14/06/13 05:47:31.38 LAodZ0ow
ウィキがキムチに改変されまくっているな
負けの記述は元軍。高麗軍の記述はホルホル
元寇
URLリンク(ja.wikipedia.org)
『高麗史』による戦況
『高麗史』金方慶伝によると、元軍は三郎浦に船を捨てて、道を分れて多くの日本人を殺害しながら進軍した[135]。
進軍中の都督使・金方慶率いる高麗軍(三翼軍)の一翼である中軍に日本兵が攻撃を仕掛けてきたが、金方慶は少しも退かず、
一本のかぶら矢を抜き厲声大喝すると、日本兵は辟易して逃げ出した[135]。追撃した高麗軍中軍諸将の朴之亮・金忻・趙卞・
李唐公・金天禄・辛奕等が奮戦したため、逃げ出した日本兵らは大敗を喫し、戦場には日本兵の死体が麻の如く散っていたという[135]。
元軍の総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)は「蒙古人は戦いに慣れているといえども、高麗軍中軍の働きに比べて何をもって加え
ることができるだろう」と高麗軍中軍の奮戦に感心した[135]。
合流した高麗軍は元軍諸軍とともに協力して日本軍と終日、激戦を展開した[163][177]。ところが、元軍は激戦により損害が激しく軍が
疲弊し、左副元帥・劉復亨が流れ矢を受け負傷して船へと退避するなど苦戦を強いられた[163]。やがて、日が暮れたのを機に、元軍は
戦闘を解して帰陣した[163]。
変更履歴
URLリンク(ja.wikipedia.org)