13/03/10 07:26:17.58 P
(>>1からの続きです)
―今回、西陵側の難しいルートに初挑戦しましたが、詳しくはどういう状況でしたか?
栗城:1963年にアメリカ隊が初登頂したルートです。ぼくのこれまで3度の挑戦では、
キャンプ3(C3)までしか行けませんでしたが、今回は初めてキャンプ4(C4)まで行くことができて、
あとは頂上へアタックをかけるだけだったんです。そこまでは体調も良く、あとは風が問題でした。
秋季が難しいのは、ジェットストリームという強風が、長いときは2週間ほど続きます。
今回は、ジェットストリームが弱まるときがあるとの予報があったので、このルートで
頂上を目指すことにしたんです。
ぼくがアタックする2日前にはポーランド隊の人達が、ローツェというエベレストの南峰に
アタックして2人飛ばされ、1人は亡くなっていたり、単独で登ってC3で断念した人もいました。
その次のぼくは、7200m地点で風が収まるのを3日間待ち続けていました。C4の7500m地点に行ったときには、
風は少し収まっていたので夜7時に出発しました。うまくいけば翌日のお昼過ぎに登頂する予定でしたが、
夜中にどんどん風が強くなってきてしまって…。朝方、ホーンバインクロワールと呼ばれる雪の溝、
氷の壁の入り口の手前で、強い壁がドーンとぶち当たってきたように前に飛ばされるなど、
2回、体が飛ばされそうになりました。ここで危険だと判断して下山を選んだんです。
―そのとき指の状況は?
栗城:指の感覚は無かったです。風が強いと凍傷になりやすいんです。
強風が吹くと体感温度がマイナス50度ぐらいになりますし、もうひとつは
低酸素の8000m地点だったので、心臓と脳に酸素や血を巡らせるために、
まず指先が細胞を閉じていったんですね。両手はすでに凍傷になっていて、
なんとかC4まで戻りましたが、その時はかなり危ない状況だと思っていましたので、
C2の6000m地点に4名ほどいた撮影をサポートするシェルパに救けを求め、
C4で合流して一緒に下りました。(>>3以降に続きます)