粋理性よりも実践理性に優位を与えている。

だから、科学(学問)的な認識が成り立たなければ意味がない、というようなことでは全くないのであって、
科学(学問)的な認識が成り立たなければ、それは「宗教」だ・・・ということにもならない。
哲学的思索の多くは、カントの言う「科学(学問)的認識」が成り立たない領域で行われているでしょう。

743:考える名無しさん
12/07/01 10:37:53.83 0
>>741
アリストテレス主義的なもののおおきなその2人は、プラトン主義的なものに惹かれる自分にとってはいわば逆の立場だが、
それだけに読むと勉強になる。そしてこちらからすれば、ウィトゲンシュタインが仏教に及ばないのは「表象としての世界」
しか認めずに「意志としての世界」を認めなかったからということになるね。
ニーチェはもちろんプラトンを批判したが。この普遍論争的な流れからすればプラトン側といえるね。

744:考える名無しさん
12/07/01 10:41:22.71 0
>>740
哲学とか全く分からないんだけど、ザッと調べたところ、
カントや仏教は、「現象の世界に本質は無い」 っていう立場で、
現象世界は空虚というニュアンスだけど、
ハイデガーはその空虚な現象世界に捉われてる感じがする。
物自体より幅広いどころか、ものすごくチャチな考え方に見える。

745:考える名無しさん
12/07/01 10:50:32.62 0
なんだか、いろんな哲学者の名前がでてきているんだけど、
ただ漠然と比べていても意味がないと思うよ。
ハイデガーの関心事は、「存在そのもの」でしょう。
「存在そのもの」に関心をもっていない人がハイデガーを読んでもチンプンカンプンなのは当たり前。
それと同じように、それぞれの哲学は、それぞれ別の角度からの思想なんだから、
平面的には比べられないんだよ。


746:記憶喪失した男
12/07/01 10:51:01.97 0 BE:3079593959-2BP(3)
>>744
カントは、現象の本質は認識できないが存在するとしているよ。
仏教は、現象の本質は認識できる(空と観ぜる)としているが、空性の問題は、
まだ、おれは仏典を読んでないので断言して答えられないが、空虚としているようだ。

747:考える名無しさん
12/07/01 10:53:34.39 0
月は認識してなくても存在するよね、量子などとは違って

748:考える名無しさん
12/07/01 10:53:47.88 0
>>745
わからんでもないが哲学者自身が他の哲学に対する異議申し立てを盛んにしてるんだよ

749:考える名無しさん
12/07/01 10:55:33.42 0
>>743
いや~、そういう現象と超越とか、現象と内在みたいな西洋の枠に疑問を持ったのが二人でしょ。
仏教はヒンドゥー的な現象(マーヤー)と実在(アートマン)ではないから、



750:記憶喪失した男
12/07/01 11:02:48.41 0 BE:2053062465-2BP(3)
あの、仏教至上主義者が誰ひとりとして、カントより優れた存在論を提示してはいない件について、
身長に考えてもらいたいですね。

おれはまだ仏典を二冊しか読んでないですから、理解が浅いですが、
仏教がカントに勝てるとはあまり思えないんですがね。

751:考える名無しさん
12/07/01 11:06:20.13 0
>>749
ヒンドゥー的でない現象と実在だな

752:考える名無しさん
12/07/01 11:09:32.49 0
>>750
貴方はまず、「仏教がカントに勝てる」みたいな中学生的発想をやめることから始めてくださいw

753:考える名無しさん
12/07/01 11:15:40.94 0
>>751
実在のヴァリエーションが多様なのは分かる。

しかし、どんな実在を設定するとしてもそれは妄想だと仏教は考える。

なぜなら、その実在の根拠は把握できないものを根拠としているから。
例えば、把握できないアルケー・アートマンが実在すると推論・想定するように。

ここらへんがライプニッツの問いに繋がり、ハイデガーは乗り越えようともがいたように思う。

754:考える名無しさん
12/07/01 11:21:13.87 0
>>753
仏教が考えるでなくて君が考えるでしょ
仏教にも実在論がある

755:考える名無しさん
12/07/01 11:22:07.44 0
>>754
有部とか唯識ね。それは逸脱か方便だから。


756:考える名無しさん
12/07/01 11:25:19.05 0
潜勢態の実在を認めるかどうかだね。無意識や電磁場のように現勢態でないが「ある」ものがある。

757:考える名無しさん
12/07/01 11:27:30.12 0
中観の人は輪廻はじゃあ中観で把握できないものではなく把握できるものだから認めてるんだよね?

758:考える名無しさん
12/07/01 11:28:24.58 0
>>753
>ここらへんがライプニッツの問いに繋がり、ハイデガーは乗り越えようともがいたように思う。

ハイデガーは、「存在」は「無」であるとしているんだけど、
それは、「主観」-「客観」という構図を乗り越えることと結びついているね。
つまり「存在」は、「主観」としての人間が「客観」として、つまり対象的な「何か」として
規定できるようなものではなく、その意味で「無」である、と。

759:考える名無しさん
12/07/01 11:30:48.97 0
>>757
もちろん。世俗として認めるよ。


760:考える名無しさん
12/07/01 11:31:45.14 0
>>758
>ハイデガーは、「存在」は「無」であるとしているんだけど、

どこで?

761:考える名無しさん
12/07/01 11:34:40.07 0
>>760
今手元に何もないので場所は指摘できないけど、何箇所かあるよ。

君はハイデガーの言う「無」を、どう考えているの?

762:考える名無しさん
12/07/01 11:36:00.19 0
>>761
オイラは無とは思わない。

有無を超えた何かに行きたかったんじゃないかと思う。

まさに縁起・空性・仮設だと思う。

763:考える名無しさん
12/07/01 11:37:39.87 0
世俗や方便としてではなく、輪廻説はやはり仏教の根幹に深く関わっていると思うね。

764:考える名無しさん
12/07/01 11:38:02.94 0
>>762
「君はハイデガーの言う「無」を、どう考えているの?」
という問いに対して
「オイラは無とは思わない。」
は、
会話が成り立っていないな。

765:考える名無しさん
12/07/01 12:00:01.07 0
電磁場というのは(もっといえば場というのは)不思議だね。
コンデンサの電極の間に生じるのも電磁場なんだが、それらひっくるめて原理的には宇宙は一つの電磁場なんだよ。
つまりたとえばここにある下敷きを擦って起こした静電気による電磁場が原理的には宇宙の隅々まで届いている。
ベルクソンは『持続と同時性』を失敗作として全集から外させたが、ドゥルーズが擁護したようにあながち間違いじゃない。

766:記憶喪失した男
12/07/01 12:29:52.02 0 BE:1231837463-2BP(3)
>>758
ハイデガーは、存在を無とは考えていないよ。
認識できない何かがあると考えているんだよ。

767:考える名無しさん
12/07/01 12:44:48.69 O
物自体に従属した思考…物自体の立場?科学の立場?
思考そのもののみでする思考、それを事物・記号で表す…空の立場?哲学・理論科学の立場?

