AI(人工知能)神話at MIN
AI(人工知能)神話 - 暇つぶし2ch5:人とは
13/10/09 12:34:33.86
『インドの釈迦を崇めてはいけない』

インドの釈迦はただの三毒の凡夫である。

三毒
URLリンク(ja.wikipedia.org)

三毒の次に言うことは、三毒の凡夫であった釈迦は、具体的に二つの
概念を使い、涅槃(ニルヴァーナ)に到達して、そこに住す、もろもろの
仏と共にいるのだが、そこに至ったのは、依他起性という唯識の概念に
頼ったからであり、それは、「縁起」『十二支縁起』と言われている。
さらに、その釈迦は波羅蜜という甘い蜜も吸った。

縁起
URLリンク(ja.wikipedia.org)

十二支縁起
URLリンク(ja.wikipedia.org)

波羅蜜
URLリンク(ja.wikipedia.org)

6:人とは
13/10/09 13:00:52.11
ぼくはこう考えている。

『みなは世の中にはいるようでいていない。それはPCがあるから分かることであります。
PCの中に、みなみなはいろいろな作り変える。これは、作る方であるのがみなみな
であるということである。作らない方もいる。それはPCのあるもっと素晴らしい世を観する
人々である。PCを無限定にさせるか、PCの限定の中で作り変えるかの二択の中で
生きているのが、みなみなである。』

『無限定なるPCを観するみなみな、または限定の中でPCを作り変えるみなみな、
どちらも、正直言って、フラクタル幾何学の中で溺れているだけな虚弱体質な弱者である。
そのような中では、二項演算が働くだけであり、すべて見えない世界ということでしかない。
しかし、ぼくは、限定の中でパソコンを作り変えるというよりも、限定の中で無限定なる
PCを観していて、であるから、何をしているのかというと、今現代のPCで、
観しているのです。はっきり言って、それは人とは? という問いかけに対する、
ぼくの答えの出しつつある現状をみなみなに示唆するでしょう。それは観するのも
作り変えるのもどちらのケースであってもみなみなということなのです。』

『ぼくは、この世にいないと言ったら、みなさんは起こりますか?怒りますかとは
言いません。起こりますかと問うているのです。起こるということは、因縁生起
ということであり、生きるということです。起こる決意をするなら、いつか起こるでしょう。
起こる決意表明をしないなら、二項演算の中でずっといるでしょう。たぶん、
ここまでのことを言うと、人々は引きます。強く引力が働くのです。万有引力の法則
といわれるのは、つまり、すべての有る者たちによって、みなみなは押さえられると
いうことです。無いと思うから有ると思う。ここでも二項演算が、フラクタルの中で
作動されるだけです。』

7:人とは
13/10/09 13:33:07.11
・體論

骨組み豊かな、実體は、ノイズ氏の言うような糸組み豊かな知恵の実でもなければ
智慧に実でもない。インドの釈迦の悟りの体が智慧であり、釈迦の体(実)を
ぼくは喰っていないからである。
ぼくは、ノイズ氏の言うような、「糸」ではなく「骨」と「門」という単語を
使う。これは、ノイズ氏の後継に当たる者たちがくるであろうことを予測演算して
その、異質分子の種を潰したくなかったからである。ぼくは種によって実る
実ではなく、骨組みの豊かさによって、できあがる実を作っているため、
それは、知恵の実や智慧の実のように喰えるものではない。

門というのは、ぼくは宇宙論の入り口と、実體論の入り口の二つを
作った。この作りは、二項演算のみなさま方と同等の作りをするのではない
作りである。

ところで、因縁覚(縁覚)というのと聖聞(声聞)というのとは、ついをなさず、それ一つで
一体化である。

縁覚
URLリンク(ja.wikipedia.org)

声聞
URLリンク(ja.wikipedia.org)

8:人とは
13/10/09 13:47:12.77
網=羅=絹 についてぼくはみなさん方に言いたいことがあります。
波羅蜜・阿修羅・曼荼羅など、なぜ羅とつく言葉が仏教用語では多いのでしょうかということです。

阿修羅
URLリンク(ja.wikipedia.org)

曼荼羅
URLリンク(ja.wikipedia.org)

