12/03/08 04:32:13.50 0
宮台は「知っている」と言うことで自らの知的威信を基礎づけている。
「知っている」と言うことが知的人間の基本的な語り口であると多分思っている。
ところが、私はそういうふうに考えることが出来ない。
「私には分からない」というのが、知性の基本的な構えであると私は思っているからである。
「私には分からない」「だから分かりたい」「だから調べる、考える」「なんだか分かったような気分になった」
「でも、なんだかますます分からなくなってきたような気もする……」と螺旋状態にグルグル回って、いるばかりで、
どうにもあまりパットしないというのが知性の一番誠実な様態ではないかと私は思っているのである。」(内田樹『ためらいの倫理学』)
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これは違うんだなぁ~。
内田は「宮台よりもおれは倫理的だ」といいたいのだろうけど、これだと宮台と
同じだ。
「分かる」という人間に対して「分からない」という立場を意識的にとっている自分を、
「知性の一番誠実な様態」であると自賛するなんてちっとも倫理的じゃない。
むしろなりふり構わない宮台のほうが倫理的な態度としては無謬かもしれない。
読者は内田の本を読んで「知性の一番誠実な様態」を内田とともに共有したと錯覚するだろう。
胸がスカッとするほど気分がいいことはわかる。
だけど「知性の一番誠実な様態」をだれよりもおれが一番保持していると鼻息荒くしている自分の姿って(笑)
ほんとうに倫理的であるかどうか、頭を冷やして考えてみてはどうだろう。
倫理的な姿勢を求めるなんてそんな甘いものじゃない。w
倫理は「おれは倫理的だ」と考えた瞬間、手からするりと抜け落ちてゆく。
内田は「知性の一番誠実な様態」をおれが保持していると鼻の穴を膨らませた瞬間、批判している宮台に負けたのだ。
ほんとうに倫理的優位性を保ちたければそのことについて黙っているか、宮台の立場をみとめることでしか
倫理的優位性を掴むことはできない。それはとてもむつかしいことだ。内田は、
ぜんぜん「ためら」ってなんかいないのだ。w