概念をその性質によって自在に操るには、物自体を捨てなければならない?

768:考える名無しさん
12/07/01 13:10:58.09 0
>>740
ハイデガ-の「世界=内=存在」の存在とは、主観的存在である「自己」を世界の
中で認識すると言うことだから、カントの言う「物自体」は客観的存在なので
「存在」の概念が異なるものと思う。

769:考える名無しさん
12/07/01 13:23:36.12 0
>>746
「カントは、現象の本質は認識できないが、存在する」と述べている。
これは、カントが、主観的領域(科学的認識)から客観的領域(物自体)を
考察しょうとしたからであると思う。 又、実践理性批判を読むと、カントは、
客観的領域を、サルトル程に明確に実体化していなかったと思われる。

770:考える名無しさん
12/07/01 15:18:42.38 0
>>477で「空」とは、「客観的存在」であることが証明される」と述べている。
 ここで証明されている様に、客観的存在である「空」と、西洋哲学の「客観的存在」の
概念は、同じ存在と考えられる。 従って、「空」の客観的存在としての概念と、「物自体」の
客観的存在としての概念も同じものと解釈できる。 この観点を糸口として、仏教哲理と西洋哲理を
考察することは、「>>478」でも述べている様に、仏教哲理と西洋哲理の互いの良い面を引き出すことが
出来るのではないかと思う。



771:考える名無しさん
12/07/01 23:25:36.02 0
>>715
そのとおり、はじめてまともな書きこみみた


772:考える名無しさん
12/07/01 23:42:15.13 0
>>741
完全になどといってる時点でただの形而上学。笑止。
哲学的精神のかけらもないな。
そうだとしてしまいたいですに引きずられ、語るに落ちてるが真を求めらゆえに、あるとしてしまい、それがそうだと宣言するのみ。
完全と真の隷徒たち。
ま、そういう思想ファッショとの戦いが近現代の戦いであったが、このではその残党が宣言しまくってるな。

>>733
>>736
これらも詭弁の常套に満ちている
その構造が一読了解しえるようになってようよう現代に迎え入れられる。
欺瞞の仮言
しくまれた全称仮
こうした妄考は既に博物館入りとは言え、なお少数に担われていくのでいろう。
ま、井戸端でやってなさい。


773:考える名無しさん
12/07/01 23:45:55.94 0
ミス 全称仮
訂正 全称化

774:考える名無しさん
12/07/02 00:10:33.28 0
ブーメラン

775:Absalom ◆owNN8RDlXo
12/07/02 00:53:39.62 0
>>772
別に現代に受け入れられようとして考えを添え曲げてないから。
死んだあとで忘れ去られる現代的思考なんて、何もないのと
一緒じゃないの?例えば石原慎太郎とかみたいに。

776:考える名無しさん
12/07/02 01:34:15.73 0
人の批評ばっかりやって、自分の意見を書かない人ってなんなの?

777:考える名無しさん
12/07/02 01:58:40.28 0
バカにしてるから。
こんなことで書くか

778:考える名無しさん
12/07/02 02:46:40.02 0
>>777
パブロフの犬かお前は。

779:考える名無しさん
12/07/02 06:36:52.81 0
>>771
最初からそう言ってるんだが


780:考える名無しさん
12/07/02 07:35:13.79 0
>>779
結論が同じでも 全然ちがうだろ

781:考える名無しさん
12/07/02 09:07:16.80 0
>>780
そうか。まあ、カントについては概説書と一冊ぐらいしか読んでないんで言及は避けたが、
仏教に関してはどうみてもオイラの方が正確だとおもうが。


782:考える名無しさん
12/07/02 09:17:58.60 0
>>766 :記憶喪失した男
>ハイデガーは、存在を無とは考えていないよ。
>認識できない何かがあると考えているんだよ。

「存在」は、「認識できない何か」ではなく、「表象できない」「対象化できない」と言ったほうがいいね。
それにそれは、「何か(something)」ではない。
「何か(something)」として表象(対象化)されたものは、「存在者」であって、「存在」ではない。
だからそれは、主観にとっては「何ものでもないもの」、つまり「無」なんですね。

>>715は、ちょっとおかしいと思う。
感性的直観が与えられていれば認識は成立するんだから、物自体がなくても別に矛盾はないだろう。
一般には、カントはアンチノミーの問題を解決するために「現象」と「物自体」を峻別したと考えられているよ。
つまり、科学的認識が成り立つ「現象」と、実践理性の領域に属する「物自体」を峻別することによって、
カントは道徳と宗教のための場所を確保したかったんだね。

783:考える名無しさん
12/07/02 09:33:04.63 0
カントに詳しいって自称するほど、カント知ってるわけではないけど

>感性的直観が与えられていれば認識は成立するんだから、物自体がなくても別に矛盾はないだろう。
これは、科学的認識?というか、現象としての客観であって、715は、その現象を認識するためには、物自体が
そこにあるとしなければならないと言ってるんじゃないの?


784:考える名無しさん
12/07/02 09:48:14.22 0
>>783
>その現象を認識するためには、物自体が
>そこにあるとしなければならないと言ってるんじゃないの?

715の人が言っているのは簡単に言うと《現れるためには現れるものがなければならない》ということだと思うよ。
つまり、現象の《出どころ》がなければならないということだと思う。
たぶんカントがそういう感じの言い方をしている箇所があると思うので、全くの間違いとは思わないけど、
カント以降の現象学では物自体は消去されたように、《出どころ》なんてなくても矛盾はないと思うよ。


785:考える名無しさん
12/07/02 10:14:41.84 0
>>784
そうなんだ。スレチかもしれないけど、
現象学とか実存主義って以前よくわかんなくて投げちゃったんだよね。
特にハイデガーの文が意味不明で(あとヘーゲル)
これって、個人的に通読する程度だったら、まず何処当たりからはじめるべき?
一応キリスト教には一通り理解があったから、キルケゴール辺りは、読めた。

786:考える名無しさん
12/07/02 10:44:54.93 0
>>785
ハイデガーは『形而上学入門』から入るといいと思う。

そこで分かんない所を全集で補ってみる。

それでも分かんない部分は、独英仏を見てみると分かると思う。

基本的に西洋の形而上学・論理学の根本的不備を乗り越えようと、もがいてるかんじ。




787:考える名無しさん
12/07/02 10:56:20.58 0
不備!!
なんのことやら
まるで仏教とやらには不備がないとでもいうのか?


788:考える名無しさん
12/07/02 11:03:39.93 0
>>787
上に書かなかったか? 

