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朝鮮半島史についての覚書
漢代武帝の頃に戦争に明け暮れ支配領域を東西南方に拡大したのは交易路を押さえる
為だった。
南は楚を越え海路でインドに通ずる南越・交趾へ。
西は秦を越え沙漠を歩き西域に至る涼州・敦煌へ。
東は燕を越え沿岸を中継し倭に至る朝鮮・楽浪へ。
東西の交易路は遊牧騎馬帝国の匈奴の影響力を退け北の草原に押し込めた事で実現し
たものだった。
交易路にあった中継地を押さえ改めて植民都市として整備し郡を設置し役所を置いた。
それらは都市の市場を管理し貢を献じさせたり関で徴税することで利益を得た。
東の交易路の目的地は中原には無いものが多くある倭。
逆に倭に無いものが取引の為に中原から持ち出されていった。
遼東や半島は中継地として開発され、都市は漢人の支配下だった。
そこに周辺の異民族も集まってきた。都市に住み着くものあれば周囲に集落を作るも
のもあり、新たに県などが設置されたりと郡域は拡大していった。
前漢から後漢に至る混乱、三国時代と五胡の乱で中原の統治力が後退すると、漢人を
含む植民郡の現地人が交易路維持の為に独自に政体を作ったり、周辺の異民族が富を
求めて都市を押さえたりし、交易利権を巡り勢力争いをするようになった。
これらが半島南部では馬韓、辰韓、弁韓等小国家群となり、遼東の北の山岳地帯の県
から起こったのが高句麗である。