【竹島問題】竹島の明治時代地図あった 「明治時代に人が往来する日本の領土だったことを示す貴重な資料」[05/03]at NEWS4PLUS
【竹島問題】竹島の明治時代地図あった 「明治時代に人が往来する日本の領土だったことを示す貴重な資料」[05/03] - 暇つぶし2ch393:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
13/05/05 23:50:27.02 RqYMLnu4
>>375
>『隠州視聴合紀』(1667年)には「日本の西北の限界を隠岐島とする」と記されており

隠岐島じゃなくて「此州」ね。そして「日本の西北の限界を鬱陵島とする」と解釈すべきだと下條教授が論証してます

>「・・・稟議趣旨の竹島(鬱陵島) 外一島(独島)の件に対して、

URLリンク(www.pref.shimane.lg.jp)
1876年、島根県は「竹島外一島」を「管内隠岐国の乾位に当り、山陰一帯の西部に貫附すべきか」として、
「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出したが、太政官は1877年、「竹島外一島本邦関係これなし」とした。
だがここには、判断を誤る余地があった。朴炳渉氏自身、「そのころになると、外国の誤った地図の影響を受け、欝陵島を次第に松島と呼ぶ民間人が増えはじめたのである」
(44頁)とするように、竹島と松島に対する地理的理解が錯綜としていたからである。
それは「太政官指令」等を収録する『太政類典』でも、垣間見ることができる。島根県が提出した「磯竹島略図」には、
伝統的な竹島(現、欝陵島)と松島(現、竹島)が描かれているが、島根県がまとめた竹島と松島に関する記事では、
松島について述べた直後に江戸時代の竹島(欝陵島)に関連する記事が続くなど、欝陵島を松島と誤認する余地があったからである。
その端緒は1840年、シーボルトの「日本全図」に、後に幻の島となるアルゴノート島とダジュレート島が描かれ、
それぞれ竹島と松島の島名が付記されたことにある。その後、竹島(アルゴノート島)は海図等では「未確認」とされて破線で示され、
近世以来、礒竹島・竹島とされていた欝陵島が、松島と表記されることになったからである。
朴炳渉氏がいう「外国の誤った地図の影響」とは、欝陵島を松島とし、竹島を幻のアルゴノート島とした当時の地図を指している。
今日の竹島を松島とした島根県の地理的理解と、当時の海図等に記された竹島と松島とは、明らかに違っていたのである。
  その海図等の誤謬が修正されるのは、1880年の天城艦の測量によってである。松島を朝鮮の欝陵島とした天城艦の報告は1881年6月、
日本人による欝陵島での伐採が問題となった際、外務省の指示で調査した北澤正誠の『竹島版図所属考』に採用され、松島は朝鮮領の欝陵島であったことが判明するのである。
  そこで明治政府は1882年、内務少書記官桧垣直枝を松島(欝陵島)に派遣し、日本人を退去させている。だが朴炳渉氏は、北澤正誠が『竹島版図所属考』で、
松島(欝陵島)を「古来我版図外の地たるや知るべし」とした事実を無視し、1877年の「太政官指令」のみを問題として、
「内務省や外務省、陸軍、海軍、太政官など関係機関が同島を朝鮮領と考えていた」としたのである。


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