【北朝鮮】 独島は祖先伝来の朝鮮の領土、金日成総合大学歴史学部が論証 [05/31]at NEWS4PLUS
【北朝鮮】 独島は祖先伝来の朝鮮の領土、金日成総合大学歴史学部が論証 [05/31] - 暇つぶし2ch2:九段の社で待っててねφ ★
12/05/31 21:30:57.89


>>1の続き

 その後、李朝封建国家は初期に鬱陵島への倭寇の侵入が頻繁になったことに関連し、島民を保護、統制
しようとする目的のもとで島を空けておき、その代わりに守土官(調査官)を定期的に派遣して島を調査・掌握、
統制する一時的な「空島政策」を実施した。

 しかし、李朝封建国家のこのような「空島政策」にもかかわらず、蔚珍県をはじめ朝鮮東海岸の住民は
鬱陵島に渡って住みながら、自然を征服するためのたたかいを行い、独島にまで行って漁獲を行った。
(「太宗実録」巻33 12年4月記事、16年9月京仁、17年2月乙丑)

 李朝の前半期に独島は「三峰島」に呼ばれたが、これは15世紀頃に朝鮮東海が住民、特に永安道(咸鏡道)の
住民が独島へ行って漁獲をしながら島を調査する過程に独島に2つの大きな岩の島(東島、西島)とその中に
小さい岩の島があることを発見して新しく付けた名前である。(「成宗実録」巻15 3年2月庚五)

 15世紀に編さんされた「世宗実録」地理誌と16世紀に編さんされた「新増東国輿地勝覧」には、鬱陵島である
ム陵島と独島である于山島が江原道の蔚珍県に属したわが国の島と明白に叙述されている。

 また、李朝封建政府は日本の対馬島主が「居住」「探査」などとして独島をもって狡猾(こうかつ)な術策を
弄するたびに、適時に打撃を与えて彼らの独島侵略企図を断固一蹴してしまった。

 特に、慶尚道東?の漁民安龍福は鬱陵島と独島に対する日本人らの侵略と略奪が強まると、1693年
(粛宗19年)に日本の伯耆藩主を訪ねて談判を行い、彼らをして鬱陵島と独島が朝鮮の島であるということを
確固と認めるようにし、また、当時の日本徳川幕府の関白から書契まで取り付ける果敢なたたかいを行った。

 18世紀末頃になって、一時独島は「可支島」と呼ばれたが、「可支」はオットセイという意味で、この時期に
この島にオットセイが多かったことから由来した。(「増補文献備考」巻1与地考19関防1海防1東海 蔚珍条)

 李朝封建国家は1882年に李奎遠を鬱陵島検察使にして102人が網羅された現地調査団を鬱陵島に派遣して
調査し、これに基づいて陸地の人民を鬱陵島へ積極的に移住させて島の耕地を開拓し、鬱陵島の行政官吏として
島長を任命して派遣した。そして、1883年3月、開花派の中心人物である金玉均を「東南諸島開拓使兼捕鯨使」
(東海岸と南海岸の諸島の開拓と捕鯨を受け持った官吏)に任命して鬱陵島と独島を司るようにし、当時、鬱陵島に
来て不法行為をしていた254人の日本人を全部追い出すようにした。

 李朝封建政府の積極的な対策によって、多くの朝鮮の住民が鬱陵島に渡って住むようになってから当時、
島民は400余戸に1700人に増え、耕地はおおよそ7700マジギ(1マジギは田は150~300坪、畑は
100坪くらい)に及んだ。

 鬱陵島の住民が増えながら、その付属島である独島に対する同島の住民の生産活動もいっそう積極化された。
1904年11月、日本軍艦「つしま」号が独島侵略を狙って同島をひそかに調査して日本明治政府に提出した
報告書に「毎年の夏になると、鬱陵島で多くの人(朝鮮人)がこの島(独島)に渡っては島上に小さな家屋を作り、
付近で漁業に従事する」と記録したのはその一端を示している。

 鬱陵島と独島でわが住民の生産活動が活発に行われ、その反面、独島への日本の侵略と略奪が強まると、
李朝封建政府は1900年10月25日に勅令41号を公布して独島に対する朝鮮の領有権を正式に宣布した。
(「官報」第716号1900年10月27日)

 このように、朝鮮側の史料は鬱陵島と独島が朝鮮人によって初めて発見され、古代から近代に至るまで
朝鮮人民によって開拓され、掌握、利用されたし、同島に対するわが国の主権がたった一度も放棄されたことが
ない、名実ともに朝鮮の島であったということをはっきりと示している。――

以上


次ページ
続きを表示
1を表示
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch