【韓国】 広開土大王碑文を読む~帯方界は今の平壌ではなく、北京・天津付近だった[02/07]at NEWS4PLUS
【韓国】 広開土大王碑文を読む~帯方界は今の平壌ではなく、北京・天津付近だった[02/07] - 暇つぶし2ch1:蚯蚓φ ★
12/02/08 23:59:32.17

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▲5世紀の東アジア地図(ピンク:高句麗、オレンジ:百済、黄緑:北魏、青:南斉)
(百済の初期の都の地は地図で帯方と表示した今の天津付近だ(赤丸)。帯方の東側に楽浪があ
る。帯方が大同江流域ならその東側になぜ楽浪がありえるのか。地図で遼東百済(地図中央のオ
レンジ色)と江南百済(地図下方のオレンジ色)は領土概念で見るのではなく拠点都市を中心に影
響力が及ぶ所で理解するべきと見る。)

十四年甲辰 而倭不軌 侵入帶方界 □□□□□石城□連船□□□ 王躬率□□ 從平穰 □□
□鋒相遇 王幢要截刺 倭寇潰敗 斬殺無數.

永楽14年条の翻訳で核心は對方界の位置だ。これが今の平壌(ピョンヤン)付近なら教壇史学者
たちの漢四郡位置比定に非常に近い。しかし、これは数多くの矛盾を内包し事実を反映していな
い。對方界は北京、天津付近という在野史学者が正しい。

ソン・ジョンソンは『三国史記初期記録』で帯方界を今の北京、天津、遼西地方と見る。ここは百済
の初期建国地だ。これは多くの在野史学者が教壇史学者を植民史観の歴史歪曲に捕らわれてい
ると指摘する時、主張する場所だ。私も在野史学者の立場だ。

温祚が国を建てた場所がどこか正しくわからなければこの議論は無意味になる。温祚は今の大
韓民国のソウル流域に建国したのではない。今の中国の天津付近に国を建てた。『三国史記』温
祚王13年条に温祚王が臣下に言うことに、国の東に楽浪があり北には靺鞨がある(王謂臣下曰
国家東有楽浪、北有靺鞨)。この年は温祚の母が享年61才で逝ったからだろうか、国の根元がこ
ちらとかこちらだけは守れと頼んだという話だ。

百済は日食観測記録を残す。その記録を土台に観察地域を推測すると最適観測地が渤海湾西
岸の挟まったところになる(パク・チャンボム『天に刻んだ私たちの歴史』)。『北史(659)』、『隋書
(636-641)』には百済は初め帯方の過去の土地に国を建てた(始立国于帯方故地)とある。『周書
(635)』百済伝には仇台という人が初めて帯方に国を建てた(有仇台者始国於帯方)とある。

それでは百済はいつまでそこにあったのか。3世紀末の百済責稽王(286-298)まではこちらが百
済の土地だった。百済が漢江付近に移った後、3世紀末または広開土大王が活躍した4世紀末ま
たは5世紀始めまでも保有していたかは分からない。(中略)

この後、東城(トンソン)王(479-501)は天津一帯の遼東百済だけでなく長江流域から越南(ベトナ
ム)まで達する江南百済、日本には飛鳥百済など広開土大王より広大な帝国を建設する。百済の
阿莘王(392-404)は応神天皇に日本の支配権を渡す。その条件で伽耶の支配権を受けたが403
年返還する。その代わり応神天皇に日本にある倭軍を借りて天津流域の遼東百済を復旧し大帝
国を成し遂げるという野望を表わした事件だ。広開土大王は自身の実家があった土地だから許容
できず、両者が衝突した事件だ。-以上ソン・ジョンソンの『伽耶、百済そして日本』要約

中国の東海岸に百済が国を建てたというソン・ジョンソンの主張は特に新しくはない。私はこれを
大部分受け入れる。
(後略:石碑の平穰は北朝鮮の平壌と字が異なるので違う場所と主張)

ソース:プレシアン(韓国語)抜粋
広開土大王碑文の翻訳と読む24-伽耶百済聨合軍、帯方(北京、天津)の戦いに敗れる
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