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現代財閥創業者・鄭周永(チョン・ジュヨン)氏の回想
URLリンク(www.viewsnnews.com)(韓国語)
チョン・ジュヨン会長の生前のニックネームが'芸者'だ。
自身の目的を達成するためには相手方に肝も肝臓もみな抜いてくれながらも接近したためだ。
この時からチョン会長は普段懇意にしていた日本K造船の会長に誠心誠意をつくし始めた。
相手方が溶けて落ちる時まで精魂を込めた。
ついに限りない接待に申し訳なくなったK社では会長が"何か助けることがないのか"と話した。
この時、鄭(チョン)会長の要請は"ただ2人の研修生をK造船に1年間だけ受けてくれ"であった。
K社では会長はさっさとこの要請を聞き入れた。
鄭(チョン)会長の下心は明らかに覗き見られるということだったが、
巨大な造船業の実体をただ2人の研修生持って1年内に把握するということは
不可能だという判断であった。
このようにして現代造船の若い二人の職員が日本K造船で研修を受けた。
これらに下された'特命'は簡単だった。
"何でも役に立つだけのことはあったことはみな持って来なさい"であった。
この時から二人の職員は海綿が水を吸い込むように手当たり次第集めて記録した。
不法も拒まなかった。
当時日本は一ヶ月の時一回ずつ我が国の民間防衛訓練と似た、地震待避訓練を受けた。
サイレンが鳴ればすべての職員が待避所に避けなければならなかった。
この時、現代造船二人の職員はお手洗いに隠れていて
誰もいない時出てきてK造船が見せなかった設計図面を
こっそりと取り出してコピーした。
退勤の時にはモンキスパナ一、本もこっそりと懐の中に入れて出てきた。
造船所でボルトナットを引き締める時使うモンキスパナは一般のそれと違ったためだ。
このように集めた資料を休むということなしに国内に送った。
"この時持ってきたのがコンテナ二本分量は充分になった"と創業功臣は伝えた。
こういう過程を経て今日現代重工業は日本の有名な造船所らを抜いて
世界1位の席に上がることができたのだ。