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金九
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金 九( 韓国語:??、きん きゅう[1]、キム・グ、1876年8月29日 - 1949年6月26日)は、
朝鮮の指導者・教育家、韓国の政治家・右翼運動家。本
1896年 鴟河浦義挙。食事を注文した時に女性の給仕が自分より先に食膳を与えるのを見て憤慨し[5]、
日帝・日本人への懲罰として閔妃殺害にはなんら関係がない日本人・土田譲亮[6]を殺害した。
殺害後金品を奪って逃走、捕縛され、強盗殺人犯として死刑判決を受けた。後に特赦により減刑され、
さらにのち、脱獄する。
アジア歴史資料センターレファレンスコード:A04010024500より。
(以下は抜粋)長崎縣平民土田譲亮なる者朝鮮人1名(平安道龍岡居住林学吉二十歳)を隨へ、
黄州より帰仁の為め鎮南浦へ向ふの途次、黄州十二浦より韓船一隻を?ひ大同江を下り、3月8日夜治下浦に泊し、
翌9日午前3時頃同所出帆の用意を了へ、喫飯の為め同所旅宿業李化甫方に到り再び帰船の際、
同家の庭前に於て同家宿泊韓人4、5名の為め打殺せられたり。
雇韓人林も亦殺害の難に遭はんとせしも、辛ふじて危険を逃れ、同12日夜平壌に来り同所駐留平原警部に
右の顛末を訴へたるを以て、同警部は巡査2名、巡検5名を率ひて同15日現場に臨み検視を行はんとせしに、
右旅宿主人は警部等の到を聞きて逃走し、殺害者の屍体は既に河中に投棄したるを以て検死することを得ず。
自叙伝では次のように記している。
倭奴(ウェノム)の頭から足の先まであちこちを切りつけた。二月の寒い明けがたのことで、氷が張っていた地面に、
血が泉の湧くように流れた。わたしは手でその血を掬って飲み、またその倭(ウェ)の血をわたしの顔に塗り付け…
(『白凡逸志』1947年、日本語版1973年、平凡社、79ページ)