簡単にいうと、有無という二項を絶対と見ているところと、同一律の根拠。

あるいは一度、xとしてしまうとそれが恒常不変にxとしてしまう実在論・本質主義。

西洋はずっとこれでやってきて、私が知る限り問題としているのはハイデガーとウィトゲンシュタインぐらいだと思う。


789:考える名無しさん
12/07/02 11:05:39.12 0
なんかハイデガーの「現存在」って、説一切有部の「ダルマ」に似てるような気がする。
カントや仏教は、「時間と空間の認識の世界に本質は無い」 って言ってるような機がするけど、
ハイデガーは時間と空間の中に本質を求めた感じ。
非常に幼稚な理論のような気がする。

790:考える名無しさん
12/07/02 11:10:34.48 0
>>788
単純な見方だなぁ・・・
まぁ、ハイデガーという人の書き方が、そういう書き方ではあるが。
つまり、過去の哲学者を悪玉に仕立て上げて、それに対抗するものとして自分の哲学を提示する、という書き方をハイデガーはします。
そのへんを理解して割り引いて読まないといけないよね。

791:考える名無しさん
12/07/02 11:18:09.98 0
>>790
いや、正しい。それを仏教以外で指摘したのはハイデガーのみ。
だから、論理学が使えない。現象と論理に齟齬があるわけ。

まあ、分からなそうだが。


792:考える名無しさん
12/07/02 11:28:09.56 0
>>791
>いや、正しい。それを仏教以外で指摘したのはハイデガーのみ。

790への答えとして、その答え方は、かなりおかしいだろう・・・

昨日も君は日本語として会話が成り立たない書き方をしたが。
君の日本語は少しへんだよ。



793:考える名無しさん
12/07/02 11:32:23.52 0
カントの人間を超えた所謂神のような存在の認識を
直観知みたいな言葉で言ってなかったけ?
ヘーゲルで言う直観的悟性みたいなもん。

これって、「あるがままを見よ」とした仏陀の覚の状態に近いんといえるんじゃない
根拠は、ないけど

794:考える名無しさん
12/07/02 12:29:38.80 0
その通りだと思うよ。

795:考える名無しさん
12/07/02 12:31:34.62 0
>>792
そう感じるのは、君が実在論・同一律的前提に立っているのに無自覚だからだろう。
そこはもう上で説明したので、繰り返すのも面倒だし、恐らく説明しても分からないから省略しているからだろう。
どういうことかというと、西洋思想的枠の中で問いを立てている、そういう考え方がの枠組みがダメなんだということ。

言葉に違和感があるなら、オイラが梵蔵的書き方に馴染んでいるからかもしれない。
それはもはや無自覚。

現代日本人の多くは英文法的書き方するでしょ。それにはオイラは違和感ある。
そういうことかもしれない。


796:考える名無しさん
12/07/02 12:34:32.72 0
>>793
違う。それはヒンドゥー的アートマン・三昧禅定体験で、以下のようブッダはそれは違うと言っている。
URLリンク(www28.atwiki.jp)

上のように井筒先生とか、現象と実在解釈で仏教を観るのは間違ってるよ。


797:考える名無しさん
12/07/02 13:02:08.91 0
>>796
井筒先生ってコーランの井筒俊彦先生の事?

>>如来がみずから悟り体現して教示している、深遠で、
>>見がたく、了知しがたく、寂静で、勝れており、思考と思惟とを超えており、
>>微妙で、賢者だけが理解できる諸法がある。

これ結局釈尊は、具体的に何を悟ったんだろうね。
その立場が、はっきりしないと、そもそも否定の根拠がわかりづらい。
悪意を持って読めば、口だけって事になる。宗教ならそれでいいかもしれないけど。

素人考えだけど、最終的にはアートマンみたいな実在を立てないと
認識って成り立たないんじゃないのかな?
唯識派が、仮ではあるけどそれに近いものを認めたみたいに。

798:考える名無しさん
12/07/02 13:15:30.09 0
>>797
そう。『意識と本質』や、その後の諸著でそのような説を繰り返し述べているよ。

>これ結局釈尊は、具体的に何を悟ったんだろうね。

その「何を」というのが、正に西洋的限界なんだよね。
こういうと、西洋だとパルメニデスやアリストテレスが否定したドグサや矛盾か、神秘主義と解釈され、
井筒先生のようになってしまうんだけど。
仏教でもパルメニデスやアリストテレスが否定したドグサや矛盾、神秘主義は、四句分別として否定されている。
四句分別が鎮まった、戯論寂滅の境地であり、それは「何」xという本質や形式であらわす戯論・幻が鎮まった境地。
ここを説明すると結構、面倒くさいので端折ってます。

>素人考えだけど、最終的にはアートマンみたいな実在を立てないと
>認識って成り立たないんじゃないのかな?
>唯識派が、仮ではあるけどそれに近いものを認めたみたいに。

そう考えるのは本質的に仏教の縁起・空性・仮設からの逸脱で、まさに西洋哲学の本質であるアルケーの追求。
あるいは、正にライプニッツの問いですね。
それは妄想以外のなにものでもないというのが、仏教で、ウィトゲンシュタインがそれに接近する。
理解できない人のために、あるは方便として唯識や有部、ゲルク説などが説かれたと考えなければ、逸脱です。

799:考える名無しさん
12/07/02 13:32:27.88 0
>>798
こうやって、考えると、仏教って思ってた以上に論理的(西洋とは別の意味で)なんだね。
イメージとしては、議論はいいから修行しなさい。って感じで、釈尊の無記もそこから来るものだと思ってたけど。
それ以降の仏教徒たちは、ヨーガスートラ見たいに、瞑想で三昧に行ければ、哲学的に不完全でもかまわん。という立場には
立たずに、一生懸命仏教教義を論理的に研ぎ澄ましていったって感じがする。その意味では、カトリックのカテシズムにしてるね。


800:考える名無しさん
12/07/02 13:42:51.85 0
その人のは反実在論的仏教観であって実在論的仏教観もずっとあるわけ
もちろん実在論のほうも理論的だ
仏教はかなり知的だよ

801:考える名無しさん
12/07/02 13:43:00.34 0
>>799
釈尊・龍樹菩薩の論理は美しいよ~
簡潔明瞭で、徹底して破綻がなく、しかも自分を守るためでなく他人を導く論理。

無記は、重要。その十四無記が、六十二見、八不に繋がるから。

仏教の道はいろいろです。論理に徹する人もいれば、そうでない人もいるし、
それぞれ合った道をいけばいいだけ。
道は矛盾するように見えるけど、そうでないことが分かるまで結構時間かかる。
少なくともオイラはかかった。


802:考える名無しさん
12/07/02 13:50:43.94 0
日本は仏教と神道がうまく共存してたから理論的な論争がすくなかった
インドやチベットやスリランカやその他大陸の仏教は他宗教との争いがあったので論争的だな

803:考える名無しさん
12/07/02 13:58:05.71 0
うーん やっぱり 本来の仏教って(こう言うと怒る人いるかもしれないけど) 哲学だよね。
特にエリートの為の。その意味では、ほぼ同時代のプラトンの開いたアカデメイアに近いように感じる。
ただ、大きく違うところは、一方は、「幾何学を学ばざる者この門に入るべからず」としたのに対し、
出家者でない在家のものにも、教えを説いた。これが、仏教が世界宗教たる所以だと思う。
ただ、最終的には、エリートと大衆を同時に導くことはデキず上座部と大乗に分裂した。

と言う妄想。



804:考える名無しさん
12/07/02 14:07:44.64 0
ふと思ったんだけど、行き過ぎた反実在論的仏教観?って そんなもの仏教じゃないと、
如来蔵思想とか掲げてる多くの既存の宗派を、否定しかねない危険思想じゃないか?

