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∞【在日の歌 半生の記(1)波乱70年】4度も変わった誕生日、今は笑える朝鮮部落 ネズミ、雨漏り、密造酒、養豚、警官発砲…
◇生日(センイル)の それぞれ違う 卒業の 証書を前に 渡日史を追う(平成22年作)
戦時中の昭和18(1943)年5月初旬、現在の韓国慶尚北道を出発し下関に上陸した。3歳のとき
だった。東京の軍需工場で勤務し、先に日本に渡っていた父が迎えにきた。
わたしの生年月日は4回変わっている。結婚前に戸籍を確認したとき、生年月日は18年12月28日
と下関上陸後になっていて驚いた。「渡日したのはいったい誰」ということから、戸籍を修正し、生年を
15年と変更した。しかし、母の記憶では14年が正しいようだ。
■育った日本の文化で、知らざる故国を詠む
この混乱を調べてみたが、理由ははっきりとは分からない。1950年の朝鮮戦争で、役場の書類が
焼失したと教えてくれた人もいたが…。在日韓国朝鮮人の中には生年月日が正確でない人が結構いる。
当時は生まれても育つかどうか分からないため、出生届を後で出すケースが多かったためだ。
戸籍の混乱に加え、両親が学校に届けた生年月日がいい加減だったこともあり、小、中・高校、通信制
の大学の卒業証書の生年月日がすべて異なっており、自分でもあぜんとする。今は年齢を聞かれたら、
「戸籍上は◎歳」と答えることにしている。
◇飛行場の 労務終えたる 父の背を はたき「アイゴー」と 母の口癖(平成11年)
◇摘(つま)みあぐ 土のにおいに おぼろ見る 幼き日々を 朝鮮部落を(平成14年)
渡日してすぐは父が勤務していた東京・蒲田の軍需工場近くで暮らした。間もなく三重県・明野(現・
伊勢市)の陸軍飛行学校に移り、父は土木労務者としてそこで働いた。わたしたち家族は近くの「朝鮮
部落」と呼ばれた地区に住んだ。終戦間近で、来襲した米軍機の機銃掃射で鍋やヤカンに穴が空くこと
もあったそうだ。父たちは特高警察の監視を常時受けていたという。
家は板壁の隙間から隣が見え、夜はネズミやムカデがはい回る一間限りのバラック。雨の日には部屋
中にバケツや鍋を並べて身を寄せ合って過ごした。当時の生活は子供心にも過酷だった思いがある。
◇父たすけ 闇米運びし 昂(たか)ぶりを 今は笑える あれは高一(平成17年)
終戦と同時に、わたしたち家族は、日本を引き払い帰国することになった。ところが、台風襲来により
鉄道がズタズタになったことから帰国予定が頓挫。このため父が一時しのぎに始めたまんじゅう屋が
大当たりし、帰国は遠のいた。大当たりした資金で雑貨店を始め、その後も養豚、水飴製造、密造酒
製造、古鉄商、担ぎ屋など何でもやった。
密造酒を造っていたときには、駐在サン(警察官)がよく家にやってきては飲んで帰った。ある時には、
駐在サンが酔っぱらって拳銃を頭上に発射したこともあったが、どう処理したのだろうか。担ぎ屋をやっ
ていたときには、警察に商品のコメを没収され、うちひしがれた父の姿を何度も見た覚えがある。
>>2以降に続く
ソース:MSN産経ニュース 2012.5.3 18:00
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
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画像:平成17年に日本に帰化した松田圭悟さん。歌名の「曺(=恵の心を日に)奎通」は帰化前の名前だ
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