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>>1の続き
米軍の代わりをした日本人‘キーセン観光’
1960年代に登場したパク・チョンヒ政権は‘革命公約’で売春取り締まりを強化すると公言した。 1961
年に制定された‘売春行為等防止法’は新しい政権の意志を示した。21条からなる売春行為防止法は
国家の売春禁止原則を再確認したものだった。しかし翌年6月、保健社会部は全国104カ所に売春を
許容する‘特定地域’を設置し、その内 9カ所をソウルに割り当てたと発表した。一つの口から二つの
言葉は簡単に出てきた。
国家はなぜ売春禁止原則を守れなかったのだろうか? 1961年交通部企画調整官室が出した公文書
を見ればそこに答がある。公文書は「現在、我が国で最も容易に誘致できる観光客は駐韓国連軍」とし
て"外国人相手ホステス"を対象に教養講習を推進するという内容が含まれている。当時、米軍兵士は
主に日本や香港に休暇に出かけていた。
1961年3月13日<東亜日報>は“我が国により多くの外貨を落とさせるという見地からすべての消耗品
を国産で充当することが理想的かもしれないが…酒も外国酒、裸になった女の子も外国のお嬢さん、
その上外貨まで使うとは…”と嘆いた。国家の先決課題は‘裸になった女の子’を‘国産’に代えるとい
うことだった。 1962年4月25日付<ソウル新聞>はソウル市警が“4千人に及ぶ観光接客営業所(ダン
スホール・キャバレーなど)のサービス ガールたちに対する接客業務教育を実施”したとし、その理由
が“外国人により効果的なサービス”を提供するためのものだったと報道した。