805:考える名無しさん
12/07/02 14:28:18.43 0
ここでもやってきてるように反実在論では他を切り捨ててしまう傾向がある
カントが粘り強く経験論と観念論の仲裁をしようとしたのとは反対だな

806:考える名無しさん
12/07/02 14:48:03.68 0
駒沢大学の批判仏教派が日本では論争を仕掛けてきた
ここの人は彼らには批判的みたいだ

807:考える名無しさん
12/07/02 15:20:55.05 0
>>803
哲学もあるけど、道ですね。
多くの人に開かれた、多くの道のある。
その道の一つに哲学的な道もある。


>>804
如来蔵思想は仏教にあらずと説く松本さんとかは仏教を説いてませんから、話になりません。
以下『梵網経』で説かれる凡夫の立場、つまり、つまらないことしか見ない人ね。
>URLリンク(www28.atwiki.jp)


伝統仏教では如来蔵も空性です。

ただし、その部分は諸説あって難解です。
恐らく、言葉を超えた境地を、比喩的に表現しているのを、比喩と捉えない人がいるためだと思います。


808:考える名無しさん
12/07/02 15:24:19.59 0
道って聞くと道教が思い浮かぶ

仏陀と老子を同一視すると 双方から 大バッシングだろうけど

わからん 話ではない

809:考える名無しさん
12/07/02 15:29:08.06 0
>>808
それについては中観派は断固否定だろうね

810:考える名無しさん
12/07/02 17:52:59.21 0
>>795
>西洋思想的枠の中で問いを立てている、そういう考え方がの枠組みがダメなんだということ。

やはり、単純な見方だ。
>>788で君が書いていた「有無という二項を絶対と見ている」と「xとしてしまうとそれが恒常不変にxとしてしまう」
について、少し説明しておこうか・・・

西洋哲学には古くから「存在」の哲学と並んで「生成」の哲学という流れがあるのを君は知っている?

「有はあるが、無はあらぬ」というパルメニデスの思想は、「有」と「無」とを截然と分けることによって、
「ある」のか「ない」のか分からないような「動き(生成)」を退けた。
パルメニデスの弟子のゼノンの、アキレスと亀のアポリアは、「有」と「無」とを截然と分けると「動き」がとれなくなることを示している。

この「有無」の哲学とよく対比されるのが、ヘラクレイトスの「全ては流れる」という「生成」の哲学。
つまりこれは、「有無」が分かれる以前のところに「流れ(生成)」があるという考え方。
これは、仏教の「無常」にも通じるのであって、だからそれは「本質」に対する疑念につながり、したがって実存思想の流れにもつながるんだ。

「生成」の哲学の流れをくむもので特に有名なのは、へーゲル、ニーチェなどだね。

へーゲルの弁証法は、《「有」「無」「成」》のトリアーデで説明される。
これは、はじめに「有」と「無」があって、そののちに「成」が生じるという考え方ではなくて、
「有」と「無」という二つの契機の共通の根として「成」がある、という考え方。

西田幾多郎がへーゲルの弁証法に着目したのは、さすがにするどいのだよ。

811:考える名無しさん
12/07/02 19:24:54.28 O
空や悟りを求めて空を得た人…非実践者
実際の苦痛を無くしていき空を得た人…実践者

812:記憶喪失した男
12/07/02 19:41:03.50 0 BE:1026531353-2BP(3)
>>782
カントがどうかとか、ハイデガーがどうとかの解釈には詳しくないけどさ、
無ではない認識できないもの=物自体を信仰するという思想があるのは
認めてもらいたいね。
認識できない、すなわち、無だという論理はまったくわからないね。

813:考える名無しさん
12/07/02 20:11:30.82 0
>>809
中観は否定するといってもいいけど、
単に論理的に否定して、それは違う、こうだというのではない。
それぞれの妄想を止めて、寂滅の鎮まりに導くんです。

>>810

はいはい、生成と存在の対立はもちろん知ってますよ。ハイデガーもそこに拘ってるし。

>へーゲルの弁証法は、《「有」「無」「成」》のトリアーデで説明される。
>これは、はじめに「有」と「無」があって、そののちに「成」が生じるという考え方ではなくて、
>「有」と「無」という二つの契機の共通の根として「成」がある、という考え方。

いや~、これだと神秘主義になっちゃうよ。まさにパルメニデスとアリストテレスが退けた論理。
インドにもある。ジャイナがそうと言われることがある。もちろん、仏教では退けられる。

西田まだまだ、だと思う。だから、絶対矛盾的自己同一なんて言っちゃう。まさに神秘主義、ドグサ、矛盾に他ならない。

全然、幼稚だと思うぞ。仏教、インドからすると。

814:考える名無しさん
12/07/02 20:33:39.13 0
>>813
実在性を否定してかかるのにどうしてハイデガーの存在論は支持できるのかか詳しく頼む

815:考える名無しさん
12/07/02 22:02:10.18 0
ハイデガーは西洋に生成と存在の対立があり、近代でそれを指摘したのがニーチェだとします。

> パルメニデスは言う。有るものはあり、有るものでないものはない。いっさいの生成、つまり発生と消滅とは、まだないこ[125]とと、もはやないことである。いっさいの生成は、ないという性格をもち、無的である、と。
> それに対してヘラクレイトスは「いっさいは生成、たえざる生成」と言う。有はないのだと。ニーチェも同様に言う。生成しかない。
> 有と、……であるとは、仮象にとどまる。このように仮象が生ずる根拠は、生成について語りながら、語の意義においていっさいの物を固定化し硬直化してしまう論理ゆえである。有る世界とは虚構であり、生成する世界しかない。[『言葉の本質』125]



816:考える名無しさん
12/07/02 22:03:58.44 0
では、なぜ言葉によって一切の物は固定化し、しかもそれが論理ゆえに固定化するでしょう?

