12/08/28 11:07:57.82 0
だが「白ならいいが赤いのを着けよる。女の子が練習を見とるから、意識しよるんじゃ」。だからまた、怒鳴りあげる…。
全国的に有名校となって以降、徳島市や鳴門市などの中学から入学して寮生活を送る部員が増えた。厳しい練習と私生活の締めつけに耐え切れず、実家に帰ろうとする部員がいた。
そんなときは、JR阿波池田駅で待ち伏せ。仁王立ちして寮に押し戻した。
この時期、部員の親からの苦情や退部者は少なかった。
「先生にお任せします。厳しく指導してください」。畠山や、1983年(同58年)のセンバツ優勝投手・水野雄仁(元巨人)の両親も、蔦に全幅の信頼を寄せていた。
それでも不祥事が起こる。1983年秋のことだったが、蔦は一度は監督辞任を決意。周囲からの慰留で翻意した。
「言うことを聞かん生徒が増えたが、3年間だけの我慢なんじゃ。生徒も甲子園に出たいし、ワシも出たい。だからお互いに耐えないかん」
老監督と高校生。世代ギャップに悩みながら、同じ夢でつながっていた。