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「新しい国へ」「グレートリセット」と語気を強める政治家が拍手を浴びる、戦後68年目の夏。
私たちは「何か」を、なかったことにしたがっているようだ―いったい、何を? そして、なぜ?
戦後日本が大切に紡いできた「平和と繁栄」の物語の読み直しに挑んでいる、社会思想史家の白井聡さんに聞いた。
―歴史認識をめぐって、みんなが言いたいことを言うようになっています。
「タガが外れた」感がありますが、これまで何が、日本社会のタガとなっていたのでしょう。
「それは、戦後日本を象徴する物語たる『平和と繁栄』です。『中国や韓国にいつまで謝り続けなきゃならないのか』
という不満に対して、『これは遺産相続なんだ』という説明がされてきました。遺産には資産と負債がある。
戦争に直接責任がない世代も戦後の平和と繁栄を享受しているんだから、負の遺産も引き受けなさいと」
「しかしいま、繁栄は刻一刻と失われ、早晩、遺産は借金だけになるだろう。だったら相続放棄だ、という声が高まっています」
「そもそも多くの日本人の主観において、日本は戦争に『敗(ま)けた』のではない。戦争は『終わった』のです。
1945年8月15日は『終戦の日』であって、天皇の終戦詔書にも降伏や敗戦という言葉は見当たりません。
このすり替えから日本の戦後は始まっています。
戦後とは、戦前の権力構造をかなりの程度温存したまま、
自らを容認し支えてくれるアメリカに対しては臣従し、侵略した近隣諸国との友好関係はカネで買うことによって、
平和と繁栄を享受してきた時代です。敗戦を『なかったこと』にしていることが、
今もなお日本政治や社会のありようを規定している。私はこれを、『永続敗戦』と呼んでいます」
―永続敗戦……。言葉は新しいですが、要は日本は戦争責任を果たしていないという、いつものあの議論ですね。
「そう、古い話です。しかし、この話がずっと新しいままであり続けたことこそが、戦後の本質です。
敗戦国であることは端的な事実であり、日本人の主観的次元では動かせません。動かすには、もう一度戦争して勝つしかない。
しかし自称愛国者の政治家は、そのような筋の通った蛮勇を持ってはいません」
「だからアメリカに臣従する一方で、A級戦犯をまつった靖国神社に参拝したり、
侵略戦争の定義がどうこうと理屈をこねたりすることによって自らの信念を慰め、敗戦を観念的に否定してきました。
必敗の戦争に突っ込んだことについての、国民に対する責任はウヤムヤにされたままです。
戦争責任問題は第一義的には対外問題ではありません。
対内的な戦争責任があいまい化されたからこそ、対外的な処理もおかしなことになったのです」
「昨今の領土問題では、『我が国の主権に対する侵害』という観念が日本社会に異常な興奮を呼び起こしています。
中国や韓国に対する挑発的なポーズは、対米従属状態にあることによって生じている『主権の欲求不満』状態を
埋め合わせるための代償行為です。
それがひいては在特会(在日特権を許さない市民の会)に代表される、排外主義として表れています。
『朝鮮人を殺せ』と叫ぶ極端な人たちには違いないけれども、戦後日本社会の本音をある方向に煮詰めた結果としてあります。
彼らの姿に私たちは衝撃を受けます。しかしそれは、いわば私が自分が排泄(はいせつ)した物の臭いに驚き、
『俺は何を食ったんだ?』と首をひねっているのと同じです」
(続く)
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