14/05/12 11:48:24.30
アフガニスタンで従軍取材を行うためパキスタンに立ち寄ったときの話だ。
ビザの発給を受けるため首都のイスラマバードに3日間滞在していた際、ある韓国食堂で思いがけない歓迎を受けた。
思いのほか豪華な食事が提供され、その心遣いが身に染みた。これぞ「韓国人の情」かと思ったが、これは思い違いだった。
イスラマバードには19人の韓国人が在住しているが、彼らは10人のグループと9人のグループに分かれて対立していた。
双方の拠点は現地に2カ所しかない韓国食堂だった。一方は1人違いで不利な状況にあったのだが、
そこに記者がやって来たのだから、まさに貴人のような扱いを受けたのだ。
短い時間に多くの話を聞くことができたが、実際はどれも相手への悪口だった。
3日後に記者が現地を離れる際、食堂経営者の表情は何か悲しそうに見えた。
高麗時代、鄭知常(チョン・チサン)が「君を送る南浦で悲しみの思いがわき立つ(送君南浦動悲歌)」と詠った時も、
このような表情だったのではないだろうか。
日本には二つの韓国人団体が存在する。一つは在日本大韓民国民団、いわゆる民団で、これは1946年に設立された。
一方の在日本韓国商工会議所、いわゆる韓商は1962年の設立だ。いずれも日本における法的・経済的差別の撤廃に向け互いに協力してきた。
ところが双方はここ3年以上にわたり対立を続けている。
その理由は今や4代目の時代に入りつつある在日同胞のアイデンティティーと関連してさまざまな示唆を与えてくれている。
民団は1970年代以降、韓国政府から年間80億ウォン(現在のレートで約8億円、以下同じ)の支援を受けてきた。
対立のきっかけとなったのは、在日韓国人の文世光(ムン・セグァン)元死刑囚による
陸英修(ユク・ヨンス)氏(朴正煕〈パク・チョンヒ〉大統領の妻)暗殺事件と、
万景峰号(マンギョンボン)号による在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業だった。
この頃の民団は在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)に比べて日本国内における勢力や影響力が弱かった。
この状況を転換するため、朴正煕大統領が国民の血税を使って民団を支援したことが、今日に至る民団と韓商の対立のきっかけとなった。
朴正煕大統領による支援の効果は大きかった。朝鮮総連系が少数派となり、在日同胞の故郷訪問実現といった成果も出た。
しかし1980年代以降になると、民団は新たな活動方針を打ち出せなかった。
たとえば朝鮮総連系の学校は今も日本国内に80校近くあるが、韓国系の学校はわずか4校しかない。この数字も多くのことを示唆している。
2014/05/12 11:20
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