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日本のメディアでは、あたかも羅援(ルォ・ユェン)が習近平と裏でつながって国策を示唆しているようなことを発信する
傾向にある。先の中国の防空識別圏設定に関しても、羅援が「2013年年2月から決まっていた」という趣旨のことを
言ったのを理由に、まるで羅援が防空識別圏設定を習近平に提言したかのごとき情報が日本で一時、飛び交って
いた。これがいかに事実と乖離しているかは、本コラム第11回『<遠藤誉が斬る>中国「防空識別圏設定」の真相
―1年前から計画していた!』を読んで頂ければ自明だろう。そこで本稿では、羅援がどのような人物で、中国に
於いてはどういう位置づけなのかをご紹介したい。
2014年1月1日、中国のネット空間に「2013年度 中国人渣排行傍(中国人クズランキング)」というのが湧いて出た。
数多く転載されたものの、一瞬で削除されたが、興味深いことに「中国人のクズ」として選ばれた100人の中に、なんと
羅援が堂々の「トップ10」入り!日本の一部で重要視されている「大物?」は、中国国内では形無しだ。
羅援は1950年代に羅青長の三男として四川省で生まれた。羅青長(現在95歳)は中央調査部(国家安全部の
前身)の部長を務めたことがある軍人だ。文化大革命(文革)(1966~76年)のときには「走資派」(資本主義に
走った者)として批判の対象となり、羅援を含めた息子たちは日陰の身となった時期がある。
羅援は父親が日中戦争(中国では抗日戦争)に参戦していたため、小さいころから軍人になることに強い憧れを持って
いた。しかし走資派の息子が中国人民解放軍に入隊することなど許されるはずもない。羅援は羅青長の戦友の助けで、
僻地の生産隊に入隊するのがやっとだった。生産隊というのは僻地の開墾や牛飼いなどの世話をする重労働訓練だ。
文革が終息したあとは、中国軍事科学院で仕事をするチャンスに恵まれた。中国には中国科学院、中国社会科学院、
中国医学科学院、中国農学科学院……など、多くの科学院(アカデミー)があるが、中国軍事科学院はその中の
一つであって、特殊な存在ではない。
羅援はやがて軍事科学院の研究員(大学院教授相当)に昇進し、その中の専攻過程の一つである世界軍事研究部
副部長になる。中国人民解放軍には、合唱隊や楽団、演劇など、いわゆる「文体人員」と呼ばれる人たちがいる。
実際の戦場で闘う戦士と異なり、後方で文化娯楽に携わる人たちのことを指す。その文化の中には「精神」(イデオロギー)
などの宣伝を担う人もいる。羅援は精神を鼓舞する役割に、学問という分野が加わったに過ぎず、軍人ではない。
しかし羅援は『中国人民解放軍戦史』や『中国人民志願軍戦史』などの本を出版して学会活動に参画したので、
その実績が買われて、2006年に「少将」の肩書を得た。少将の上には中将、上将などの職位がある。
◆名声欲の強いタカ派軍事評論家
羅援は嬉しくてならなかっただろう。小さいころから憧れていた「軍人」に類似した肩書が付いたのだ。軍人ではなくとも、
より「軍の精鋭」であるような印象を国民に与えたい。
そこで彼は軍事評論家として世に出ることを狙い始めた。それも強硬なタカ派であるほうが目立つ。環球時報はそういった
軍事評論家の評論を載せるのが好きだ。羅援は環球時報を活用して自らの主張を載せるようになった。環球時報に
評論を載せるバリアーは、それほど高くない。やがて中央電視台(中央テレビ局、CCTV)でも軍事評論家として時には
コメントするようになる。
しかし羅援はあくまでも「軍事評論家」に過ぎない。中国共産党の中央委員会の委員(205名)でもなければ、その
候補委員でさえもない。ましてや中央委員の中から選ばれる政治局委員(25名)の中にいるはずもない。中共中央
委員会の下には「中共中央軍事委員会」があるが、もちろん、その委員でもない。
彼の幼少期からの憧れは、この程度では満足しなかった。もっと自分を高く評価してほしい。だから過激な発言をすることに
よって日本のメディアが彼を大きく取扱い、中には「羅援は習近平の幼馴染み」で、あたかも習近平の「ブレイン」であるかの
ごとき報道をするため、羅援にとっては実に歓迎すべき誤報となっていっただろう。
(>>2以降につづく)
レコードチャイナ: 2014年1月10日 3時5分
URLリンク(www.recordchina.co.jp)