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■ 涅槃の境地の手段としての滅我・無執着を拒絶する
仏教では涅槃の境地に至るために(=苦から解放され、悟りを得るために)、滅我とか執着しない自分を作る。氷上英広
という東大教授の論稿集『ニーチェの顔』(岩波新書)の中の、仏教とニーチェと論じた章を読み返してみた。
仏教を高く評価したニーチェは、最後の涅槃の境地に拒絶反応をあらわにしているという。『道徳の系譜』では涅槃を念頭
に批評していると思われる表現として、「催眠的な虚無感、深い眠りの安らぎ、つまりは憂苦がないこと」としている。それは
ニーチェにとっては消極的にしか過ぎないものを、最高善、最高の境地とし、「無」を神格化しているといって、ニーチェは
涅槃に明白な拒絶をしていると、氷上氏は述べている。
涅槃の境地を拒絶・否定するから、そのための手段であった滅我や無執着に有効性と価値を置かない。仏教研究を熱心に
やったニーチェが基本的な部分で仏教の影響を受けず、我欲を主義とする思想を貫いたのはこのような論理的図式になる
ようだ。
ただ、涅槃の境地というような東洋的な哲学的境地(もしくはスピリチュアリズム)を感受する能力が、ニーチェにはなかった
というのは私の感想。涅槃に限らず、インド・ヨーガ哲学、中国神仙思想、密教などの東洋的な哲学的境地(もしくはスピリ
チュアリズム)の範疇は、ニーチェにとって理解の対象の限界外であっただろう。