12/05/31 21:30:39.22
【平壌5月31日発朝鮮中央通信】金日成総合大学歴史学部は28日に発表した詳報を通じて、独島が
昔から朝鮮の島であったということを資料を挙げて論証した。
詳報によると、古代はもちろん、三国時代にも高句麗、新羅の住民は鬱陵島と独島に積極的に進出した。
「三国遺事」の「延烏朗と細烏女」伝説は、紀元以後の初期から新羅の住民が東海の鬱陵島―独島を経た
航路に沿って日本の出雲(現在の島根県)地方に進出して先進文化を普及した事実を物語っている。
特に、高句麗が4世紀末から三国統一のための南方進出を強めながら5世紀末~6世紀初めに新羅の
清河地域(慶尚北道浦項市)にまで進出した事実は、この時代に高句麗の人々が鬱陵島と独島を自分らの
領域内に含めたということを示している。当時、高句麗の人々は東海の鬱陵島―独島を経た航路に沿って
日本の能登半島に進出してその南方の長野県と周辺一帯に住みながら日本に自らの先進文明を伝播した。
最近、鬱陵島で高句麗の人々が使っていた高杯が出土したのは、その一端を証明している。
このような事実から、この時期、鬱陵島と独島を含む于山国の住民が高句麗人であったということがはっきりと
分かる。
その後、新羅は北の方に領土を拡張しながら512年に于山国を自らの主権に含めた。(「三国史記」巻4
新羅本紀智証王13年)
こうして、三国時代に于山国は正式に鬱陵島と独島から成り立つわが国の独自の地方行政単位になった。
この時期、独島の初の名に呼ばれた于山島の意味だけを見ても、この島が朝鮮の島であったということが
よく分かる。于山島という名は、高句麗時代の蔚珍県(慶尚北道)の昔の名である于珍也県(「新増東国輿地勝覧」
巻45蔚珍県建置沿革条)に起源を置いている。
于珍也県の「于」は三国時代に上方、上部という漢字の音を移したもので、「珍也」は野原、原野の意味を移した
ものである。于山島の「于」も于珍也の「于」と同じ漢字の音を移したもので、「山」は山という字の意を移したもので
やはり、上方の山、すなわち高い地帯を指している。
したがって、于山は于珍也県の名と同じ言葉である。
鬱陵島の初の名である武陵、羽陵という名も于山の名と同様、于珍也県の名に起源を置いている。
このような地名の由来は、当時、鬱陵島を開拓して住みながら鬱陵島を地元の名のように武陵、羽陵と呼んだ
于珍也県(蔚珍県)をはじめ東海岸のわが住民が春、夏、秋の季節に独島に渡って魚獲りをしながら独島にも
やはり、地元の名である「于山(于山島)」という名を付けたということを物語っている。
渤海と後期新羅が並存していた時代になって、于山国は後期新羅に属した。
以降于山国は、わが国の初の統一国家である高麗に所属してその統制下にあったし、12世紀中葉後、
于山国は凋落し、高麗の蔚珍県に編入された。
「高麗史」(巻58)地理誌では鬱陵島について説明しながら、これに対する注解として「于山(独島)、ム陵
(鬱陵島)はもともと、二つの島で互いに距離が遠くないので、天気の晴れた日には眺めることができる」と
添付することにより、両島が切り離しがたい高麗の島、朝鮮の領土であるということを実証した。
>>2に続く
ソース 朝鮮中央通信社 5/31/チュチェ101(2012)
URLリンク(www.kcna.kp)