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もはや普通の習慣としてインターネットを開く。すると何かの拍子に朝鮮半島の人々や日本の戦後が生んだ「落とし子」ともいえる在日の
人々に対する強烈で、聞くに堪えないような差別的言動がずらずらと表れる。
声高に「殺せ」「出て行け」とかいう人々は、知っているのであろうか。あの「デモクラシー」がうたわれた大正の時代、関東大震災に際し、
普通の日本人が自らの手で朝鮮の人々を現実に虐殺したことを。
しかも匿名の刃(やいば)は同じ国籍を持ち、同胞である日本人にさえ牙をむく。「反日」「売国奴」。考え方の異なる人々を、「奴」という
一字で人間の尊厳すら否定する。
ネット空間だけの話ではない。テレビや一部メディア、そして教養の標準とされた本屋さんの目立つコーナーに同じ言説が並ぶ。ひたすら
他者を否定し、「日本人」「誇り」などと言い立てている。
夏目漱石の小説「三四郎」の導入シーンが浮かぶ。日露戦争の勝利を経て汽車の中で三四郎はのちの先生と思われる人物に無邪気に
問う。「これからは日本も発展するでしょう」と。
だが先生の言葉は真逆である。「滅びるね」と言ったのだ。「一等国」の仲間入りをしたという世間の風評に、謙虚さを欠き、不遜となった
国の将来への予言と聞いた。
こうした歴史認識は、果たして現在いわれるような「自虐史観」に類似したものであろうか。「自虐」どころか、むしろ歴史を直視する一つの
「知性」ではないか。
戦後世代は現場で取材を積み重ねるごとにこう思う。人を殺すか、殺されるかの選択は人を人でなくしてしまう。だから戦争は絶対悪なの
だと。そしてそれほどの悪がこの世からなくならないのはなぜなのか。
「自虐史観」などと他者の価値観を否定し、自説を強調する人にも問いたい。民主主義とは少数者の意見を尊重することであり、それなしに
自らの意見も尊重されることはないのではないか。
ソース:高知新聞 2015年01月03日08時08分
URLリンク(www.kochinews.co.jp)
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