【歴史】魏に朝貢したのは、遼東・朝鮮を支配する公孫氏が滅ぼされた翌年だった…「三国志」を冷静に見つめた卑弥呼の国家戦略[1/28]at NEWS4PLUS
【歴史】魏に朝貢したのは、遼東・朝鮮を支配する公孫氏が滅ぼされた翌年だった…「三国志」を冷静に見つめた卑弥呼の国家戦略[1/28] - 暇つぶし2ch1:諸君、ていうかお前ら!? φ ★
12/01/28 13:05:48.84
 「来年は日中国交正常化40周年。国民感情の改善を図っていきたい」。昨年11月、中国を訪れた玄葉光一郎外相は
温家宝首相らと会談し、友好関係をアピールした。しかし会談に合わせるかのように、中国艦艇6隻が沖縄沖の公海を航行。
硬軟織り交ぜた外交戦略が垣間見えた。

 歴史の節目を迎えた両国関係は、はるか1800年前、日本が倭(わ)と呼ばれていた時代にまでさかのぼる。それは近年の
発掘調査で明らかになってきた。

 女王・卑弥呼(ひみこ)が君臨した邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で1年前、
卑弥呼の宮殿かと話題を集めた大型建物跡から約3千個の桃の種と、土から桃の花粉を検出。建物周辺に桃の木が植えられ、
「桃源郷」をイメージした宮殿だったことが分かった。

 桃は古代、仙人の食べ物とされ、中国の宮殿には桃園があったという。纒向遺跡の大型建物跡も、中国の宮殿を模倣する
ことで威厳を示そうとした可能性が浮上。そこには、卑弥呼のしたたかな国家戦略があったと見ることができる。

 卑弥呼が活躍した2~3世紀、倭は北部九州と畿内の2大勢力をはじめ、東海や出雲(島根)などが台頭した群雄割拠の
時代で、邪馬台国もその一つ。魏志倭人伝では卑弥呼は諸勢力が「共立」した女王とされ、政権基盤は決して盤石ではなかった
ようだ。

 そこで、卑弥呼が頼ろうとしたのが中国の威光だったと見るのは、近藤喬一・山口大名誉教授(72)=東アジア考古学=だ。
当時は魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)がしのぎを削り、魏の曹操(そうそう)や蜀の劉備玄徳(りゅうびげんとく)ら英雄が覇を競った。
中でも優位にあった魏を、卑弥呼が外交相手に選ぶことは十分あり得た。

 魏に朝貢した「景初3(239)年」は、卑弥呼が東アジア情勢を見極めていたことを示す重要なカギといえる。この前年、中国・
遼東半島から朝鮮半島北部の豪族で、倭と中国の交渉窓口だった公孫氏(こうそんし)が魏に反旗を翻して滅ぼされた。

 「卑弥呼にとって公孫氏の滅亡は決して対岸の火事ではなかった。今度はいつ自分が攻められるか危機感をもったに違いない」
と近藤氏。中国に恭順の意を示すため朝貢したのは、公孫氏滅亡の翌年だった。「外交はひとつ間違えば国の存亡にかかわる。
卑弥呼はそれを知っていた」

      ■ ■ ■

 景初3年は、日本の古墳から出土する銅鏡「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」の銘文に刻まれるなど、邪馬台国
ロマンのシンボルだ。魏志倭人伝は、魏が鏡などを下賜して「国中に示せ」としたと記す。政権に不安のあった卑弥呼は、中国皇帝
の権威を帯びた鏡を配ることで、国内統治を図ろうとした。三角縁神獣鏡は瀬戸内や日本海側で多く出土しており、大陸への
重要な海上ルートを確保した証しともいわれる。

 三角縁神獣鏡は中国で出土していないことから、魏の下賜品ではなく日本製との説もあり、考古学界最大の論争となっている。
しかし近藤氏は「倭人伝に詳細に記された鏡が発掘で見つかっている。魏との関係は無視できない」とする。

 東アジア情勢を敏感に察知し、中国の権威を内政に利用した卑弥呼。現在の「弱腰外交」に通じるようにも見えるが、自らの
国力と大陸の脅威を冷静に見据えた厳格な政治判断があった。近藤氏は言う。

 「なぜそんなことをしたのか。国を造らなければならなかったからだ」

     ◇

 尖閣問題など日本の外交力が問われるなか、連載最終章として外交史を踏まえた国のあり方を考える。

ソース(MSN産経ニュース) URLリンク(sankei.jp.msn.com)
写真=3世紀の東アジアの勢力図
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
写真=卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡=奈良県天理市の黒塚古墳
URLリンク(sankei.jp.msn.com)


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