【歴史】元寇・文永の役…モンゴル・朝鮮(元・高麗)軍が日本で行った“殺戮”、日本の武士「勇敢にして死をみること畏れず」[06/08]at NEWS4PLUS
【歴史】元寇・文永の役…モンゴル・朝鮮(元・高麗)軍が日本で行った“殺戮”、日本の武士「勇敢にして死をみること畏れず」[06/08] - 暇つぶし2ch1:Hi everyone! ★@転載は禁止
14/06/08 08:34:28.91
ソース(MSN産経ニュース) URLリンク(sankei.jp.msn.com)

 今から740年前、中国全土をほぼ手中にし、日本も従属させたいモンゴル帝国(元)皇帝のフビライ・ハーンは朝鮮半島を治める
高麗と連合で3万以上の兵を派遣する。元寇(げんこう)と呼ばれる日本本土が2度にわたり侵略を受けた事件である。対する日本は
鎌倉幕府執権・北条時宗の命で集まった御家人ら約1万人。武勲をあげて所領拡大を目指した御家人らの士気も高かったが、
兵力の差もさることながら、集団戦法と未知の兵器を前に日本の武士は次第に翻弄されていった。

■突貫作業

 元への服属を求めるフビライの国書を携えて日本に渡った使節がたびたび追い返されたため、業を煮やしたフビライは武力による
日本進攻を決意。軍船を造るにあたって、文永11(1274)年1月、戦艦300隻など軍船の建造を高麗に命じている。

 平成23年、長崎沖の海底から弘安4(1281)年の2度目の元寇で使ったとみられる沈没船が見つかっている。ほぼ完全な状態
だったため復元してみると全長が27メートルに及んだ。

 これは当時の海外渡航用の貿易船と同じ構造で、一隻で100人程度の兵士が収容できる規模だったといい、1回目の進攻作戦でも
このような船を求めたことだろう。

 だが、日本に大船団を出すのに風向や潮の流れなどを考えると、建造期間は半年しかなく、元が派遣したホン・タグの指揮の下、
高麗は約3万人の労働者を動員して、昼夜関係なく突貫に次ぐ突貫の作業だったという。

 その様子は、「疾(はや)きこと雷電のごとし。民、これに苦しむ」などと表現されている。

 しかし、このときの現場を監督するキム・バンギョンは、強固な船だと期限内の完成は難しいと判断。費用が安くて簡単な構造の
高麗船でしのぎ、期間内に高麗が造った船は大小900隻に達する。

 そして総司令官のキントが着任後の10月3日、総勢3万人以上からなる兵を収容した船団は合浦(がっぽ)(現在の大韓民国馬山)
から出港する。兵の3分の2はモンゴルと中国で、あとの3分の1が高麗だった。

■上陸許す

 連合軍の船は、戦艦のほか上陸用舟艇、補給船などからなり、日本近海は巨大なマストがたなびく、おびただしい数の軍船で
埋め尽くされていた。

 時宗も高麗へ送り込んだスパイから間もなく攻めてくることを察知し、上陸が予想される九州北部の日本海沿岸に兵を配するも、
まずは数で圧倒されることになる。

 10月5日、対馬の小茂田浜に上陸した元・高麗連合軍により、島を守る対馬守護代、宗資(助)国ら80人の兵や島民はことごとく
殺害される。

 壱岐でも惨殺を繰り返し九州沿岸に迫ってきた連合軍に16、17の両日、肥前・松浦や平戸島、鷹島などが次々に攻められ、
討たれた兵の数は数百にのぼったともいわれている。

 対馬、壱岐での敗戦の報に接した御家人らはただちに九州の拠点・大宰府へ向かい、その結果、九州の御家人を統括する鎮西奉行・
少弐資能(しょうにすけよし)の3男、景資(かげすけ)を総大将に集まった兵は約1万人。

 だが、元・高麗連合軍の動きは早く、20日に主力部隊の博多上陸を許す。3方から上陸する兵力は2万人で、日本側の数はその半分
に満たなかったのだが、それでも士気は高かった。

>>2以降に続く)

写真=元寇での福岡・鳥飼潟の戦いを描いた図
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
写真=生の松原の防塁前を、馬に乗って堂々と行進する竹崎季長
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
地図 URLリンク(sankei.jp.msn.com)


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