【日韓】強制徴用被害者が語る~2年間の地獄…67年間の恨(ハン)…15年間の法廷闘争…やっと光が[05/25]at NEWS4PLUS
【日韓】強制徴用被害者が語る~2年間の地獄…67年間の恨(ハン)…15年間の法廷闘争…やっと光が[05/25] - 暇つぶし2ch1:水道水φ ★
12/05/26 00:19:11.34
∞2年間の地獄…67年間の恨(ハン)…15年間の法廷闘争…やっと光が
∞日本製鉄強制徴用 被害者 86才 シン・チョンス氏の話
∞17才で金を稼ぎに行ったそこでは
∞12時間の肉体労働ににぎり飯一つ
∞徴用であったし、月給はなかった
∞70を過ぎて法廷闘争を始め
∞‘良心的日本人’らの支援で
∞韓日を行き来して戦ってまた戦って

初勝利の便りに "気分が良い"
"戦える限り戦う、途中で逝くことがあっても…"

 「日本の製鉄所に労務者として行ってくれば、韓国の製鉄所で技術者にしてくれるらしい」 と友人が
話した。 耳をそばだてた。 その時、シン・チョンス(86)氏は17才だった。 故郷の全南(チョンナム)長城
(チャンソン)を離れ、ソウルで日本人が経営する酒場の従業員をしながら苦労して金を稼いでいた時
期だった。 両親と6人の兄弟姉妹で口減らしのために長男であるシン氏は早く独立しなければならな
かった。 「技術を学べば後で良い生活ができると考えたんだね。」

 1943年9月10日大阪、日本製鉄工場でシン氏は凄惨な強制労働を始めた。‘就職’ではなく‘徴用’
だったという事実は後から知った。工場に到着すると日本巡査が‘徴用状’を差し出した。「逃げて
捕まれば身体が動かなくさせる」と工場に配置された巡査が脅した。

 まだ幼かったシン氏は巡査の脅しより空腹がもっと辛かった。 「一日ににぎり飯一つだけで重労働
をさせたんだよ。腹が減ってたまらなかった。」 シン氏は溶鉱炉に燃料を供給する配管を清掃してい
た。 配管の中の熱気で肉が真っ赤に腫れ上がった。 唾を吐けば真っ黒なススが混じって出た。
一日12時間ずつ働いた。 腹は減り仕事をしても金は受け取れなかった。 月給を貯金してあるとい
う通帳は一度も見ることができなかった。

 強制労働は強制徴兵につながった。 1944年のある日、突然身体検査を受けたが空軍服務判定が
出た。 太平洋戦争の末期だった。 「それが私に‘神風’(自殺特攻隊)として出て行けという話だった。」
そのままいれば否応無く軍隊に連行されそうだったので工場から逃げた。 すぐに捕まった。 日本巡
査の脅しは嘘ではなかった。「死ぬ一歩手前まで木剣で袋叩きにされた。その苦痛は口では言えな
い。」 1945年6月、米軍の爆撃で大阪工場が焼け、日本製鉄は韓国人労務者を中国、天津工場に
移した。 強制労働は続いた。 そうしていると8月13日の出勤途中に日本憲兵が出てきて「ソ連軍が
上陸した」と大声を張り上げた。 皆ちりぢりになって逃げた。昼夜歩きとおして汽車の屋根に乗った。
汽車の煙突の熱気で髪も眉毛もみな焼けた。

 三日後にソウルに到着した。 8月16日だった。 その時初めて光復(解放)の消息を聞いた。 月給を
受け取らなければと思った。「大切な青春を戦争のために連行されて行き血と骨を捧げて稼いだ金」
を手にしたかった。 南大門市場(ナムデムンシジャン)にあった日本製鉄の出張所を訪ねて行った。
誰もいなかった。 日本人たちは皆荷物をまとめて日本に戻ってしまっていた。


>>2以降に続く

ソース:ハンギョレ・サランバン 2012年05月25日11:41
URLリンク(blog.livedoor.jp)
画像:年表
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
画像:日帝強制徴用被害者であるシン・チョンス氏が24日午後ソウル、松坡区(ソンパグ)、風納洞(プンナプトン)
    の自宅で日本人後援者が書いた激励文面が入れられた額縁を持ち上げて見せながら明るく笑っている。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)


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