> 「論理学」〔ロジック〕という表現はギリシア語の論理学 <ロギケー> という省略形の語である。
> それには、知 <エピステーメー> 、すなわちロゴスはここでは語り、しかも言表や述語づけの意味における語りというほどの意味である。述語づけは、或るものについて或るものを言表することにおいて成り立つ。
> 例えば、物体は重い、その三角形は等辺である。このような言表は、何かを何かとして規定することに、すなわち <determinatio> に表現を与える。この規定するはたらきをわれわれは思惟と名付ける。論理学、すなわちロゴスの学は、それゆえ思惟の学である。
> 或るものについて或るものが(言表されている)という「関係」、すなわち述語づけは、それ自身において同時に、これらの規定のなかで或る規定がそれについて与えられるところの、ひとつの有るものに関係づけられている。
> それについて〔規定が与えられているもの〕は、[3]有るものそのものである。それにかんして〔規定が与えられるもの〕は、述語づけの対象としてのそれについて〔規定が与えられるもの〕である。
> したがって問題は、有るものそのものを分節しながら発見して規定することであって、これをわれわれは上〔図〕のように表せる。
> O 対象(object)
>       /⊥\
>      S ― P 或る基体(subject)、述語づけ(predicate)
> そのように解された規定のはたらきは、それに固有な傾向にしたがって、言表がそれについて発せられるところのものに自己を合致させようと求める。
> それについて規定や言表が発せられるところのものへのこうした合致、あるいは適合性こそ、言表の真理でわれわれが一般に意図しているものを特徴づける。
> ロゴスは合致していたり合致していなかったり、真かまたは偽であり得る。事実遂行されたどのロゴスも、それが本質的にいつも或るものについての言表であるがゆえに、必然的に真かさもなくば偽である。[『始元諸根拠』3]

817:考える名無しさん
12/07/02 22:05:15.34 0
 これが教科書化された論理学です。それは、

> 言表という形をとるとロゴスそのものが何か眼の前に見えているものとなってしまった。目の前に既にあるこのものはだから、正当性としての真理を獲得して安定させるために操作するには手ごろで便利なものである。
> ここからもう一歩進めば、真理獲得のためのこの把手を道具(オルガノン)と解し、この道具を正しい方法で手ごろなものにするようになる。
> このことは、フュシス[存在者としての自然]がエイドス[本質としての姿]に変わり、ロゴス[存在的集約]がカテーゴリア[規定としての言表]に変わるとともに、存在者の存在の根源的開示がますます決定的に消滅し、
> かろうじて正当なものという意味での真なるものが議論や学説や規則などを介して広まり、拡がり、平坦になればなるほど、ますます必要になる。
> つまり、そういうことのためにロゴスを道具になるように仕立てなければならない。すなわち論理学の誕生の時がやって来たわけである。 [『形而上学入門』306]

これはあるがままの自然がロゴスによって真に言い表されることから、手ごろな妥当性としてロゴスが規定としての言表、まさにカテゴリーとしての分類体系などに矮小化して論理学が誕生したというような意味でしょう。
その結果、学問として言葉を扱う場合以下のような手段をとることになります。

> 学の自然な手順にしたがえば結局わたしたちは、言葉を問おうと試みる瞬間に、辞書と文法とに出会うことになるけれども、その場合わたしたちは、すべての文法が、言語活動の基本概念や規則をさだめたギリシアの論理学に由来していることを確認するにいたる。
> こうしてわたしたちは一方で論理学から解放されると同時に、他方でふたたび論理学のくびきにつながれるという奇妙な立場におかれるのである。[『言葉の本質』29]


818:考える名無しさん
12/07/02 22:06:36.97 0
 なぜ、そうなるかというと、

> [本来]論理学とは、第一に思惟の遂行制約ではまったくない。それはただ諸規則そのものについて、或る伝統のなかで確立された学に過ぎない。
> 第二に、もし論理学が諸規則の学であっても、伝統的形式における論理学は、諸規則をその本質において解明することも根拠づけることもできない。
> 第三に、或る事柄のその内的可能性が、根拠づけるそれとして、事実的な遂行とその諸制約よりも先に秩序づけられているかぎり、思惟一般の内的可能性を露にすることが、思惟の諸規則に関する学としての「論理学」の前提なのである。
> 第四に、論理学に先行した形而上学の、ないし形而上学に先行した論理学の可能な秩序づけというこの問題全体それ自体は、論理学によって立てられることも、究明されることも、そして解決されることもありえない。
> もっとも論理学そのものは真理の形而上学として概念把握されるのではあるけれども。
> もし、形而上学のやり方で〔いまの問題の〕究明が可能であるにしても、形而上学の遂行にとって、諸規則の使用も、他の制約とならんでもちろん一つの制約ではある。[『始元諸根拠』145 cf.『形而上学入門』199]

 つまり、論理学は実在論という形而上学に基づいているので、この実在論に基づく西洋論理学によっては、その根拠である形而上学を検討することができないということです。


819:考える名無しさん
12/07/02 22:08:04.61 0
 どのようにかというと、アリストテレスが、初めて言表命題という意味でのロゴスのもっと明瞭な形而上学的説明をした。[『形而上学入門』101]
 言表とはカテーゴレインであるから、存在者の存在のこの規定はカテゴリーと呼ばれる 。[『形而上学入門』304]
 言表すなわちカテーゴリアとしてのロゴスが存在に関して裁きを行う法廷になってしまったから、したがって言表の方が言表自身に属しているこの「有るという語からして存在を規定するようになったのである。 [『形而上学入門』327]

 その結果、ロゴスは我意によって正しく把握するのを妨げられ、紛い物をつかまされる[『形而上学入門』214]ようになってしまったということです。ですから、

> わたしたちにとっても依然として論理学とはロゴスをあつかうものである。けれどもわたしたちは闇雲にこれまでの西欧の精神史に属する把握の仕方に固執するわけではない。
> 論理学とは思考の定式と規則を単に寄せ集めて構成しただけのものではない。論理学とはわたしたちにとってはむしろひとつの問いである。だからわたしたちはロゴスの概念と本質を最初から一定の把握の仕方のうちに組み入れてはならないのである。[『言葉の本質』39]


820:考える名無しさん
12/07/02 22:10:17.88 0
さらに『言葉の本質』編者はこう言っています。

> 論理学とは「思考の進め方をよりよい方向に、またはより悪い方向に向けて訓練するといったこと」ではなく、「有の深淵を問いつつ歩測すること」である。
> それはまた「思考の永遠の法則をよせあるめた無味乾燥な集合」などではなく、「人間にとって問うに値する事柄の場」である。[『言葉の本質』編者後記193]

以上を要約したのが、

> われわれのテーゼ、a)論理学は形而上学に基づく、b)論理学はそれ自体真理の形而上学にほか[142]ならないに対し、かの議論は、第一に、論理学は自由に浮遊しており、或る究極のものであり、いわば「唯一の思惟」であるという先入見に基づいている。
> 第二に、論理学はあらゆる学に先んじて優位に立つという論点に立脚している。[『始元諸根拠』142]

