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他国より自国の総括しろや
■ハンセン病院虐殺事件 1945年8月21日
ハンセン病の隔離施設「小鹿島」で園運営をめぐっての対立で
朝鮮人職員らにより入所者患者中自治会員ら84名が虐殺されます。
しかし、まだ朝鮮に駐留していて、
武装解除していなかった日本軍が緊急出動し24日には鎮圧されました。
■麗水・順天反乱事件 1948年10月
済州島事件の鎮圧に赴くはずだった第14連隊の1個大隊が反乱。
反乱軍は人民裁判により、400人以上の警官やその家族などを殺害した。
鎮圧軍は、順天町民5000人を順天北国民学校の校庭に集め(中略)、
人民裁判に積極的に参加した者を一級、消極的に参加した者を二級、曖昧な者を三級とし、
反乱軍と一級をその場で棍棒で殴り殺した。
■国民保導連盟事件 1950年夏
韓国各地で、無抵抗で非武装の国民、合計120万人が虐殺。
殺されたのは国民保導連盟の人達。
国民補導連盟とは、今まで厳罰一辺倒だった共産分子への対応を改め、
自首期間中に、共産党の甘い言葉に騙された人は、
自首して国民保導連盟に所属すれば、罪は問われない、としたもの。
しかし、人民解放戦争(朝鮮戦争)勃発と共に、韓国人によって全て虐殺された。
■大田刑務所虐殺事件 1950年7月始め
朝鮮戦争勃発直後の1950年7月初め、韓国の軍と警察が、
大田刑務所の収監者約1800名を銃殺していたことが、このほど資料的に裏付けられた。
このことは、2000年1月5日、韓国マスコミが、機密指定解除された
アメリカ国立公文書館の文書から「処刑」が確認されたと報道したことにより、明らかになった。
■国民防衛軍事件 1950年冬
死者 数十万人。(詳細は、東亜日報にて連載された。)
中国の人民解放軍が”義勇軍”として介入すると、米韓軍は南に退却した。
このときに、北朝鮮の占領地域に青年達を残してゆくと、北朝鮮側に使われる事になる。
敵を利してはならない。というので、これらの青年を狩り集めて、南に連れて帰った。
この時の受け皿となったのが「国民防衛軍」であった。
しかし、南に連れて帰るとはいっても、輸送手段も無く、宿泊施設も、食料も、衣類も、寝具も無い。
酷寒の中を、ただひたすらに、南へ南へと進んだ。通称「死の行進」「死の南下」数十万人が死んだと言われている。
■居昌事件 1951年春
朝鮮戦争中の1951年2月9日から2月11日にかけて大韓民国慶尚南道居昌郡にある
智異山で韓国軍が共産匪賊のパルチザンを殲滅するためとして、大人(15歳以上)334人と
子供(15歳未満)385人からなる無実の市民を虐殺した
■光州事件 1980年春
5.18光州民主化運動(5.18こうしゅうみんしゅかうんどう)は、
1980年5月18日から27日にかけて大韓民国(韓国)の全羅南道の道庁所在地であった光州市で発生した、
民主化を求める活動家とそれを支持する学生や市民が韓国軍と衝突し、死者170名以上と
多数の負傷者を出した事件。
■漢江人道橋爆破事件 1980年春
1950年6月25日に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が大韓民国(韓国)に侵攻し、韓国軍は後退を続けていた。
避難路を求める市民が漢江の人道橋付近やソウル駅に殺到する一方、
増援部隊の車両は北上を続けており、市内は大混乱に陥った。
6月28日深夜1時、彌阿里(城北区)において韓国軍の防御線が突破され、ソウルの最終防衛線は崩壊した。
参謀総長の橋の爆破命令を受け、28日2時20分ごろ、陸軍本部工兵監(崔昌植大佐)は爆破命令を下達した。
しかし、当時橋梁上には4000人以上の避難民と車両があったにも拘らず韓国軍は避難民もろとも漢江人道橋(漢江大橋)を爆破した。
この爆破で約500~800名と推定される避難民が死亡した。
さらにこの早すぎた爆破のせいで、最前線の韓国軍部隊が退路を絶たれたことを知って、防衛線が雪崩を打ったように大崩壊。