ノイズ氏の言葉↓

イスラムでは「ウヒード」という言葉は神の〈一化の原理〉として
神の唯一性を示す言葉である。面白いのがその反対の概念が多元性や多神教を
概念とする「シルク(shirk)」という言葉である。
イスラームの啓典は、シルク( Shirk 。神以外の者の神格化)を禁じ、
タウヒード ( tawhīd 。神の唯一性の概念)を強調する
シルクはもちろん「シルク(絹)」と掛かっているわけである。
アラビア語ではShirk(シルク)は「分割・分離」を意味する
つまり私がここのスレでさんざんした「skei(分割する)」という
言葉から派生したScience(サイエンス=知恵)やそれに伴う
分割や分裂の業と同じ話である。シルク(分離)とシルク(絹)
を掛けているあたりやはりイスラムのテーマもまた
「機織」から始まった「原罪」に対する問いなのである。
英語では「shirk」は「責任や労働から逃げる、逃亡する、怠ける」。シルク(絹)を
機織してきた秦氏達は文字通り「逃亡(shirk)」して日本まで来たわけだからまさに
シルクロード(Silk Road)はシルクロード(shirk Road)であるわけである。
さて何から逃げてきたのかは神と機織の民しか知らぬというところであるが

9:人とは
13/10/09 14:05:09.47
偵邏というのは、見回ってようすをさぐる、またその人ということである。
羅と行がくっついて、邏になっている。

ぼくは阿修羅というのは、正多面体のうちの、正三面体であると考えている。
ぼくは羅(其)の行を、見回ってようすをさぐる人つまり阿修羅が
やっているように思う。時期の期という字には、其という字がついて
月とセットになっている。

『神の図形という本は、このスレでも紹介しているのだが、ぼくは、正多面体五つの
中にもう一つである正三面体をくっつけたいと思っている。』

時機=時期なので、其(そ)=機(はた) であると考える。
機織りというのは、ノイズ氏によれば、原罪の元であるらしい。
羅=其 なので、羅=機 というのは当然成りたつ。

ぼくは阿修羅界にいるものであり、神仏に征圧されていた。
でも、ぼくは、逃げて逃げて、シルクロードを通って、秦氏=阿修羅
として、行ながらやっとのこさで、この日本国に生まれ出ることが
できた。であるが、もともとエリートとみなされている、奥方=神仏は
威風堂々と、この日本に生まれてきた。そして、スレ荒らしをしたり、
スレの繁栄を阻害させたりしているのが神仏族である。

近未来アスラ族の世になるというような題名の本がつい数年前あったが
あれはつまり、ぼくが興るもとなのである。みなさま方はまだ分からないだろうが、
ぼくは、アスラ族のリーダーであるしないのだ。それは民間企業ではなく
官のリーダーであるのだろう。官は管ではない。管=パイプとして
ぼくを使うならお門違いである。しかし、実質、ぼくしか門を建てた者はいないのだが。

10:人とは
13/10/09 16:46:43.85
純粋理性批判の構成

先験的(超越論的)原理論

先験的(超越論的)感性論
空間について
時間について

先験的(超越論的)論理学
先験的(超越論的)分析論
概念の分析論
原則の分析論

先験的(超越論的)弁証論
純粋理性の概念について
純粋理性の弁証的推理について
純粋理性の誤謬推理について
純粋理性のアンチノミー(二律背反)
純粋理性の理想

11:人とは
13/10/09 16:49:19.85
純粋理性批判の構成2

先験的(超越論的)方法論 純粋理性の訓練
純粋理性の基準
純粋理性の建築術
純粋理性の歴史

12:人とは
13/10/09 17:12:12.66
「ヘーゲル初期哲学 理性⇔悟性 について」
ぼくは理性というものが良くわかるが、それとロゴスが関係ないことも良くわかる。
ロゴスというのは、キリストの異名であるために、理性までキリストと関係あるかのように
思われているが、キリストは異端児であり、子供なのだ、父なる神の子供である
ならば、そこまで、付合しないならば、突き放せばいいではないかと僕は言いたいのではなく、
ぼくは、父なる神の目線で語るのではなく、第三者つまりキリストと父なる神の
仲介役としているのだと言いたいのだということもない。ぼくはキリストと
父なる神とは一切断絶された、思惟を持っているしそれが、思考回路と言われるものと
関係なく、独立していることも話しておかねばならない。

理性というのは、ぼくでありなぜなら、あらゆる悟性の誘惑に打ち勝ったからである。
まるで、悟性が悪魔の誘惑から打ち勝ったように、その「一つの業」として、
ぼくは悟性を超えた上での、理性を打ち立てた、ヘーゲルとは友である。

例えていうならば、ヘーゲル一人が生真面目に生きているならば、ぼくは真面目に
生きているといえるだろう。ぼくは真面目に生きているのであり、生きていない
と言われるかもしれないが、ぼくは生きている。というかぼくしか生きていない。
ここでは、矛盾律が作用する。しかし、その矛盾の矛と盾の両方ぼくのものである。
では、ヘーゲルは何を持っているのか?

