13/01/14 12:57:11.38 kmfb+s1F0
**会津の薩長(とくに長州)への強姦と強盗の恨み**
会津の長州に対する恨みは、明治天皇即位に始まります。
孝明天皇時、会津は、幕府の懐刀であると同時に、
天皇からも厚い信頼を得ていました。
ところが、孝明天皇の御崩御(毒殺?)後、薩長が擁する明治天皇が即位すると、
会津は、 ”朝敵”扱いとなりました。これが、恨みの始めです。
次ぎは、和平交渉には全く応じなかった事。
そして、戊辰・会津戦争です。
老若男女を問わず殺し、
”分捕り”と名付けて、農工商を問わず土蔵の財産を全て奪い、
市井人の妻娘を捕らえて妾にしたり、強姦したり・・。
戦いの常とは言え、近代国家を謳う軍隊にしては、酷く、やりたい放題でした。
これを見ていた人々は、薩長を恨み、長くこの話を伝えました。
さらに、当時、殆ど不毛の地、青森の斗南藩に流されて、辛酸をなめました。
廃藩置県後も、薩長の政敵会津は、
大正時代まで賊軍として、いわれなき差別を受けました。
国立の高校・高専校も、 設置されませんでした。
薩摩には、西南の役で、少し仕返ししたので、やや、許せるものがあったとして、
長州に対しては、長く恨み を持つ事になった訳です。
(さらに、第二次世界大戦・太平洋戦争の時、仙台の師団長が山口県出身で、
会津や九州の兵は、激戦地に回された。そのため、犠牲が多かった。
と、新たな長州への恨みの種を見つける古老も、まだ、会津には居ます。)