12/05/09 22:24:17.01
URLリンク(s.wsj.net)
▲朝鮮画報の1973年3月号
一部の北朝鮮ウォッチャーが金正恩第1書記の声明やスタイルを解剖し、金氏の性向を判断する手
がかりを探る一方、なかには金氏の祖先に関するミステリーを徹底的に調べる探偵たちもいる。
ジャパン・リアル・タイム(JRT)でも、金氏の祖父とみられる男性について少し掘り下げてみたい。この
男性は朝鮮が日本に占領された1900年代初めに多くの同胞たちと同様、日本に渡るが第二次世界
大戦で日本が敗北した後、朝鮮に戻った。
まず歴史をひもといてみよう。数年前まで、金氏の母方の父は済州島出身の格闘家だと思われてい
た。この格闘家は1960年代に北朝鮮に移り住むまで大阪に住んでいた。彼は北朝鮮の建国の父、
金日成に気に入られ「北朝鮮の柔道の父」として知られるようになったと伝えられていた。
しかし数年前に、韓国本拠の反北朝鮮ニュースサイト、デイリーNKの東京支局長を務めるジャーナリ
ストの高英起氏(以下コウ氏)が、韓国の国家情報院(NIS)が金氏の別の祖父、高京澤を見つけたと
する韓国の報道を調べ始めた。調査のため、北朝鮮寄りの組織が日本で発行している月刊誌、朝鮮
画報のページをめくったと、コウ氏はJRTとのインタビューで明かした。そして1973年3月号の34ペ
ージに高京澤という名前の男性に関する記事を見つけたという。高氏はその頃すでに、大阪から北
朝鮮に帰国していた。
高氏には1960年代に北朝鮮に戻った娘がおり、その娘は万寿台芸術団に所属していた。この2つの
記述は金氏の他界した生母と状況が同じだ。しかし娘の名前が違っている。金氏の母親は高英姫で、
朝鮮画報に載っている名前は高英子となっている。
URLリンク(s.wsj.net)
▲北朝鮮ウォッチャーの間では真ん中の女性が高英姫とみられている(朝鮮画報1973年4月号)
しかし、日本から北朝鮮へ戻った女性たちは、日本女性の名前で一般的な「子」を別のものに変える
ことがよく行われていたと、コウ氏は指摘する。コウ氏は金氏の系譜を見つけたと確信したという。
コウ氏は「間違いなくこれだと思った」と述べた。
JRTも国会図書館で朝鮮画報の記事を確認した。見出しにはこうある。「幸せあふれる わたしの家
庭 咸鏡北道ミョンガン化学工場生活必需品職場 コ・ギョンテクさん一家」。
記事の中で、高氏は自身について、1929年に初めて日本に来た済州島の船頭の三男だと話してい
る。高氏は大阪の「広田裁縫所」で働いていた際、差別に苦しんだという。この仕事は長くは続かなか
ったが、高氏は大阪に残った。
最終的に高氏は、1959年に日本の赤十字社と北朝鮮の赤十字会が合意した帰還協定により、朝鮮
へ帰国した。この時、約9万3000人の朝鮮人が自国に帰還している。
コウ氏によると、広田裁縫所は当時、日本軍の管理下にあり、軍の制服などを製造していたという。
コウ氏は「当時の在日はだいたい軍関係の仕事をしていたわけだから、それほど驚くことではない」と
話す。
仮に高氏が金氏の本当の祖父だとしたら、北朝鮮政権がこれを認めることはないだろうとコウ氏は言
う。反日を掲げる政権にとって、指導者の母親が日本で育ち、祖父は日本軍の制服を作る工場で働
いていたとなると、都合が悪いからだ。
しかし、金氏の系譜が一生明かされないことは残念だとコウ氏は言う。コウ氏自身も大阪育ちの朝鮮
人だ。「純粋に1人の在日女性がその出自、足跡を消されているのがあまりにも不憫(ふびん)だと思
う。それは在日朝鮮人の歴史に対する冒涜(ぼうとく)だと思う」とコウ氏は話す。
記者: Alexander Martin
ソース:ウォール・ストリート・ジャーナル<北朝鮮・金正恩氏のルーツを日本に求めて>
URLリンク(jp.wsj.com)