13/11/02 14:45:16.06 cygB6fOk
>>572
お前さ、とりあえずこれ読んでみw
<2007年 日中越国際会議の「東アジアの文化交流―仏教と水田稲作の伝来>
URLリンク(www.hokkai.ac.jp)
昨年12月、ベトナムのホーチミン市で開催された日中越国際会議の「東アジアの文化交流―仏教と
水田稲作の伝来」(川端)では、これまで大陸から朝鮮半島を経由して伝来したとされてきた仏教も稲作も、
新しい科学的な年代測定により、中国南方からの直伝が確実視されることが報告された。
仏教については、基本的な用語のほとんどが中国南朝の呉音の読みなので、日本の仏教が江南から伝来
したことは疑いなかったのであるが、さらに2001年、年輪年代法により、法隆寺の中心柱の伐採が西暦594年と
断定され、寺院建築もまた南朝から伝来したことが確実となった。
その当時の南朝尺で、法隆寺の用材の寸法がとられていることが判明した。これまで飛鳥様式といわれてきたのは、
実は中国ではすでに失われてしまった南朝様式を今に伝えるものだったのである。
水田稲作についてもまた、2003年になって、ようやく日本の国立歴史民俗博物館なども、炭素14による
年代測定を受け入れ、筑紫での水田稲作の開始、つまり弥生時代の始まりが500年も早まり、いまから
2800~3000年ほど前ということになった。韓国ではすでに早くから炭素14による年代測定を採用しており、
百済の水田稲作遺跡は2800年前のものだとされていた。筑紫も百済も、ほぼ同じころに水田稲作が伝来
したことになる。韓国から500年遅れで稲作が伝来し、急速に近畿まで広がったというこれまでの定説は覆った。
500年も狂えば、諸説はすべて根本修正が求められる。
水田稲作の最古の遺跡は、中国江南の越の国、会稽山のふもとにあり、今から7000年前のものである。
そのすぐ北の呉の国には、6000年前の水田遺跡がある。司馬遷の史記が記さない長江文明を支えたのは
苗蛮などの稲作族であった。その稲作族のひとつが半島南部と北九州へ移住したのだと考えられる。
3000年前の伝来といえば、華北では殷が滅び、漢民族の新しい周王朝が誕生したころのことである。
戦国のころ呉越には稲をイネという人々がいて、今も方言で残っているという。
水稲は水辺の多年生植物で、越冬した株から分れ出た新芽を、水を湛えた田に移植して稲作は始まった
のだから、降雨量が少なく冬季極寒の華北を経由してから朝鮮半島を南下し、再び温暖湿潤な日本にまで
やってくるというようなルートは、まったくありえないことであろう。