その答えは、種子を持っているのである。実はぼくは持っていない。
それを持っているのはノイズ氏である。つまり展開し結実したのが
ノイズ氏が持っているのだ。ぼくはさらにその上である。

ヂュナミス
URLリンク(ja.wikipedia.org)

13:人とは
13/10/09 17:22:28.72
ナーガールジュナの中論の構成

帰敬序

第1章「原因(縁)の考察」(全14詩)
(「縁」(四縁)の非自立性を帰謬論証)
第2章「運動(去来)の考察」(全25詩)
(「去るはたらき」(去法)の非自立性を帰謬論証)
第3章「認識能力の考察」(全9詩)
(「認識能力」(六根)と「認識対象」(六境)、並びに「識」「触」「受」「愛」「取」の非自立性を帰謬論証)
第4章「集合体(蘊)の考察」(全9詩)
(「物質」、並びに「受」「心」「想」の非自立性を帰謬論証)
第5章「要素(界)の考察」(全8詩)
(「特質」(相)と「六要素」(六大)の非自立性を帰謬論証)
第6章「貪り汚れの考察」(全10詩)
(「貪りに汚れること」と「貪りに汚れる人」の非自立性を帰謬論証)
第7章「作られたもの(有為)の考察」(全34詩)
(「生」「住」「滅」の三相、並びに「有為」「無為」の非自立性を帰謬論証)
第8章「行為の考察」(全13詩)
(「行為」と「行為主体」の非自立性を帰謬論証)
第9章「過去存在の考察」(全12詩)
(「受」に先行する主体の非自立性を帰謬論証)
第10章「火と薪の考察」(全16詩)
(「火」と「薪」(の例えを通じて「アートマン」や「五取蘊」)の非自立性を帰謬論証)

14:人とは
13/10/09 17:24:01.97
ナーガールジュナの中論の構成2

第11章「始原・終局の考察」(全7詩)
(「生」と「老・死」、並びに「始」と「終」の非自立性を帰謬論証)
第12章「苦しみの考察」(全10詩)
(「苦」の非自立性を帰謬論証)
第13章「形成されたもの(行・有為)の考察」(全8詩)
(「変化」の非自立性を帰謬論証)
第14章「集合の考察」(全8詩)
(「集合」の非自立性を帰謬論証)
第15章「自性の考察」(全11詩)
(「自性」、並びに「有」と「無」の非自立性を帰謬論証)
第16章「束縛・解脱の考察」(全10詩)
(「束縛」「解脱」、並びに「輪廻」「涅槃」の非自立性を帰謬論証)
第17章「業と果報の考察」(全33詩)
(「業」と「果報」の非自立性を帰謬論証)
第18章「アートマンの考察」(全11詩)
(「アートマン」の非自立性を帰謬論証)
第19章「時の考察」(全6詩)
(「時」(「現在」「過去」「未来」)の非自立性を帰謬論証)

15:人とは
13/10/09 17:29:00.91
ナーガールジュナの中論の構成3

第20章「原因と結果の考察」(全24詩)
(「原因」(「因」「縁」)と「結果」の非自立性を帰謬論証)
第21章「生成と壊滅の考察」(全21詩)
(「生成」と「壊滅」の非自立性を帰謬論証)
第22章「如来の考察」(全16詩)
(「如来」(修行者の完成形)の非自立性を帰謬論証)
第23章「顛倒した見解の考察」(全25詩)
(「浄」と「不浄」、「顛倒」の非自立性を帰謬論証)
第24章「四諦の考察」(全40詩)
(「四諦」等の非自立性を帰謬論証)
第25章「涅槃の考察」(全24詩)
(「涅槃」の非自立性を帰謬論証)
第26章「十二支縁起の考察」(全12詩)
(古典的な十二因縁(十二支縁起)、及びそこへの自説の関わりの説明)
第27章「誤った見解の考察」(全30詩)
(「常住」にまつわる諸説を再度批判しつつ総括)