そしてハイデガーの形而上学的問いの基盤にあるのは、

> 論理学はロゴスの言表の認識である。その根本性格は真理である。さらに言表真理は、直観やそれに類した作用のように、言表の性格をもたない諸行動のうえに第一次的には基礎づけられている。
> これらの行動は、露にすることの性格をもち、有るものについて有るもの的な真理として、有の理解のうちに、すなわち、有るものが露にされうることを可能ならしめるもののうちに根拠づけられている。
> このことはまさに世界への進入であり、すなわち世界の - 内に - 有るという出来事なのである。有の理解は超越である。
> 有の一切の理解は、時性の脱自的統一[ekstatische Einheit 忘我恍惚の一性]のうちに、すなわち諸地平の時熟せしめる破開[こじ開け]のうちに含まれているところの、露にするはたらきである。
> このような露にすることは、形而上学的に根源的な真で有ること[真の存在]超越そのものであるところの真理、すならち超越論的真理なのである。この真理が、それぞれの有るもの的 - 志向的な真理の可能性の制約である。[『始元諸根拠』296]


821:考える名無しさん
12/07/02 22:16:48.69 0
脱自的統一、忘我恍惚の一性。これはアートマンとの合一とか見性体験と言われるものでしょう。それを超越論的真理などと述べているわけです。

> ライプニッツにとっては、彼が真理の本質を同一性のうちに見ているがゆえに、原真理はA=Aという同一性 であることを見た。われわれのテーゼは、論理学の第一の根本命題は根拠律である。[中略]
> 根拠律の形而上学的な実質は、何事モ根拠ナシニハナイ、すなわち、スベテノ有ルモノハ根拠ヲモツという根拠律の通俗的定式から読み取られる。[中略]
> これらの諸命題が根拠律のうちに基づくのだとすれば、それは、これらの根本諸命題もただ根拠の根拠からのみ、すなわち自由からのみ、さらに言いかえれば時性からのみ学的に解釈されることができるという謂いである。
> しかし、根拠律の本来的な意味についての最初の特徴づけに際しては、、ヨリモムシロということを含んでいる点を示そうと試みたのである。根拠律のうちには優先的性格が含まれている。
> しかしいまわれわれが積極的に根拠の本質と根源について、自由から、超越から示し得たものは、実際にどの程度根拠の本質に優先ということが属しているかを示唆している。


822:考える名無しさん
12/07/02 23:01:46.29 0
> というのは、このムシロ ということは、世界の凌駕性〔Übertrifftigkeit[より優れたこと]〕の、〔あるいは〕可能性へ向かう自由の超振動の、その表現でしかないからである。
> 根拠の持つムシロの - 性格がさて具体的にはどのように見えるのか、またそれに応じて、まさに根拠、基づくこと、根拠づけることの諸々の仕方がどのように多様化されてくるかという点は、難しい熟考を必要とする。[299]
> 有の本質には本質的に根拠が属している。この形而上学的連関への具体的な洞察によって、私はあなたがたを、プラトンが『国家』のなかで次の文章(『国家』<Politeia>, V1509b6-10)を書いたときに立っていた地点に連れ戻しただけである。
> その文章をもって、私は終わりとする。また君は言わねばならない、すなわち、認識されたる有るものに対して、またこれと共に同時に現臨[real presence]しつつ、
> すなわち善に基づいて現臨しつつ認識する作用だけでなく(善は有るものに対して、認識されることのみならず、またそれゆえ世界への進入をも提供する)、さらに有および何で有るかも、かのもの(すなわち善)によって有るものに配当されている、と。
> しかし、「のために」ということ(超越)は有そのものではなく、有が、しかもそれが有るものを尊厳と力とにおいて超えて振幅振動することによって、超出するところのものなのである。[『始元諸根拠』298 cf.149]


残念ながらハイデガーは、ヒンドゥー的アートマンには到ったようですが、縁起・空には到らなかったようです。しかしながら、西洋の形而上学・論理学に根本的な疑問を呈した、その姿勢、その問いは大いに評価すべきでしょう。

823:記憶喪失した男
12/07/03 00:16:48.38 0 BE:2874287467-2BP(3)
81 :ジャネットです:2012/07/02(月) 23:30:31.76 発信元:175.135.181.131
私が言い忘れており、また、物自体・諸法無我スレでもいう人がいないことを、
一つ書いておきます。
ディング・アン・ジッヒ(物自体)というのは、英吾に直訳すれば、シング・イットセルフになるでしょう。
物だけでなく事柄の含意もあるといっていいでしょう(だから、「正確」に近代日本語にしたいなら、物事自体、となるかもしれない)。
もちろん、「もの」というのは、ものすごい、ものさびしい、ものがなしい、
などとあるように、事柄も指しましたから、古典語がわかったかつての人たちにとっては、「もの」自体でも一向にかまわなかったのですが、
いまは分からない人が多いので、「こと」のほうの意味も強調したほうが良いか喪知れないと思いました。
同スレでの議論の展開に、難があるのは、そういう古典語理解の不足によるような気がします。
ちなみに、英訳だと「物自体」は、「シング・イットセルフ」ではなく、「ヌーメノン」というギリシャ語になっております。
このヌーメノンは、「精神」と訳されることが多いのですが、べつに「物質」でもいいものです。
そもそも、精神と物質の区別が、近代とは違っていたのですから。
ある種のキリスト教神学的には、物質というのが、霊的なものの凝集のようなものだ、という考え方があるのもご存じでしょう。
たとえば、あまり良い例ではないですが、いまどき風のとっつきとしていうと、量子力学の「観測問題」などをイメージすれば、
ピンときやすいかもしれません。

82 :ジャネットです:2012/07/02(月) 23:51:17.60 発信元:175.135.181.131
付記。上の「英訳」で、前置詞を省いているのは、イン、アット、などをつけるとニュアンスが固定するのではないか、
と思うからです。

83 :ジャネットです:2012/07/03(火) 00:14:46.92 発信元:175.135.181.131
ついでにもう一ついうと、
記憶さんが気づいている通り、ハイデガーでは、「イン」の意味が強く出ているでしょう。

824:考える名無しさん
12/07/03 00:40:53.99 P
そんなでたらめな書き込みコピーしなくても・・・
Noumenonってのは物自体の英訳じゃないですよ

825:考える名無しさん
12/07/03 01:15:51.39 0
>>822
TAT TVAM ASIのほうに軸足を移しませんかね。ライプニッツの充足理由律の重要性については、以前も述べたけど同じ認識だ。
ハイデガーはなかば自分の反対側にいるけれど、それだけに鋭い。卒論等を別にすれば、処女作の一つがスコトゥス論なのもそう。
ライプニッツはスコトゥスの問題意識を引き継いだ反時代的なスコラ哲学者といえるでしょう。
しかしハイデガーはこの方向をつきつめるのではなくて、スコトゥス論にも少しその傾向があるが、その後ナトルプ草稿の時点でやや
自分とは違う方向に歩き出したように見えるのが残念だ。

>>823
知ってか知らでか、物自体は英語がむしろオリジナルで、つまりロックからきてる。と思う。
デカルトvsスピノザ、ロックvsライプニッツ、ヒュームvsカントはわかりやすいが、実はカントはロックにもかなり影響受けてる。

826:記憶喪失した男
12/07/03 04:37:14.39 0 BE:1231837463-2BP(3)
おれでは、何が何やらさっぱりわからないが。質問が来てます。

