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安倍晋三首相がきのう、靖国神社に参拝した。
かつての戦争指導者たちを合祀(ごうし)している靖国神社への首相の参拝は、
先の戦争への真摯(しんし)な反省を出発点にして、戦後日本が積み重ねてきた平和主義の歩みに対し、
国内外で疑念を招きかねない。日本の首相の行為としては、不適切であり、極めて遺憾と言わざるを得ない。
戦禍に倒れた先人たちをどのような形で悼むか。それはすぐれて個人の内面に関わる。
普通の市民がそれぞれの信条に基づき、どこでどんな悼み方をしようとも、何の問題もない。
しかし一国の首相である以上、その行為は何であれ、政治的な意味を持つ。
特に戦没者追悼のあり方は、戦争に対する評価や認識に深く関わるため、
首相の歴史観の表明とも受け止められよう。
そういう視点で見れば、今回の首相の靖国参拝は、国民に深い危惧を抱かせる行為といえる。
戦没者を追悼すること自体は、国民として自然なことだ。国策だった戦争に従軍し、
日本から遠く離れた地で、家族のことを案じつつ死んでいった人々のことを思えば、
いつしか目頭が熱くなる。
しかし一方で、指導者たちは無謀な膨張主義に走り、見通しのない戦争に踏み切ったばかりか、
戦局悪化後も「一億玉砕」を唱えてむなしく犠牲者を増やした。この責任は決して看過できない。
靖国神社は1978年、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯とされた戦争指導者14人を合祀した。
東京裁判の評価は分かれるとしても、悲惨な体験を強いられた日本人や相手国の国民に対して、
当時の指導者の誰も責任がないなどと言えるだろうか。
ごく普通の兵士だけでなく、こうした指導者たちも合わせてまつった神社に、
首相が出向いて頭を垂れる。そのことに違和感を覚える国民は少なくないはずだ。
首相は参拝後「戦犯を崇拝する行為との誤解に基づく批判がある」と述べた。
しかし、首相の参拝は戦争指導者たちの名誉回復を目指す行動とも解釈されるだろう。
最近、国内の保守派の間では、戦争における指導者層の責任や、
日本がアジアに与えた被害について、できるだけ小さく捉えようとする流れが強まっている。
安倍首相は政権復帰後、国会答弁で「侵略の定義は定まっていない」と発言し、物議を醸した。
こうした発言や今回の靖国参拝が、国内外で「日本の戦争責任の否定」と受け止められはしないか。
戦後の平和主義の土台を軽んじるような首相の歴史観には、危うさを覚えずにいられない。
外交的にも、首相の靖国参拝が残す傷は大きい。
中国と韓国の政府は、参拝を受けて強い抗議と非難を表明している。
今後両国では政府やメディアが激しい批判キャンペーンを行い、それに呼応して国民の対日感情が一段と悪化するのは必至だ。
中韓両国による批判は、逆に日本国内では「何が悪い」との反発を呼び、批判と反発の連鎖を引き起こすだろう。
首相の靖国参拝は、「中韓が反発するからやめた方がいい」などというものではなく、
日本と中韓の双方でナショナリズムをあおり、不毛な対立を激化させるところが問題なのだ。
そうなってしまえば、冷静な外交が困難になる。
中韓への配慮を求めていた米国も、参拝について「失望している」と表明した。この米国の反応が国際的な評価を代弁している。
首相は参拝後「気持ちを(中韓の首脳に)直接説明したい」と語ったが、
中国や韓国との首脳会談の実現は、限りなく遠のいた。
安倍首相は「(第1次政権の)首相在任中に参拝できなかったのは痛恨の極み」と話していた。
個人的な信念を実現し、本人は満足かもしれない。しかし、その代償がどれだけ大きいか、理解したうえでの行動だったのだろうか。
特定秘密保護法への対応を見ても、最近の安倍首相には、反対意見を正面から押し切る強引さが目立つ。
自分の歴史観に基づく行動が、国際的には批判されても、国内で支持されればいいと考えているのなら、
日本は国際社会で孤立しかねない。首相はもっと謙虚な姿勢で歴史と向き合うべきだ。
=2013/12/27付 西日本新聞朝刊=
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