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ターザン山本のコラム(元週プロ編集長)
●映画青年だった私にとって大島渚はスターだった
1965年(昭和40年)、立命館大学中国文学部に入学。そのまま映研にはいった。
その時、私にとってのバイブルとは小川徹が編集長をやっていた雑誌『映画芸術』だ。
毎月、それを買って熟読していた。あの『映画芸術』がのちの『週刊プロレス』に化けたといってもいい。
大島渚は映画を自分の武器として考えていた。武器は大いに活用するしかない。
社会や世間や時代を挑発するためだ。
それまでの映画は日本人好みの「情緒」を中心にして表現されていた。
映画とはそういうものだと思われてきた。
お涙ちょうだい。あれだよ、あれ。そこを大島渚はぶち壊した。
映像体験は人々の意識にゆらぎを与える起爆剤になるという発想。
当然、スキャンダリズムがそこに加わる。
私はその考え方に強い影響を受けた。80歳だったかあ。冥福を祈るしかない。合掌。