【日韓】 戦争に狂った日帝、必死のあがき「日の丸弁当」~梅干しの赤が広がって旭日旗の様に見える[03/03]at NEWS4PLUS
【日韓】 戦争に狂った日帝、必死のあがき「日の丸弁当」~梅干しの赤が広がって旭日旗の様に見える[03/03] - 暇つぶし2ch1:蚯蚓φ ★
13/03/03 10:03:45.55
[イ・ドクイルの事思史、近代を語る]廃虚と希望⑨崩れるファシズム帝国

「日の丸弁当」というものがある。翻訳すれば「イルジャンギ トシラク」位になるだろう。梅干一つを
弁当のまん中に置くと日の丸になり、お昼時には梅干しの赤い色が広まって旭日昇天旗のように
見えるのだ。

日本はもちろん植民地韓国の学生たちも日帝末期‘日の丸弁当’を作ってくるよう強要された。と
ころがこれは民間団体の主張ではない。1939年8月8日、平沼驥一郎内閣でいわゆる‘国民精神
総動員運動’をより一層強化する次元で毎月1日を‘興亜奉公日’に定め、学生たちに強要したのだ。

また、すべての国民にも汁一杯とおかず一つだけ食べる‘一汁一菜’を要求した。男の長髪を禁
止し女性のパーマも禁止した。学童たちはパーマをした女性が通ると囲んで‘パーマに火がつけ
ばすぐハゲ頭~’など歌を歌いながらからかいまくった。英語追放運動も展開して‘アメリカンフット
ボールは鎧を着てする球技という意の鎧球、パーマは電髪、ペニシリンは碧素’等に変えた。さら
に全国のダンスホールまで全部閉鎖し、全国を厳粛な軍国主義へ推し進めた。

しかし、学生たちの弁当に梅干しを入れて日本軍が戦闘で勝利し日の丸が翻るわけはなかった。
一汁一菜推奨は逆にそれほど物資が不足しているという意味にすぎない。1940年、日本人たち
の新年の挨拶は「豊かですか?」だったと『中央公論』1940年1月号は伝えている。1、2カ月で終
わるという中日戦争は終わりが見えない状況で株価は暴落し、1939年の大日照りで日本西部と
韓国・台湾の米収穫まで減った。

パク・チュングム「朝鮮も志願兵行くようにしてくれ」

本土日本人たちの不満が高まるとすぐに日帝は植民地国民から絞り取って不満をなだめなけれ
ばならなかった。1939年11月の穀物強制買入制度、すなわち供出がそれだ。供出とは穀物など
の生活必需品を総督府で強制的に安値に買いとって日本に送る制度であった。そうでなくても収
奪に苦しめられた植民地国民は供出まで重なって飢えて死ぬ状況になった。(中略)日本に食糧
を供出して植民地韓国国民が餓死状態に陥るとすぐに満州などの地から持ってきた豆粕のような
動物用飼料を供給した。

植民地国民を圧迫したのは供出だけではなかった。日本本土で‘国民の精神総動員運動’をする
局面や植民地は言うまでもなかった。日帝は1941年2月制令第8号で‘朝鮮思想犯予防拘禁令’
を頒布したが、これは‘悪法上の悪法’だった。‘悪法も法だ’という言葉の中には悪法でも守りさ
えすれば身辺の安全を保証されるという意味が含まれる。だが、予防拘禁は何の法違反をしなく
ても勝手に捕まえることができるというまれな法だった。(中略:予防拘禁の説明)

ファシズムが猛威を振るうのはそれだけ終末が近づいてきたという意味だ。植民地の上流層は連
日続く日帝の戦勝ニュースで日本が米国と戦っても勝つと勘違いした。暴力団出身で日本の衆議
院までなった朴春琴が中日戦争直後の1937年8月6日、第71帝国議会で「朝鮮出生の日本人
は帝国軍人として第1線に立って仕事ができないのは真に悲しいこと」としながら朝鮮に志願兵制
度を施行して欲しいと請願したことは日本が中日戦争で勝つと信じて疑わなかったためだ。
(後略:ミッドウェー海戦まで)

ソース:中央日報(韓国語) 戦争に狂った日帝の最後の必死のあがき‘日の丸弁当’
URLリンク(joongang.joinsmsn.com)


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