13/10/04 00:58:46.77
>>1の続き
ヘイトスピーチをする人たちにも、それなりの主張があるらしい。なるほどと思える部分もある。
日本の言論はあまりにサヨク的に傾きすぎていた。時によるとそれは極端に卑屈な姿勢になっていたと、ぼくも思う。
でもその主張を世の中に訴える手法として、新大久保で町を相手にもやもやとヘイトスピーチをしたところで、主張は誰にも届かない。
訴える人たちのイメージが悪くなるだけだ。主張があるなら、顔が見える相手と、相対して議論すればいいのだ。
そういう場をつくってはっきりした相手にものを言うなら、その議論は何かを生むはずだ。暴力を使わずに喧嘩すればいい。
ヘイトスピーチは喧嘩にさえなってないから何も生まない。
ぼくは友だちがいるから、在日韓国人に酷いことは言えない。言う気にならない。
友だちだから、自分が言われる側になったことを想像するのだ。想像してみると、それがどんなにイヤな気持ちかが分かる。
同じ国で一緒に暮らしているはずの人びとに言われたら、さぞかし悲しいだろう。
ヘイトスピーチを行なう人たちはだから、友だちとは言わないまでも、顔と名前がわかってる相手に対し、
ヘイトスピーチという形ではなく堂々と主張を言えばいいと思う。うっ屈をぶつけるのではなく、
何かを生み出すために議論できれば、きっと何かにつながるはずだ。
それができないなら、自分のヘイトスピーチが自分に返ってくるだけだろう。
コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家 境 治