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現に、伊藤博文暗殺の一ヶ月後、喪が明けるのを見計らって、韓国国内に当時あった最大与党の一進会が、「韓日合邦を要求す
る声明書」を出しています。この声明は、「日本と韓国が対等な立場で合併することで、新たにひとつの大帝国を作るべきであ
る」という内容です。
しかしこの声明は、世界の嘲笑をかっています。
なぜなら当時の日本と韓国は、国力に雲泥の差があったからです。
日本と対等に合邦するということは、日本と同盟関係にある英国とも「対等な関係」を形成することになります。
文化もない、教育もない、産業もない極貧の有色人種国が、いきなり欧米諸国と「対等」な合邦を申し出る?
失笑をかうのは、あたりまえのことです。
しかしこのことがきっかけとなって、列強諸国から、「日本に韓国の面倒をみさせるべし」という声がではじめます。
ものの本によっては「韓国から合邦を望まれた日本が、諸外国にお伺いをたて、諸国の了解のもとに日韓併合を行った」というよ
うな記述をしているものがありますが、逆です。
どういうことかというと、これには少しばかり当時の世界についての説明が必要かもしれません。現代の価値観と、当時の価値観
が大きく異なるからです。当時の世界は、欧米の白人国家が有色人種を支配するのが「常識」とされいた時代です。
国力のある国家が、そうでない国家を支配する。それがあたりまえだったのです。
韓国は、自らを何も律することなしに、また何の努力もすることなしに、日本に対して「対等な合邦」と言い出したわけです。
これはまさに、人として国家としての「ルール」をまるでわかっていない、つまり自ら「獣」宣言をしたようなものにしかなりませ
ん。ルールがわからない、理解できないということは「獣」である証だからです。
日本は困りきったし、西欧諸国は涙を流して笑い転げます。あたりまえのことです。
結果、欧米諸国は、日本に「韓国の面倒をみてやれよ」といい出します。
「野良犬(もしくは猿?)が、君のとこに妙になついてしまったのだから、まあ、面倒くらいみてやりなさいな」というわけです。
1945年:李承晩は第二次世界大戦の戦勝国として日本に朝鮮半島に乗り込んできます。この時、米国は大きな問題を抱えていました。
中国大陸では支援していた中華民国(連合国中国代表)と中国共産党が日本が負けて空いた大陸の武力闘争が激化します。
米軍はこれ以上の戦争は国民が納得しないため中華民国軍はソ連共産党からの軍事支援と中国共産党の勢いに押され次々と敗退して
追われて行きます。このため、台湾海峡で中国共産党の進軍を止めるために軍事物資は台湾に送ります。また兵士は故郷に戻し、新
たな新兵部隊と入れ替わります。朝鮮半島は連合軍が統治し戦後処理を戦勝国で検討します。この時ソ連は傀儡政権として北朝鮮に
金日成の臨時政府を樹立させ、半島内に共産ゲリラを送り込みます。
そこに李承晩は戻って来ました。
1945年8月に第二次世界大戦において日本軍が連合国軍に降伏したことから、朝鮮半島は北はソ連に、南はアメリカによって管理下に
置かれることとなった。その2ヵ月後の1945年10月に李承晩は帰国し、独立建国運動の中心人物となった。彼は当時すでに70歳であり
他の運動家に比べて活動歴が長いこと、大韓民国臨時政府(以下「臨政」)の初代大統領であった[3]こと、朝鮮建国準備委員会(以
下「建準」[4])に名を連ねたことがある[5]こと、アメリカでのロビー活動によってとりわけ有名であったことから、当初から大統領
に就任すべき正統性を備えているとみなされていた。しかし、李承晩は帰国するやアメリカの意を受けて建準とも臨政とも距離をおき、
反共統一を掲げた。朝鮮には強力な右派が存在しなかったこともアメリカの支持を受けた理由の一つだったと思われる。
李承晩は名声を享受し続けていたものの、実際には外国に滞在していた要人に過ぎなかった。そのため地盤も基盤も富も持ち合わせて
いなかった。これを支えたのが全羅道を本拠としていた金性洙率いる湖南財閥[6]と、それが中心になって組織された韓国民主党(韓民
党)である。韓民党は建準に対抗して臨政を支持していた。一方で、李承晩自身は連合国が決定した朝鮮の信託統治案に反対していた。
>続く