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寛容という言葉は、他者を受け入れること、意見の違いを認めること、と辞書にある。そうありたいと願うが、人はしばしば排他的になる。
ここに一つの難問が生まれる。不寛容に対しても、人は寛容であるべきなのか
▼そうだと明言したのは、仏文学者の渡辺一夫だ。当欄で先日触れた『敗戦日記』の著者は、戦後の随筆にこう書いた。
不寛容な姿勢で他者に臨むのは「むしろ相手の不寛容を更にけわしくするだけである」
▼渡辺は古代ローマ社会でのキリスト教弾圧を念頭に考えた。
すなわち自分とは異なる思想を抹殺しようとすると、かえってその思想を生かすことになる。
なぜならそれは、相手に「殉教者」の立場という、抵抗するための強力な武器を与える結果になるからだ、と
▼いまの日本社会における不寛容といえば、在日外国人に対するヘイトスピーチだろう。
人種差別を扇動する憎悪表現である。
国連の人種差別撤廃委員会は先月末、これを法律で規制するよう日本政府に勧告した
▼政府はこれまで、表現の自由を理由に法規制には慎重だった。
不寛容にも寛容で臨む態度と一応はみえた。
勧告にどう対応するか。
あろうことか自民党からは、ヘイトスピーチの規制と併せ、国会周辺でのデモや街宣の規制も議論するという話も出た
▼どさくさにまぎれて、市民の正当な言論、表現活動をも抑え込もうという発想ならとんでもない。
そんな不寛容はかえって、市民の声をさらに高めることにしかならないのではないか。
ソース:朝日新聞 2014年9月2日
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