13/11/10 00:25:10.37 XbLPFJYj
>>55
日本人はこれまで、かつて朝鮮半島には「李氏朝鮮」という国家があったという様に学校で教えられてきた。
この認識の下では、「李氏朝鮮」時代の朝鮮半島において、なにゆえ少数の両班のみが特権階級で、
それ以外は全て奴隷であったかについて、その理由を理解する事は出来ない。
ところが文禄・慶長の役(1592年-1598年)の際、幕府は朝鮮を「国」として認識していなかった。
当時の幕府の認識では、朝鮮半島という処は、★明と通じた「李氏」という暴力団★が、
朝鮮半島内を縄張りにして、身勝手な暴虐暴政を行っているだけの地域でしかなかった。
朝鮮とは、暴力団の「李一家」が一般民衆を虐げて、自分達は働かずに、飲んだり食ったり強姦したり少女を誘拐して犯したり等して、のうのうと暮らしている無法地帯だったのだ。
そう考えると、全てに納得が行く。
朝鮮の当時の様子を描いた絵の中に、農民達が働いている側で、のうのうと横になって見物している太った男が出てくるが、
あれは当時の絵師(職人)が、農民達の悲哀と「李一家」への恨みを描いたものなのだ。
文禄・慶長の役で、「戦時捕虜」として日本に連れて来られた支那人、朝鮮人がいた。
日本が朝鮮半島から連れてきたのは、儒家と技術者(陶工)。このうち、支配階級の
儒家は、ほぼ全員が帰国を希望した為、朝鮮に送り返した。しかし、支配される側の
陶工は、その多くが朝鮮帰還を拒否し、自らの意思で日本に残った。
陶工は、朝鮮では白丁(奴隷)であり、「李一家」らによる収奪の対象であり、最下層の賤民として虐げられていたからだった。
「李一家」が望む物を強制的に作らされ、少しでも反抗したり、作った物が「李一家」の気に召さなければ、極めて残酷な拷問が科せられていた。