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ルーズベルト(Theodore Roosevelt)は1858年10月ニューヨークの裕福な銀行家の息子に生まれ
1880年ハーバード法大を卒業した後、1901年9月米国の第26代大統領(1901~1909)になった。
彼はロシアの韓半島南進を徹底的に監視し、韓国に対しては無関心と非介入中立政策を追求し、
親日政策で日本を支援した。ルーズベルトは韓国人について「韓国は東北アジアで強大国に戦争
の原因を提供し、韓国人たちは国家が滅びても国家のためにこぶしを一度も振るわない」という誤
った認識を持っていた。
彼は本来、白人優越主義者でアジアの人々を無視した。ルーズベルトが親日本指向を持つように
なった動機は極東地域で米国の国家利益と勢力均衡のためには韓国が保護する価値がない国
家という認識を持ってからだ。韓国で教育家、報道人として活動したマッケンジー(Frederick A.
McKenzie)はルーズベルトが韓国について誤った情報ばかり持って親日政策を行ったと主張する。
当時、米国の極東政策はロシアの韓半島南下を阻止し、満州地域で米国の国家利益を保護しな
がら日本のフィリピン問題介入を阻止することだった。このような米国の極東政策の枠組みの中で
ルーズベルトが親日政策を根本的に追求することになった歴史的事件と日本のルーズベルト親
日派作りの内容などを年代別で調べる。
最初に、ルーズベルトは初めから韓国を無視した。彼は1900年8月、彼の友人スプリング-ライ
ス(Spring-Rice)に送った手紙で「私は日本が韓国を併合することを望む」と書いた。しかし、高宗
(コジョン)はルーズベルトの反韓指向を知らず、1900年から日本の侵略性を憂慮しながら安保を
ルーズベルトに全面的に頼る政策を推進したが、いかなる支援も受けることができなかった。
二番目、ルーズベルトは1900年8月14日中国、北京で発生した義和団事件(Boxer Uprising)で
北京駐在外交官たちと彼らの家族200人余りが義和団に包囲された時、日本軍人が速かに義和
団を鎮圧して外交官たちを救出する勇敢性に感銘を受けた。日本人に対する彼の認識はこの時
から非友好的考えから友好的に転換され始めた。
三番目、日本政府はルーズベルト大統領を親日派にするためにルーズベルトとハーバード法大で
同期の金子堅太郎(Kaneko Gentaro)男爵を1904年2月米国ミズーリ州セントルイスで開催された
世界博覧会に日本代表団長に任命して、博覧会後には日本に帰国せずにワシントンに行ってル
ーズベルトと親密な関係を維持しながら彼を親日指向の大統領にすることを指示した。金子は米
国に行く時、ルーズベルトに渡すプレゼントとして英語で書かれた本3冊と日本人柔道選手を伴っ
た。3冊の英語の本は「武士道(Bushido:日本の魂)」と「英雄的日本(Heroic Japan)」および「日本人
の内面生活(Hinted Echoes of Japanese Inner Life)」等だった。金子はルーズベルトが運動好きな
ことを知って日本人柔道選手から柔道を習うようにした。金子はルーズベルトとワシントンにいる
日本外交官たちとの友好増進のために各種会合と集いをしばしば斡旋した。
四番目、ルーズベルトは当時、米国のアウトルック(The Outlook)新聞の特派員として韓国で露日
戦争を取材したハーバード法大の友人ケナン(George F. Kennan)が送った韓国に関する悪い記事
を多く読んで韓国について良くない感情を持つようになった。
最後に、ルーズベルトは外交政策の顧問であるスプリング-ライス(Cecil Spring-Rice)から露日戦
争で日本が勝利する方が米国の国家利益にとってより良いという助言を受けた。
ライスの助言によりルーズベルトは日本を積極支援し、1905年7月、韓国を日本に譲渡しながら
フィリピンを保護する反韓、親日政策を実施することになった。
カン・ジョンイル韓半島中立化研究所長
URLリンク(www.newscj.com)
ソース:ニュース天地(韓国語) [韓国近代史紀行]ルーズベルトの反韓と親日政策
URLリンク(www.newscj.com)