12/01/17 22:10:51.14
URLリンク(image.chosun.com)
昨年4月末、米国コロンビア大で一生を日本研究に捧げた老学者の最後の講義があった。日本
文学・歴史に関する著書が三十冊を超え外国人として初めて日本文化勲章を受けた九十才のド
ナルド・キーン教授が教壇に立った。全日本国民が3・11東日本大地震の悲しみから抜け出せず
にいる時であった。キーンは「今こそ日本に対する私の変わりない愛を見せる時」として「日本に帰
化して永住する」と明らかにした。
▲キーンは十八才の時、ニューヨークの古本屋で日本古典小説「源氏物語」の英訳本を買ったの
が縁になって日本文学に引き込まれた。彼は「私は日本と結婚した」と口癖のように言い、日本研
究に一生をかけた。そのような自分を日本人たちが外国人扱いすることが不満だった。彼は「いつ
までたてば私がすることを日本文学の'紹介'でなく'研究'と言うのか」と不機嫌に言ったこともある。
第二次大戦後、敗戦国日本の文化が米国・ヨーロッパの読者らに身近になるとキーンと共に中国
文化圏の中で日本文化の独自性を強調したライシャワー、小説「雪国」を英語に移して川端康成
にノーベル文学賞をもたらしたサイデンステッカーなどキーンの先輩たちの役割が大きかった。
▲中国はアーサー・ウェイリー、ジョゼフ・ニーダムといった解説者を持っていた。「詩経」の難解な
漢詩はウェイリーの指先を経て英語の服を着て生まれ変わった。大学で生化学を専攻したニーダ
ムが道を変えて中国科学史研究に情熱を傾けなかったならば、ヨーロッパで中国科学文明が評
価を受けるまでさらに多く時間がかかっただろう。
▲フランス学者ロラン・バルトが書いた「記号の帝国」には「東京は中心部がガランと空いている都
市」という言葉で始まる。バルトは東京のまん中にある日王の王宮を「神聖なる無」といった。この
本は西洋人が書いた最も短いながら最も卓越した日本文化解説書と呼ばれる。
▲30年余り、退渓・栗谷・茶山を研究してヨーロッパに知らせるのため献身したフランス人フィリッ
プ・ティエボー世宗(セジョン)大教授が先週末、亡くなった。旧韓末から今日に至るまで韓国を研
究した外国人は多いが韓国の精神文化は西欧人に相変らず不慣れだ。韓国文化が言語の障壁
を越えて世界へ出ていくには「韓国文化に魅せられた外国人研究者」という飛び石がなければな
らない。そのような芽を探して育てることが、私たちが引き受けなければならない役割だ。
キム・テイク論説委員
ソース:朝鮮日報(韓国語) 【萬物相】フランス教授の韓国学研究30年
URLリンク(news.chosun.com)