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●半月城教授の見解
・明治政府は、竹島・松島を日本の領土外とする方針を1905年「リャンコ島(竹島=独島)編入」まで一貫して堅持した
・帝国主義国家として発展した日本は、日露戦争の最中に「時局なればこそ、その領土編入を急務とするなり」との判断から
竹島=独島の領土編入を閣議決定した。その際の名分は、竹島=独島は「無主の地」であるというものであった。これは現
在の日本政府が主張する「竹島固有領土」説と相いれないことはいうまでもない
・官撰の『日本地誌提要』(巻之五十)の「隠岐」において、竹島・松島が本州の属島とは別に記載されたが、これは重要で
ある。両島が本州の属島でなければ、もちろん九州や北海道の属島でもなく、両島は日本の領土外として扱われたと解され
る
・明治時代の地理学者である田中阿歌麻呂もそのように理解した。「明治の初年に到り、正院地誌課に於て其(竹島=独島、筆
者注)の本邦の領有たることを全然非認したるを以て、其の後の出版にかかる地図は多く其の所在をも示さざるが如し、明
治八年文部省出版宮本三平の日本帝国全図には之れを載すれども、帝国の領土外に置き塗色せず」。田中阿歌麻呂も「竹島=
独島」を日本の領土外の島とした。
・竹島・松島に関係の深いすべての政府機関は欝陵島と竹島=独島を朝鮮領と考えていたといっても過言ではない。
・リアンコールト列岩は『朝鮮水路誌』のみに記載され、同じ時期の『日本水路誌』に記載されていなかったのは特筆に値する。
水路部がリアンコールト、すなわち竹島=独島を日本領外とみなした。
※朴炳渉「明治政府の竹島=独島認識」(鳥取短期大学『北東アジア文化研究』第28号)