85 :ジャネットです:2012/07/03(火) 01:13:50.22 発信元:175.135.181.131
記憶さん、お手数だけど、フェノメノンの対義語が何か、と文学板からわざわざ出張しているらしい私への粘着さんらしき人に、
に訊いてみて。
記憶さんのためにいうと、ヌーメノン、フェノメノン、でググるとあれこれ出てくると思うよ。

827:考える名無しさん
12/07/03 05:18:58.38 0
ロックとかの哲学って、古代ギリシャのphilosophyって言うより
politicalって感じだよね正に政治哲学。言葉の意味には深く言うつもりは無いけど、
愛智より明日の飯って感じで、あんま好きになれないんだよね。コレ系統の人たちはさ。

828:考える名無しさん
12/07/03 07:16:26.01 0
>>825
いいですよ。どうぞ。

といって私は、ウパニシャッドやヴェーダーンタは得意じゃないので時間がかかりますが。

できれば仏教中心でお願いします。


829:考える名無しさん
12/07/03 07:44:16.09 0
TAT TVAM ASIって よくわからないんですけど 梵我一如の事ですか?

830:考える名無しさん
12/07/03 08:52:45.23 0
>>829
そう。tat(それは)tvam(お前)asi(だ)

「それ」梵、「お前」が我。

いろいろヴァリエーションがあって、 so 'ham それは私だ。とか。

マハーヴァーキャ(大格言、偉大な言葉)とか言われてるものです。
URLリンク(www.boreas.dti.ne.jp)

起源はウパニシャッドで、ヴェーダーンタが重視します。

まさにこのタイトルの論文が井筒俊彦『イスラーム思想史』に収録されてます。
といってもインドについて冒頭の部分だけで、本論はスーフィーのバスターミー

単純にいうと現象はマーヤー(幻)で我は梵(実在)であるという捉え方。
つまり、現象と実在で西洋だとプラトニズムやドイツ観念論、神秘主義が典型でしょう。

そして仏教ではそれは以下のように聖者の分類に入り、解脱には至らないとされます。
URLリンク(www28.atwiki.jp)

831:考える名無しさん
12/07/03 10:16:53.94 0
>>830
>単純にいうと現象はマーヤー(幻)で我は梵(実在)であるという捉え方。

ここで言う「我」ってどいうこと?

832:考える名無しさん
12/07/03 10:36:03.51 0
>>831
諸説あるが、世界と私という場合の私だと思います。


833:考える名無しさん
12/07/03 10:43:27.21 0
>>832
梵我一如の「我」って、真我の「我」・・じゃないの?
自我とか肉体人間の「我」・・じゃないよね?

834:考える名無しさん
12/07/03 10:59:56.70 0
>>833
そう解釈されるけど、私は上のような解釈が本質だと思う。
その理由はウパニシャッドの原文がそうであり、『梵網経』などの仏教文献もそう解釈するように、
世界と私という意味に還元されると思うから。これは現象としての意味で、実在を示す記号とは捉えないという意味です。



835:記憶喪失した男
12/07/03 11:00:11.12 0 BE:1642450638-2BP(3)
質問が来てます。

86 :ジャネットです:2012/07/03(火) 06:23:49.73 発信元:175.135.181.131
お手数ついでに、同スレにはヨーロッパ中世にも詳しい人がいるようなので、
暇なときに、質問しておいてください。

ヨーロッパ文化史は、古くなると、ほとんど知らないのですが、thing in itself ないし、things in themselves
こういうのは、英国では、「ヌーメノン」のことをいうのに、神学哲学などでは、誰でも使っていたということはないんですか?
それともロックにかかわるエピソードみたいなものでもあるんでしょうか。それとも英語で著述するようになったことと関係ありますか?


87 :ジャネットです:2012/07/03(火) 08:11:08.74 発信元:175.135.181.131
もう一つ、充足理由律の今日的な意義というものが何かあれば、
書いていただけますか。

以上。

記憶さんも忙しいでしょうから、たまにしか書きません。ご苦労様でした。

836:記憶喪失した男
12/07/03 11:33:21.28 0 BE:2189933748-2BP(3)
>>833
真我ってなんすか?
宗教ですねえ。

837:考える名無しさん
12/07/03 19:18:30.21 O
「真」と付くと宗教っぽくなる

あらゆる主観にとって、自分から見て絶対的なものは自己
運動しようが静止しようが不変的

838:考える名無しさん
12/07/03 19:55:43.21 0
>>あらゆる主観にとって

主観がいくつもあるように読めるのだが、主観って普通一つしかないよね。

839:考える名無しさん
12/07/03 19:58:15.24 0
>>813
>いや~、これだと神秘主義になっちゃうよ。

どこがどう「神秘主義」であるのかを説明しもせずに、ただ「神秘主義」としてしまうから、
君は単純だとか日本語がへんだとか言われるw

「有」と「無」のように二分して、そのようにして二分されたものを固定化する二元的思考法を、へーゲルは「抽象的悟性の立場」と呼んだ。
二分されるからには、二分される以前のものがあるはずであり、「有」「無」として二分される以前のものを「成」と考える。
そのどこが、「神秘主義」なのか・・・
君は「有無という二項を絶対と見ている」として、それを「西洋思想的枠」として単純化してしまっている。
そういう単純化がおかしいことを示す例として、僕はへーゲルの考え方を挙げたわけだ。

ニーチェでもいいのだが、君に言わせればニーチェも「神秘主義」なのかな・・・
唯一の「仏教」なるものがあると思っているらしい君には、ニーチェの次の言葉を贈りたいw
「『認識』という語がそもそも意味をもつかぎりでは、世界は認識し得る。だが世界は別な風にも解釈し得るのだ。
世界は背後に一つの意味を携えているのではなく、無数の意味を携えているのだ。遠近法主義。」
唯一の「仏教」があると思うなら、ニーチェに言わせれば、それは「背後世界論者」だろう。

840:考える名無しさん
12/07/03 20:04:50.77 0
>>839
もういいは、あんたは


841:考える名無しさん
12/07/03 20:07:19.49 0
中観派の仏教観(中観派に限らないかもしれないけど)って、いかなるものであろうと、
西洋の論理、定義に当てはめられることを極度に嫌うよね。それこそ、拒絶って感じに。

842:考える名無しさん
12/07/03 20:09:45.80 0
>>841
西洋vs東洋、という図式がすでに二元論的であり、胡散臭いわけだが・・・w

843:考える名無しさん
12/07/03 20:16:15.32 0
西洋が、仏教などに興味を持つのも、仏教が西洋的な物に拒否感を持つのも、
結局、互いが互いにコンプレックスがあり、本質的には、同じである。
つまり、一元論であるように思う。