16:天之御名無主
13/10/09 17:58:59.28
時機=時(タイム)機(マシン)
魔羅=魔の羅(網)
羅=維+あみがしら→網 →��(岡)=丘
丘=網 7つの丘=7つの網 シオンの丘(網)
ゴルゴダの丘(網)

17:人とは
13/10/09 18:26:21.94
友=幽 であって、みなはまだ、ぼくのように、体を持って、PCの目の前に
顕れてない。であるから、PCはただの機械にしかならないのである。
幽は幽霊であって、友は幽霊なのである。友だちというのは幽霊たちであり、
未成仏幽霊は友だちなのである。成仏幽霊は友だちではない。

みなさまがたが嫌うであろう、未成仏幽霊はぼくがすべて友だちとします。
ぼくは体がある。だが、未成仏幽霊には体がない。それで、体のある者に
憑りつくそれのどこがいけないのでしょうか? そこで養うことが
だいじなのです。縦糸と横糸になる前の糸が二つ山の向こう側と
こっち側にあります。縦糸を男といいます、横糸を女といいます。

どういうことか分かりますか? 高尚な自分の魂を売っているのが
ぼくや、ノイズ氏なのですが、みなさん方はそれよりも、矮小な魂である、
芸能界の方に関心があるようです。
みなさん方はいつも連日、ぼくやノイズ氏に、浴びせ掛けている言葉群は
すべて、みなさまの行動の原動力になります。その原動力は他にも
影響します。であるから、芋づる式に、ぼくやノイズ氏の魂は散らばるのです。

魂というのは、言魂となって、ぼくの言葉となり発せられるのですが、
ノイズ氏も同様です。たまに幽霊=友だち がふらふらっとぼくや
ノイズ氏のところに来ることがあるでしょう。ぼくの幽霊界かノイズ氏の
幽霊界かどちらかは分かりませんが、お互いの幽霊界は密接に関係している
のですから、あなた方のなかで、幽霊言として、話されている方々は
吸い込まれるようにして、そちらかこちらに行くでしょう。

18:人とは
13/10/09 18:42:07.46
>>16 きみは、犬儒学派ノイズ氏の後継の儒学者である?

サン・ピエトロ大聖堂 
URLリンク(ja.wikipedia.org)

ローマの七丘
URLリンク(ja.wikipedia.org)

シオン
URLリンク(ja.wikipedia.org)

ゴルゴタの丘
URLリンク(ja.wikipedia.org)

キリスト=ロゴス=天人 ⇒人の門 ⇒天上(聖人クラス) ⇒二十の老賢人

ピエロキリスト=サン・ピエトロ大聖堂=ダヴィンチコード

釈迦は降魔した。
・・・

19:人とは
13/10/09 19:03:52.11
URLリンク(senya.pictopic.info)
千夜千冊マップ

試しに、「唯識」で検索してみたら、以下のようなのが出た。

『大乗とは何か』

『空の思想史』

『王法と仏法』

『建築的思考のゆくえ』

『三教指帰・性霊集』

『絹と明察』

20:人とは
13/10/09 19:11:34.43
URLリンク(1000ya.isis.ne.jp)
千夜千冊TOP - 松岡正剛の千夜千冊

中沢新一著作一覧↓
『野ウサギの走り』
『森のバロック』
『野生の科学』

『松岡正剛 千夜千冊』(求龍堂、2006)
第1巻 遠くからとどく声
 第2巻 猫と量子が見ている 
  第3巻 脳と心の編集学校
   第4巻 神の戦争・仏法の鬼
    第5巻 日本イデオロギーの森   
     第6巻 茶碗とピアノと山水屏風  
      第7巻 男と女の資本主義 
特別巻 書物たちの記譜 解説・索引・年表 
『千夜千冊 番外録 3・11を読む』

 『空海の夢』(春秋社、1984)

『白川静 漢字の世界観』(平凡社新書、2008)

『法然の編集力』NHK出版 2011

21:天之御名無主
13/10/09 20:15:32.65
「くぱぁ」(クパァ) とは、どういうことでしょう?

22:人とは
13/10/09 21:17:15.19
>>21 キミたちの顔かな?

