12/08/20 19:20:55.92 3UNPBxEM
>>264続き
馬韓は扶余を出自とする一族が漢人の大きな交易拠点のひとつ帯方郡を押さえたこと
が王権確立の決め手となり百済となったのだろう。
辰韓は主要交易路から外れた田舎で流れ者が多く統治者を他所から得なければならな
い程遅れていたが、出雲、越との交易を独占した一族が王権を確立し力を蓄えたのが
新羅なのだろう。
弁韓はその地勢が人口の集中を妨げていたことと倭の影響が強く勢力圏下にあった為
に、独自に王権を確立する勢力が育つことなく地方豪族連合体にとどまったのだろう。
これらは中原の王朝と倭国の間の交易に依存しなければ政体の維持がままならず、そ
れらを阻む鮮卑や高句麗の勢力の拡大に苦しむことになった。
高句麗が満州北方にも領域の拡大をしながら本拠を旧漢四郡に置いていたのは交易路
の中心であったからだろう。
南下した高句麗と北上した倭国が半島で対立したのも、交易路の管理者としての縄張
り争いであろうか。