844:考える名無しさん
12/07/03 20:23:50.24 0
>>841
拒絶しているといってもいいかもしれません。

しかし、それはこういう見方であるというものではないから仕方ないでしょう。

西洋で私が知る限り最も中観に接近するのはピュロン、セクストス。

恐らくピュロンはインドで仏教を教わっているからでしょう。

西洋人は四句分別がアリストテレスにも見られるから、そうではないという学者が大勢だけど、
四句分別という論理形式を知ってるだけでは違うんです。
その四句分別によって戯論寂滅に導くところが、正に仏教。

>  懐疑主義とは、いかなる仕方においてであれ、現れるものと思惟されるものとを対置しうる能力であり、これによってわれわれは、
>  対立[矛盾]する諸々の物事と諸々の言論の力の拮抗のゆえに、まずは判断保留にいたり、ついで無動揺[平静]にいたるのである。[金山弥平『ピュロン主義哲学の概要』9]

この「対置、対立、矛盾」と訳されている言葉が難解ですが、『概要』1.202

>  「対立[矛盾]する」を一般的に「抵触する」という意味に解し、

『概要』1.203

>  「ドグマティスト流に何ごとかを立論するあらゆる言論に対して、―信憑性と非信憑性の典で前者の言論と同等で、それと抵触する言論―をわれわれは対置する[対立させる]ことにしようと言っているのである。

という用法から対論者の主張に対立する言論を述べて矛盾に導くことと考えられます。すると、懐疑主義とは現象と思考を矛盾に導くことで断定を止め静寂に至るといった意味になり、正に戯論寂滅で仏教が伝わっていると考えるべきでしょう。



845:考える名無しさん
12/07/03 20:41:43.64 0
>>844
私の仏教に対する理解は、八宗綱要ぐらいしかないから、難しいことはわかりませんが
>>懐疑主義とは現象と思考を矛盾に導くことで断定を止め静寂に至るといった意味になり、正に戯論寂滅で仏教が伝わっていると考えるべきでしょう。
を読む限り、カントの
「哲学を独断論の浅瀬に乗り上げることから救ったが、懐疑論という別の浅瀬に座礁させた」
という言葉通り、戯論寂滅とは、まだ浅瀬である様に思えます。

846:考える名無しさん
12/07/03 20:44:22.60 0
>>845
>「哲学を独断論の浅瀬に乗り上げることから救ったが、懐疑論という別の浅瀬に座礁させた」

懐疑論とピュロンを捉えるのは間違いだと思います。

847:考える名無しさん
12/07/03 20:49:18.74 O
これこれが真我…真の~と言っている辺りからして、自分探ししてる人

どの視点から捉えても、共通しており変わらない、大前提的なものは自己…思索による経験的事実

848:考える名無しさん
12/07/03 20:53:07.33 0
>>大前提的なものは自己…思索による経験的事実

これってつまり、デカルトのコギト・エルゴ・スム?

849:考える名無しさん
12/07/03 20:55:38.67 O
自身の日常の苦痛・悩みを解決していく人は、「真我」「真理」などという言葉を使わない

宗教的でない、これらの人々の思索は、理・我の真なるものよりも、「こう考えたら効率的」「こう捉えれば矛盾しない」という実践的事実の総体である

850:考える名無しさん
12/07/03 21:02:41.61 0
私は仏教なら、道元が好きだ。

851:考える名無しさん
12/07/03 21:03:45.10 O
>>848
それ、大前提でなくて、思考という現象にそれの主体を置いただけ。
思考の大前提としての役に立っているわけではない。自分探し


各主体固有の空間を大前提として運動・思考する
主体の外部の絶対空間に対して動くのではないパターン

852:考える名無しさん
12/07/03 21:18:16.03 0
>>844の人は>>815-822と同じ人?
引用の意図が分からない引用は、くそだよ。
引用の仕方をもっと工夫してみて。

853:考える名無しさん
12/07/03 21:24:03.57 0
どっか他のところに書いたののコピペだろうから読む気もしない。

854:考える名無しさん
12/07/03 21:28:25.55 0
>>851
そうかな。デカルトの物心二元論で考えると確かに
思考と言う現象に主体を置いただけで、思考の大前提として役になっているとはいえないとなるけど。

物心二元論ではなくて、あらゆる物を疑って最後に残った「我」。だけで考えると、
思索による経験的事実として、「真我」に近いものに至ったと言えるのでは?

855:考える名無しさん
12/07/03 21:33:33.24 0
デカルトはあらゆることを疑ったのちに、「疑っているという働き」が存在することを「疑う」ことはできないとした。
それを実体化したのがデカルトの「我」だから、「真我」とかとはあまり関係ないような・・・

856:考える名無しさん
12/07/03 21:37:57.87 0
真我でも偽我でもなんでもいいし
自分に真なんて求めてない

857:考える名無しさん
12/07/03 21:43:50.47 0
>>852-853
引用するだけいいだろ。しょうもない、コメントよりマシ。

ファインにするにはとっても時間がかかる。そこまで要求するなら、まず自分からやってくれ


858:考える名無しさん
12/07/03 21:48:50.46 0
引用するのはいい。
だができるだけ簡潔にまとめてくれ。長くなるなら引用したい場所だけ教えてくれればイイ。
引用箇所の方が自分の意見より多いなら何のための引用かわからん。

859:考える名無しさん
12/07/03 21:51:08.64 0
>引用するだけいいだろ。しょうもない、コメントよりマシ。

そうでもない。引用の意図が分からない引用は、非常にいらいらする。

860:考える名無しさん
12/07/03 21:51:16.83 0
>>858
そりゃ、ロケーションだけでいい人もいるが、
テキストも訳も持ってない人もいるでしょ。

オイラは、本当に読み慣れた一部は別にして、引用があった方がいいは。



861:考える名無しさん
12/07/03 21:57:54.72 0
>>859
引用意図は明解だぞ。以下に対する回答だ。

>>814
>実在性を否定してかかるのにどうしてハイデガーの存在論は支持できるのかか詳しく頼む

詳しくとあるから、ああした。

>>844
の引用意図は、ピュロンが仏教の四句分別による戯論寂滅を伝承している例証に他ならない。
そんなの流れから明らかだと思うが。

それとピュロンを懐疑主義と捉えるのが誤りだというのは、デカルトやカントが用いる意味で懐疑主義と捉えるのは誤りという意味。

つか、なんかもうライプニッツの人以外と話気が失せるは。

862:考える名無しさん
12/07/03 21:59:14.91 0
>つか、なんかもうライプニッツの人以外と話気が失せるは。

去れ。

863:考える名無しさん
12/07/03 22:04:20.20 0
認識論はヒュームの帰納法への懐疑で話全部終わってるじゃん

864:考える名無しさん
12/07/03 22:12:26.47 0
引用する場合は、その箇所を引用すること自体に引用者の解釈が入り込んでいる。
引用者がその点について無自覚だと、説明不足になる。

865:考える名無しさん
12/07/03 22:25:42.41 0
>>864
そりゃ、分かるが。

なんで、そこだけ要求高いんだ。

まあ、いずれにしろオヨビデナイなら去るは


866:考える名無しさん
12/07/03 22:29:28.89 0
ばいなら


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