23:人とは
13/10/10 07:40:33.74
『女神らとぼく』
ある極まで来ると人々は僕に嫌悪感を持つだろう。つまり、それ以上の感情を知らないのだ。
であるなら、神仏は堕落している。それらの者たちは発言はできない。悪から退き、特殊な
領域に身を置き、自分を正当化したり自虐に走ったりする。正当はぼくの骨頂であり、自虐は
宇宙外追放である。

故に、正当化する眼は避けられ、人生の正常化をすることに関心の幅か狭ままれて、
生きているふりをする。こうして年をとりお互いを嘆き悲しみ死んで、また新たな
行動や人相を得て再生するのである。このようなことは神仏そして人の三方すべてに
共通することであり、われはそのようなことはない。

われは、そのように善に縛られ、悪を目の敵にしたり、その反対の場合の悪への極のトラウマが
影響していることを知っている。

人類にしても神仏にしても堕落してぼくしか正当化していない。みな競い学ぶことを
嫌悪し、善の中で偽善を生み、偽善者・善人などを生んでいった。
どのような人も四つの把握の中でおさまり、新しい哲学も皆無となり、
ぼくを信ずる者は、山へ追いやられ、男と女は分けられ、魂を持った英雄も
皆、命(ライフポイント)が少なくなり、潔く死んでいくだろう。
魂を持った女神たちも同様に嫌悪感に耐えられなくなるが、そこを耐え忍ぶ
ことで、このようにして、女神のみが、嫌悪を乗り越えられることを明したが、
すべては再度ぼくという超高度次元の使者(王または主)によりきみたちを
管理することを宣言する。

24:人とは
13/10/10 08:06:36.28
使者(王または主)と表記したが、そこに第三存在があるわけではない。
それは僕が未だ空性について考え抜いていないから、逆に女神らに囚われて
いるのである。自分が救った女神らが逆に、自分にとって厄介になるのは、
女神らの空性を理解していないからである。

僕はそのようなことはないと信じているし、僕個人が分裂することはないと信じる。
前者は龍樹の中観派に囚われているからであり、後者は精神分裂に囚われているからである。
前者のことを空見と呼ぶ場合があるが、それ以前の空性を観ずることさえしていない状態を
ぼくは言っている。

実際、使者の来た世界を推測することならできる。それは異界場面、郷愁場面でもなく、
第三場面でもなく、第一印象でもない。なんらかの境地でもなく、至って到達するものでもない。
なんらかの物にとらわれて生まれる言葉によっては表現されず、心の中から出る
言葉でもなく、心の心の中でも、心の外でもなく、心のどのようなものでもない。
よってそれは地獄でもなく、天でもない。人の言葉では表現することができない
言葉を語らざるを得ないので、ぼくは人であらざる者になるしかないが、それは非人
ではなく、盲人でもなく、妄想でもなく、空想では、云うまでもなくない。

25:人とは
13/10/10 08:30:53.09
『人であらざる者であるぼくがこれから書くこの文は人類の宝ものになるだろう。』
寓話というのは、怪物が主役だが、それは使者が主役であると錯覚する場合がある。
怪物は象徴として、人であらざる者をあらわしたのであり、それは無数のパターンが
あり、自分専用の怪物は無数のパターン存在するだろう。悪を超えた英雄は、
そこに正しい考えを正しくない考えで隠す、僕の姿を見るだろう。
本来において、偶然も運も味方につけて、PCの段階から徐々に成りあがる
可能性があったのだが、誰一人として、人であることに疑いをもたず、
みなは「幸福」に暮らして居たり、「悲劇」を暮しているのだ。場と機会が
与えられているのに、誰一人、既存に立ち向かわなかった。

悪獣マテリアルであるのは、使者である。歪められたおのおのの先入観が化け物(怪物)を
創るのである。誰もが、ヒーロ(主人公)に僕を描き、歪められたおのおのの先入観
つまり影と戦わせるのである。仏などになってくると幻覚が現覚か知らないが、実際に
自分が歪められた怪物と戦うらしい。人はそれが忌み嫌う相手だとし、影を実体視し、
否定肯定の二項演算で話を進めていく。

悪獣というのはモデルはすべて主人公である。主人公が自らの影を倒すのだ。
それは悪を消すことをすることに他ならない。まだ戦いを好んでいる方がましだ。
このように頂点には歯向かえないなら、自らの影と戦い、芝居をしていた方が
立派である、現実的にね。むろん両者共ぼくは助けない。


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