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(>>1のつづき)
1855年に英国で製作された地図には対馬島と壱岐島は日本王国に含まれないと記述されていて、1945年に韓国
で発行された朝鮮解放記念版最新朝鮮全図に対馬島を私たちの領土として表記してあったとも明らかにしながら、
2次世界大戦の敗戦国・日本と米国の間の戦後処理のための1951年サンフランシスコ条約で「日本は韓国の独立
を認め、済州島(チェジュド)、 巨文島(コムンド)および鬱陵島(ウルルンド)をはじめとする韓国に対するすべての
権利と所有権および請求権を放棄する」とし、この文案に独島と対馬島は明示されず、李承晩大統領の対馬島返
還要求が失敗に終わったが、当時我が国は交渉に参加できなかっただけでなく、6.25戦争(朝鮮戦争)中にあって
外交的制約が多く、李大統領は1952年に独島を含む平和線(訳註:李承晩ライン)を設定し、 この時対馬島を念頭
に置き、「この境界線は将来究明される新しい発見、研究または権益の出現によって発生する新情勢に合わせて
修正できることを宣言する。」として余地を残したと明らかにした。
日本が釣魚島(日本名:尖閣列島)をめぐり中国との領土紛争には低姿勢を取りながら独島領有権には執拗に食い
下がって国際司法裁判所で調停しようと主張するが、これは明白な韓国の領土でありながら私たちの先祖が守る
ことができずに日本に対馬島を奪われただけに、歴史的、地理的にわが領土を取り戻すためにかえって国際裁判
所に調停を申請し、侵略の罪の意識をすっかり忘れている日本の悪い国民性を世界の人々に明確に知らせなけ
ればならない。最近、大韓民国海洋連盟と釜山経済大学校対馬島研究センターが学界および関係の人々とシンポ
ジウムを開くなど対馬島の返還のための公論化の火をつけていてなかなか幸いなことに違いなく、今後、政界はも
ちろん国民皆が窮極的に対馬島を日本から返還されることへの関心と力の蓄積に参加することを促したい。
(おわり)