【朝鮮日報・萬物相】重要な遺跡をごみの山にした韓国人[02/10]at NEWS4PLUS
【朝鮮日報・萬物相】重要な遺跡をごみの山にした韓国人[02/10] - 暇つぶし2ch1:壊龍φ ★
13/02/10 11:43:18.90
 1925年、韓半島(朝鮮半島)には多量の雨が降った。7-9月には4回にわたって集中豪雨に見舞われ、全国の川が氾濫し、647人が死亡した。
家屋や農地などの財産被害は、朝鮮総督府の年間予算の58%に当たる1億300万ウォン(現在のレートで約870万円)に達した。だが皮肉にも、
考古学的には、この災害は二つの恩恵をもたらした。洪水に見舞われた京畿道広州郡岩寺里(現・ソウル市江東区岩寺洞)の漢江沿いでは、
新石器時代の住居跡が発見された。また、その少し下流の同郡風納里(現・ソウル市松坡区風納洞)では、土の中に埋まっていた百済時代の
土城が、一部切断された状態で見つかった。

 百済は高句麗の始祖・東明聖王(朱蒙〈チュモン〉)の三男に当たる温祚(オンジョ)王によって、紀元前18年に漢江のほとりに建国された。その後、
漢城(現在のソウル)から熊津(現・忠清南道公州市)、泗ビ(現・同道扶余郡)へと都を移したが、最も長く都を置いていたのが漢城だった。678年に
わたる百済の歴史の中で、熊津に都があった時期は63年、泗ビに都があった時期は122年にすぎないが、漢城には493年にわたって都を置いていた。
漢城に都を置いていた時代はまた、最近の時代劇で人気が高い近肖古王がその名をとどろかせた時代でもあった。だが、その時代に百済の王宮
だった河南慰礼城がどこにあったかという問題は、長い間謎となっていた。

 1997年、マンションを建設するため発掘作業を行っていたところ、風納土城の深さ4メートルの地層から、百済初期の土器が見つかった。さらに周辺を
発掘したところ、百済時代の遺物が数多く出土した。20坪(約66平方メートル)余りの建物跡からは、瓦や礎石、垂木などが発見されたため、ここに
は民家ではなく官公庁が置かれていたことが判明した。漢城に都が置かれていた時代の百済の王宮だったことを裏付ける遺物は約3万点に達した。
ある考古学者は風納土城について、ベスビオ山の噴火による火山灰に埋まり、1700年後にその姿を現した古代ローマのポンペイに例え「韓国のポンペイ」
と呼んだ。

 国立文化財研究所が最近、風納土城の垓子(城の周辺に設けられた池)を発掘したところ、大量のごみが見つかったという。風納土城の南側の
8400平方メートルの敷地では、深さ3メートルの地点にさまざまな産業廃棄物や一般のごみ数千トンが埋められていた。風納土城が百済初期の王宮
として国民の関心を集めていた時期にも、何者かがごみを投棄し続けていたことになる。

 風納土城は複雑な経過を経て発見され、ようやくその価値を認められた。土城の発掘や保存、研究はまだ始まったばかりだ。だが、韓国国民は
2000年ぶりに姿を現した百済建国の地を、たった10年でごみの山にしてしまった。この地に眠る百済の人々は、世界10位台の経済大国となった現代の
韓国の人々をどう思っているのだろうか。

金泰翼(キム・テイク)論説委員


朝鮮日報/朝鮮日報日本語版: 2013/02/10 06:02
URLリンク(www.chosunonline.com)


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